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僕の初恋

「さくらんぼね!」

 

ユーナは駆け出した。めったに自分の希望を言わないリリーが、初めてそんな事を言ったのだ。


「あった! あれがさくらんぼの木だよ」


 伸びきった芝生の上に、さくらんぼの木が連なって二人を迎えた。ずっと手入れされていないからか、木は方々に枝が伸び、青葉もまばらで花は見当たらない。リリーが少しがっかりした顔をしたのを見て、ユーナは木々の周りをまわって花を探した。


「あっ」

 

 細い梢の先に、わずかに雪がつもったように白い花がふわりと咲いているのが見えた。

 ユーナは梢を折ってリリーに捧げようと手を伸ばした。が、追いついた彼女が止めた。


「まって、折っちゃだめ」


 リリーは少し駆け足で来て、だけれどユーナの手をそっと押しとどめた。夜色の髪とサマードレスがふわりと揺れて、その目は真剣だった。まるで木の妖精に叱られたみたいに、ユーナははっとして枝から手を放した。


「そうだよね…せっかく咲いてるんだもんね」


 リリーはうなずいた。


「…摘んで部屋に飾るより、ここで咲いている方がきれいだよ」


 そういってリリーが微笑んだので、ユーナは目を見開いた。


「わ…笑った」


「え?」


「リリーが初めて笑った!」


 彼女の微笑んだ顔を見て、どうしようもないほど嬉しかった。

 春の早朝みたいだ。寒い風の中に少しだけ混ざった温かい空気。雪解けの下のクロッカスの蕾。

 とても貴重で、でもこれからきっとたくさん感じることができるはずのもの。

 感動のままに、ユーナはリリーを抱きしめた。細いけど、ひきしまってしなやかなその体を。


「わっ、どうしたの」


「リリーが笑ったのが、嬉しくて」


「そんなこと?」

 

 リリーの手がおずおずと、ユーナを抱きしめ返した。


「さくらんぼの木を見せてくれて、ありがとう。ユーナは優しいね」


 ユーナはどぎまぎしながら聞き返した。


「さくらんぼが、好きなの?」


「…そう。花は見たことがなかったから。いい匂いのする、綺麗な花だって、聞いてはいたけど」


「さくらんぼは美味しいもんね。僕も好き…」


 ユーナは顔を上げて、リリーの目を見た。近くで見ると、彼女の目の色は濃い金色に光って見えた。その輝きに、見とれてしまう。こんな近くで見るのは初めてだ。

 金の瞳に、頬は柔らかな花びら。そしてその唇は淡色のさくらんぼだ。ユーナは無意識に、自分の顔を彼女に近づけていた。


「リリー…」


 名前を呼ぶと、リリーは少し困惑した声で一歩後ろに下がった。


「ユーナ…?」


 彼女の肩をつかもうとした瞬間だった。バタンと窓が開いて、中から大声がした。


「ユーナ! ユーナはどこ!? あの子をどこにやったんだい!?」


「お、おちついてください奥様、お庭でお遊びです…」


 怒鳴る母に、なだめるメイド。二人はさっと木立の陰に飛び込んで、窓から身を隠した。


「ふぅ、あぶなかった…リリー、大丈夫?」


「大丈夫だよ。ユーナ、戻った方がいいんじゃない…?」


 あと、あと少しだったのに。つくづく口惜しかった。だけど彼女をこの手に抱きしめた。その感触を反芻しながらユーナは立ち上がった。


「たくさん咲いたら、もっといい匂いになるかな。真っ赤な実もなるかも。毎日様子を見にこようね」


「…そうだね」


 リリーはまださくらんぼの木を眺めていた。その顔はいつになく穏やかだったので、ユーナはうれしくなった。


 僕の姉。踊りの上手な女の子。彼女が来てから、ユーナは毎朝起きるのが楽しみになった。

 病気の母と二人きりの、息が詰まりそうなこの屋敷にやってきた、美しい救世主。


(ずっとリリーと一緒にいるんだ。僕が当主になれば…お母さまも逆らえないはず)


 ところが、冬になって状況が変わってしまった。彼女が小屋に移ってから一緒に過ごす時間がめっきり減った。

 ユーナは歯噛みした。あの子猫の事で母が怒ったとき、どうしてもっと早く母の部屋に助けにいかなかったのか。何度したかわからない後悔が、くやしく胸に渦巻いた。


「おや、坊ちゃん。どうされましたか」


 庭へ出ると、雪かきの道具を担いだ老庭師のレフが、後ろから声をかけてきた。


「ねぇ、リリーは?」


「そこらへんにいませんかね?」


「外に行ってるんでしょ? どこに行っているの?」


「さぁてねぇ……」


 ユーナは彼をじっと見た。落ちくぼんだ目に浮かぶ表情はいつも通りだ。だけど…彼はたぶん、嘘をついている。気難しいタチアナと、腫物を扱うように接する使用人たち。そんな大人たちに囲まれて育つユーナは、大人というものがどうやって本当の表情を隠してふるまうか、経験で知っていた。


「ね、どこいってるの?教えてよ」


「…そうは言われましても」


 レフの目が少し泳いだ。もう少しだ。と、その時。後ろの木立の陰からリリーが現れた。その足取りは重い。疲れているようだった。


「あっ、リリー! どこにいってたの」 


 ユーナはリリーに飛びついた。


「あ…ちょっと村に」


「こんな雪なのに、なんで村になんか」


「…いろいろ頼まれてて」


「そんなの断っちゃえばいい」


 リリーは首を横に振った。かぶったプラトークに積もった粉雪が、ふっと落ちた。


「そういうわけにもいかないから」


「ね、僕の部屋に来てよ。少し温まった方がいいよ」


 リリーはまた首を振った。


「そろそろ夕食の時間でしょ? 見つかっちゃうよ」


「だって…今日やっとリリーに会えたのに。もう帰るのは嫌だよ!」


 時間なのはわかっていたが、我慢できなかった。リリーは少しため息をついた。


「じゃあ玄関まで送るから。ね、それでいいでしょ」


「…うん」


 リリーが手を差し出したので、ユーナはしぶしぶその手を取った。


「…日が暮れるとすごく寒いね」


 歩きながらリリーは何気なく言った。


「うん…」


 ユーナは心から同意した。リリーを探して庭を歩き回って、体がすっかり冷えていた。


「大丈夫?」


「寒い…リリーがひどいよ。だってどこにもいないんだもの」


 リリーは黙って自分のマフラーを外してユーナの首に巻き、手袋を渡した。


「ほら、これもはめて」


「わ…ごわごわする」


「しょうがないでしょ、安物なんだから」


「でもあったかい、えへへ」


 ユーナは、リリーの首にいつもの鎖がないことに気が付いた。


「あれ、メダイのペンダントは?」


「あ…なくしたみたい」


 リリーは少し間をおいてそういった。ユーナは敏感に嘘の匂いを感じ取った。


「誰かにあげたの?」


「あげたりしてないよ。たぶん、どこかに落としたんだよ」


「ふぅん…じゃ、新しいのがいるね」


「え?いや、いらないよ別に」


「だってお守りだったんでしょ? ないと困るよ。悪い事がおこるよ。僕が新しいペンダントあげる」


 リリーは眉をひそめた。


「…それで母様の持ち物から拝借、なんてペンダントは死んでもごめんだからね」


「そんなことしないよ」


「大丈夫、新しいのはいらないよ。気持ちだけで」


 そういってリリーは元来た道を帰っていった。


「あ…マフラー返し忘れた」


 手袋もだ。ユーナはごわごわとした粗末な布を手に取ってながめた。リリーがつけていたもの。そう思うと、どんな取るに足らない物でも手放しがたかった。返さなければいけないと思いながら、部屋に戻ってからもずっとそれを手に取って放せなかった。

 寂しかった。前みたいに、一緒に居てほしかった。彼女が外で何をしているのか気になった。ざわざわと不安がユーナの胸を覆っていった。


(どうして、どこにいっているか教えてくれないの…?)


 そう考えて、当たり前の答えが頭に浮かんだ。


(外に友達がいるとか? 何の用があるんだろう?)


 友達ならここにいるのに。用なら自分が使用人に命じて、肩代わりさせてやるのに。行き場のないやるせなさに、ユーナはただ床をじっと見つめた。


(僕はただ、前みたいに一緒に居てほしいだけなのに)




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