勝手をしたら許さないから
突然の話に、リリーはぽかんとした。
「立ち上げたのはロシアだけど、うちの本拠地はイギリスなの。ロシアは今なにかと物騒だからね。だけどイギリスだけでなくヨーロッパやアメリカを回って公演しているのよ。自分でいうのもなんだけど、かなりの人気よ! 今は何と言ってもロシア・バレエのレベルが一番高いから」
「…そうなんですか」
「お給料だっていいわ。あなたの実力なら、私は今の2倍…いえ3倍は出すわよ。それだけ収益が見込めるから」
粗末なアパートの部屋をちらりと見まわして彼女は言った。
「どうかしら? もちろん、そちらから条件をつけてくれてもいいのよ」
「なんで私なんか? 私より上のバレリーナは、もっといますよ」
「もちろん、あなたの踊りが気に入ったからよ。あなたなら世界中の舞台で喝采を浴びることができるわ。それにね…他のロシア人ダンサーと違って、あなたは身軽そうだと思って」
「身軽?」
今のリリーからは程遠い言葉だ。
「ええ。少し調べさせてもらったけど、あなたは親族もいないし、しがらみもない。今までバレエ一筋でしょう。だからロシアを出るのに抵抗も少ないんじゃないかしら」
ロシアを出る。その言葉は、天啓のようにリリーの頭を貫いた。そうだ、すべてを捨ててこの国を出れば…。
「あの…お聞きしたいのですが」
「なにかしら?」
「ちょっと…あの、入団して、少しお休みをもらうことはできますか」
「どのくらいかしら?」
手術がうまくいけば、そう時間もかからず復帰できるはずだ。だが、どうなるかわからない。もしうまくいかなくて、体を壊した場合…
「状況によるのですが、その、今少し体調を壊していまして…治るまで」
イルマは少し首をかしげた。
「そうなの。もしかして、大病とか?」
「そういうわけではないのですが…」
「理由は言えない?」
リリーは逡巡した。ここで正直に言ったら、彼女はどう思うだろう? だけど言わなければ、話はなかったことになってしまうかもしれない…。リリーはじっと彼女を見た後、腹部に手をあててみせた。
「ちょっと…アクシデントがあって。それで手術が必要なんです」
勘のよさそうなイルマは、そのジェスチャーで察してくれたようだった。
「…そういうことね。ならわかったわ。でも、相手は? 一緒に来るつもりかしら?」
リリーは暗い顔で首を振った。彼女はしばし考え込んだ。
「手術のめどは立っているの? どこの医者?」
マリアに聞こえないよう小声で、リリーは医者の名を言った。
「聞いた事ないわ。そこ、まともな病院じゃないんじゃないの?」
「…たぶん」
「そんなの駄目よ。イギリスの良い医者を紹介するから、するならそこでしなさい。失敗が少ないから」
まさにわたりに船だ。だが、すんでのところでリリーはうんというのをためらった。
(これでいいの? ユーナからは逃げられるけど、マーガレットは? 彼女をおいて、一人でいくの? それで…いいの?)
駄目だった。マーガレットの事を考えると、とても決められなかった。
「ごめんなさい、とてもありがたいお話ですが、すぐには決められなくて…少し待ってもらっていいですか」
彼女は鷹揚にうなずいた。
「いいわよ。でも早く決めることね。タイムリミットがあるのはあなたもわかっているでしょう」
あの医者にも言われた。決められた期間を過ぎれば、手術はできなくなってしまうと。
「私の連絡先、わたしておくわね。明日にはもう出発してしまうから、決めたらイギリスの事務所に連絡してちょうだい」
名刺をおいて、彼女はきた時と同じようにさっそうと帰っていった。
相変わらず吐き気のする中、熱まで出て起き上がれない日々が続いた。頭に浮かぶのはマーガレットの事ばかりで、何も決められないまま時間ばかりが過ぎていく。焦りのせいか熱はなかなか下がらない。そんな晩、悩むリリーの元に招かざる客が訪ねてきた。
「リリー、どうしたっていうのさ。僕の誘いを断るの、2回目だよ」
脅しにきたのか。だが、今彼の相手をする気力はさすがにない。
「体調が悪いの。舞台も休んでいるくらいなのよ」
「知ってるよ。あの娘とも喧嘩別れしたんでしょ。ねぇ、入れてよ」
「いやよ。治ったらまた連絡するから、今は放っておいてちょうだい」
「心配なんだよ。顔だけでも見せて」
「お願い。今日は帰って。近所の人に怪しまれるわ」
マーガレットと2人で過ごした大事なこの部屋に、ユーナを入れるのはどうしてもいやだった。が、それであきらめるような彼ではない。
「大丈夫、少しドアを開けてくれるだけでいいから」
そのしつこさに、とうとうリリーは堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にして! 嫌って言ってるでしょ! 帰ってよ!!」
しばらくの沈黙のあと、彼は静かに言った。
「…そんなこと、僕に言っていいの?」
冷たい声だった。その声は、彼がリリーの弱みを握っていて、優位に立っていることを思い出させるには十分だった。リリーは吐き気をこらえながら仕方なくドアを開けた。が、リリーの目はユーナを飛び越して後ろへ向かった。今来たといったていのイヴァンが、そこに立っていたのだ。
「リリー、大丈夫か?」
リリーは固まった。二人で会っている所を彼に見られたくはない。だがイヴァンが現れてどうしようもなくほっとしたのも事実だった。
「イヴァン…な、何か用かしら?」
「何かって…ずっと休んでいるから見に来たんだよ。まだ調子、悪そうだね。そちらの方は?」
ユーナはちらりとイヴァンを見た。無機質な目だった。
「リリー、僕はまたあとで出直すよ」
あっさり彼が引き下がったので、リリーはほっと胸をなでおろした。が。
「君が数日前に、ハイベル通りのアパートを訪ねたの、僕は知ってるんだよ」
その一言で、リリーの背筋は氷のように冷えた。
「このことについて話そうね。もし勝手なことをしたら…許さないから」




