お芝居をしよう
リズはたしかに、厳しかった。レッスンはもちろん、基本的な礼儀作法についてもだった。
だが、その昔国立バレエアカデミーへの合格を成し遂げたという技術と知識は本物だった。彼女自身は動けなくとも、教え子への指導は的確で、レッスンを重ねるにつれリリーの動きの歪みは矯正され、苦手としていたゆったりとした動きも堂々とこなせるようになってきた。
その日、リリーはまだ日も差さない早朝に起きだして、ありったけの服を着こんで、バレエシューズをもって外へ出た。
「おじいちゃん、行ってくるね」
私が声をかけると、彼はベッドから首だけ上げてこちらを見た。
「もう馬車の時間か…? そうか、気を付けていくんだよ」
リリーはうなずいて、庭へ出た。こんな早朝に出るのは、万が一にでも遅刻したくないからだ。リズは時間に厳しい。リリーは凍えて足が止まらないようにせかせかと歩いた。頭の中には、今日のレッスンの事しかない。だから油断していたのだろう。後ろからつけてきた弟に気が付くのが遅れた。
「どこいくの、こんな時間に」
リリーは驚いて立ちすくんだ。
「ユ、ユーナ…ダメじゃない、寝てる時間でしょ」
「だって…普通に起きたらいつもリリーはいないじゃない」
ベッドから出たばかりなのだろう、弟はぶるぶる震えている。リリーは彼の肩に手をかけた。
「ほら戻ろう、凍え死んじゃうよ」
「リリーどこいくの」
「村だよ、ええと、仕事しに」
「なんで?」
ユーナは口を真一文字に結んできっとこちらを見た。簡単には引いてくれそうにない。リリーはため息をつきたくなった。遅刻は厳禁なのに。
「とりあえず、屋敷に戻ろう。ここは寒いよ」
リリーは彼を屋敷まで送り届けた。
「リリーも一緒じゃなきゃ中に入らないよ」
「無理だよ。君の母様に禁止されているんだから」
「こっそり入ればわかりっこないよ、大丈夫」
「…どうせばれるんだから、猫の時みたいに。そういう事はもう嫌なの」
ユーナは寒さに震えながらも引かない目でじっとこちらを見た。
「リリーがどこで何をしているのか教えてくれたら、部屋に戻ってもいいよ」
「何、バカなこといってるの。ほら、戻るよ」
「外に何か欲しいものがあるの? 言ってよ。僕がなんとかするから。リリーは外へ行く必要なんて、ないんだから」
私は薄く笑った。この子は本当に、外の世界を知らない子どもなのだ。
「いつかは出て行かないと。いつまでもおじいちゃんに頼るわけにはいかないし。だから自分でどうにかしなくちゃ」
ユーナは目を見開いたあと、リリーの両腕をつかんだ。
「なんで…? リリーはずっと、ここで暮らすんでしょ?僕たち家族なんだから。今はあそこにいるけど、部屋に戻ってこれるよう僕が母様を説得するから」
リリーは首を振った。
「あの人を怒らせるようなことしちゃダメだよ。私はいずれ…」
出ていくんだから。リリーは心の中でそう続けた。言わなかったのは、ユーナがどんな反応をするか、想像がついたからだ。なにしろ彼にとって、自分は唯一の遊び友達なのだから。それに早く出発もしたい。
「とにかく、部屋に戻ろう? 明日は一緒に遊ぶから」
「そのバレエシューズ、何に使うの?」
しかしユーナは、リリーの荷物を指さして言った。
レッスンを受けていることは、知られたくない。万が一母様に知れでもしたら。私はとっさに嘘をつい
た。
「予備の靴。私、これしか靴がないから…」
苦しい嘘だ。バレエシューズで雪道を行けるわけがない。ユーナは泣きそうに顔をゆがませてリリーを睨んだ。
「嘘つくリリーなんて、嫌いだ…でもいいよ、別に。リリーが言わなくたって僕はつきとめるんだから。母様が聞けば、レフだって正直に答えるはず。怒ってお仕事、取り上げちゃうかもしれないけど」
…おじいちゃんに、迷惑がかかる。それだけは嫌だった。
「嘘をついたのはごめん、でも、どうしても行かなきゃいけないの。お願い部屋に戻って」
「じゃあ今日帰ってきたら、もうどこにも行かないで。ずっと僕と一緒に家にいて。お母様のことは説得するから」
懇願するその目は、純粋そのものだった。彼はまだ子どもなのだ。相手の都合など関係ない。リリーはため息をついた。
「そんなの無理だって、わかってるでしょ。あの人は私が嫌いなんだから…。私たち、子どもだもの。親には逆らえない。ユーナだって母様の言う事を聞かなきゃ。だからいつも一緒にはいられない」
「大人になれば、一緒にいられるの?」
「そうだね。大人になったら、自分のこと、自分で決められるからね」
「じゃあ母様がダメっていっても、リリーと一緒にいていいのかな」
「うーん。ユーナが母様より強くなればね」
「強くなるって?」
「母様がユーナの言う事を聞くようになるってことじゃない」
「そっか…」
ユーナ考えこんだ。この機を逃さず、畳みかける。
「ほら、手が氷みたいにつめたいよ。早く中に入りな? 明日また一緒に遊ぼう、ね?」
リリーは玄関の2重扉を開け、ユーナを押し込んだ。中の暖かさに抗いきれなかったのか、考え事に熱中していたのか、ユーナはそのままおとなしく入っていった。
もう、あまり彼とかかわりたくなかった。だって遅かれ早かれ自分は出ていくのだ。仲良くすればするほど、彼は別れの時悲しむだろう。
次出るときは用心しないと。もっと出る時間を早めるかな…。そう考えてリリーはまた、ため息をついた。
◆◆◆
「ねぇ、母様」
「おや、どうしたんだいユーナ」
暖炉のそばの肘掛け椅子に座る母様の膝に、ユーナは頭をのせていた。指輪をたくさん嵌めた節くれだった手が、金の髪をなでた。
「まぁ、甘えん坊さん」
「僕って、まだ子供なの?今年で13歳になるんだけど」
「突然何をいうの」
「気になったの。いつになったら大人になるのかなって」
「そうだねぇ…あと数年もしたら、ユーナも大人になるんだね」
母様は感慨深げに言った。
「数年?」
「その時は、ちゃんとしたお嬢さんを、私が選んでやるからね。何も心配いらないよ。その人が男の子を生んでくれるだろうから、この家も安泰だよ」
「お嬢さん? 結婚するってこと?」
「そうだよ。母様はがんばって探すからね。大事なユーナのためだからねぇ。まずは家柄がよくないとね。それに気立ても。ユーナはこれだけハンサムなのだから、器量も良くないとねぇ…」
ユーナはにっこり笑った。
「大丈夫、僕、自分でぴったりの人を探すから」
母の顔の笑顔が、不吉にひきつった。良くない兆候だ。このまま放置すれば、発作が起こる。ユーナはいつものように母を安心させた。
「母様は、何も考えなくてもいいんだよ。僕、まだ頼りないかもしれないけど…ちゃんと母様のこと、守っていきたいんだ」
「ユーナ…本当に、立派になったねぇ…」
「うふふ、ありがとう母様」
感極まって涙ぐむ母を、ユーナはいつものように笑顔を張り付けて見上げた。
(いつから、僕はこんな風なんだろう…? でも最初から、そうだった。母様の前では嘘しか話したことがない)
それは嘘とは言わないかもしれない。しかし、たとえ些細な事でも、本当に思った事を言うと母は発作を起こす。発狂して手あたり次第にものを投げ、最後は自傷するのだ。
(だから、この人の前ではみんな嘘をついて、お芝居をしてる)
メイドも、自分も、きっと父もそうだったのだろう。母様に疲れて逃げたのが先か、父の浮気によって母様が狂ったが先か、どちらなのかはわからないが。もとより、どうでもいい事だ。自分の前ではずっと、母は狂っていたのだから。
(僕が――嘘をつかないで話せたのは、リリーの前でだけ。リリーも、僕に嘘なんてつかなかったのに)
母にいじめられて追い出されたせいで、外に行くなんて考えるようになってしまったのだ。ユーナは嘘笑いを浮かべたまま、考えた。
(今まで母さまにはずっと嘘をついてきたんだから…これからも嘘をついたって、同じこと、だよね)
本当の事を言っても母は発狂するだけ。だから、彼女の前では嘘をつく。嘘の目隠しで見えないようにして、そこで自分は本当に望むことをすればいいのだ。リリーとの会話が頭によみがえった。
(強くなる必要なんてない。母様を倒そうとするより…だましたほうが、きっとなにもかもうまくいく)
だからその準備を、しなくては。ユーナは嘘の笑顔を浮かべながら心に誓った。
(リリー、待っててね)