神様の操り人形
リリーをじっと見たあと、リズは言った。
「あんた本気なのかい?血反吐はいても、合格したいかい?そのくらいの意気がなきゃ、私は協力できないよ。かえって残酷だ」
リリーは前のめりになった。
「本気です。中途半端な気持ちじゃありません。絶対にバレリーナになりたいんです。どうかよろしくお願いします」
「そうかい…わかったよ。ただし、レッスン料はもらうからね」
「…おいくらでしょう?」
「そうだねぇ。週1回、3時間見るとして…1か月で5ルーブルが妥当かね」
リズの提示した金額は、一週間分の食費とほぼ同じだった。リリーは二の足を踏んだ。
「どうしたんだい?これっぽっちも、払えないのかい?」
「そ、そんな…ことは…」
リリーは唇を噛んでじりじり考えた。当然、一文無しだからだ。
「あのねぇ、世の中そんな甘くないよ。人に教えを乞うんなら、相応の対価を払わないと。でもまぁ…みなしご割引ってことで、レッスン料は半額にしてやろう。ただし、これ以上はびた一文まけないよ」
リズの言う事は尤もだと思った。リリーは慎重に考え、口にした。
「支払いを、待ってもらうことはできませんか?大人になって、私が稼げるようになるまで」
リリーは襟元をさぐってメダイを外した。
「それまで約束としてこれを預かってもらえませんか。…古いものですが、本物の金が使われていると母が言っていました。私が約束を破ったら、売ってお金にしてくれて、かまいません」
「ふん、なかなか殊勝じゃないかい。いいよ、持っててやろう」
リズはちらりと見てからそれを受け取った。
「借金には、担保がいるもんだ。初対面で信用してくれなんて甘ったれた事を言わないあんたは、子供にしちゃよくわかってるね」
リズはリリーのことを認めてくれたらしい。リリーは勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「週に一回、来るんだよ。遅刻は許さないからね、フン」
◆◆◆
最近、リリーは週に一回出かけている。リリーが庭の小屋に引っ越してすぐ、ユーナはそのことに気が付いた。
(今日もどこか行っているの……?)
小屋まで見に行ってみなければ。ユーナは不安にさいなまれていた。リリーと遊ぶことは、ユーナにとって唯一の楽しみだったからだ。
父が死んでから、入れ替わりのようにこの屋敷にやってきた女の子、リリー。彼女はそれまでのすべてを変えたのだ。
「よろしくおねがいします」
初対面の時、リリーはそう言って母と自分の前で頭を下げた。
ユーナは彼女から目が離せなかった。
彼女は聖堂の絵のような整った顔をしていた。だけれどまっすぐな黒髪と琥珀色の目は、遠い異国の風に吹かれる美しい人を連想させた。
頭を上げた彼女がふとこちらを見たから、ユーナは思わず微笑んだ。
彼女と仲良くなりたいと思った。
だが次の瞬間、母は彼女に手を挙げた。叩かれ床に転がっても表情を変えないその子を、ユーナはただ見ていることしかできなかった。
リリーはユーナや母の前に姿を見せないよう注意深く、だが規則正しく生活をしていた。朝は早く起きて庭に出ている。何をしているのか気になって、ユーナは彼女のあとをつけた。
木々に囲まれたひっそりとした場所で、彼女は踊っていた。
腕を小鳥のように広げ、走り、ふっと宙へと浮いて、くるりと回る。
その動きから目が離せなかった。ユーナは息を詰めてそれを見た。
(魔法みたいだ……!)
少しでも声を出したりすれば、彼女の見事な動きが壊れてしまうような気がした。
まるで、天から吊り下げられた糸が彼女をあやつっているようだった。
その時、ざざーっと強い風が吹いて木々を揺らした。雲の切れ間からまぶしい夏の日差しが彼女にさした。
――天から下がった、金色の糸が見えたような気がした。
衝撃を受けたユーナは、そのまま固まってしまった。
何だ?何なんだ、あの子は。人間じゃないのか?
そのままずっと見つめていると、彼女が動きを止めてはっとこちらを見た。
「あ…」
彼女はあわてて帰り支度を始めた。
「やめちゃうの?」
ユーナは思わず生垣を越えて、彼女に駆け寄っていた。彼女はかすかに眉をひそめた。
「…ええ」
ユーナは一歩前に出た。
「どうして? ね、もう一度やってよ」
「ただの練習だし…あなたと話しているのが、母様に知れたら…」
「大丈夫、母様には内緒にするから」
その日から、二人の交流が始まった。
彼女は物静かで、常に一歩引いたような控えめさがあったが、ユーナが始終そばにいても嫌がらず相手をしてくれた。
彼女と一緒にいるだけで、今までにないほど毎日が楽しかった。
そのうち、メイドたちのおしゃべりから、ユーナは彼女が自分の姉であることを知った。
「ねぇリリー、リリーがここに来たのは、リリーがの僕の姉さん、だから?」
少し沈黙したが、彼女は言った。
「そうだよ、知らなかったの?」
「うん。誰も教えてくれなかったんだもの。でもどういうこと?姉弟っていうのは、同じパパとママから生まれた子供のことでしょ」
彼女はうーんとうなった。
「そのへんは…いろいろあって」
彼女は言葉を濁したが、食い下がると結局折れた。いつも頼みこめば、彼女は聞き入れてくれるのだ。
「あなたのお父さんは、お母さんと結婚する前に、秘密で別の女の人と結婚していたの。それが私のお母さん…意味わかる?」
その話に、ユーナは特に驚きもしなかった。それほど自分にとって父は陰の薄い存在だった。けど、一つ発見があった。
「じゃあ、僕とリリーには、半分同じ血が流れているんだね」
「そういうことになるね」
そう言って、リリーは何気なく髪をかき上げてふうと息をついた。ユーナが驚いたり怒ったりしなかったから、少し安心したみたいだった。
ユーナはただ彼女の動作に見とれていた。
例えば歩いているだけでも、彼女は特別だった。黒髪をひっつめ、服装も地味で飾り気がない。
だけどまっすぐ背筋を伸ばし、風を切るようにしてさっそうと歩く。
その姿は、内側から光っているようだった。
それとは対照的に、座っている時の仕草は柔らかく控えめだ。
だけど指先までしなやかに、その手は本を開いたり髪を触ったりする。
――この体に、自分と同じ血が流れているとは信じられない。ユーナはふいに、彼女に触れたいと思った。その手を、握ってみたい……と。
「どうしたの?」
怪訝そうに彼女が聞いたので、ユーナははっとした。
「な、なんでもないよ」
リリーは空に目線を戻した。誰もいない遠い場所を見ているようだった。ユーナと一緒に過ごしていても、その心は、ユーナの知らない何かで占められている。だけどそんな彼女に、自分を見てほしかった。隣にいる自分を。
「リリー、今日はさ、裏庭へ行って遊ぼうよ」
「え…でも、裏庭は屋敷の窓から丸見えだよ。母様に見つかったら…」
「大丈夫、この時間母様はまだ寝てるから」
庭は手入れが行きとどいておらず、夏草が茂って歩きにくかった。子供の背丈で見ると、まるで朝の光に照らされた未開のジャングルのようだった。
しかし勝手知ったるユーナは、草を踏み分けて作った小さな道へリリーを案内した。冒険にはもってこいだ。リリーと一緒だと思うといつもよりわくわくした。
「母様が小さかったころはね、もっとずっと綺麗なお庭だったんだって」
「でも、今も花は咲いているね」
リリーは足元のレンガの花壇に目を向けていた。朽ちかけた支柱にからみついたバラが、花を咲かせていた。それを見て、彼女は少し嬉しそうな顔をした。
「リリー、花が好きなの?」
「花が嫌いな人なんているかな」
確かに母様も、花を持って帰ると喜ぶ。ユーナは良い事を思いついた。
「リリーの好きな花は、なに?」
「…一度さくらんぼの木を見てみたい。実がなってるかな」