表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/46

脱出の切符

「図々しい。お前の謝罪なんて、聞くだけでぞっとする」


「な…なんでもします、なんでも言いつけに従いますから、どうか…」


 可愛がった子猫を目の前で殺されるのは耐えられなかった。リリーは額が痛くなるほど必死で床に頭をこすりつけた。

 すると、そのみじめな様子に、母様の怒りが少し収まったのがわかった。


「なんでも?なんでもと言ったね?本当に従うのかい」


 せせらわらいながら、タチアナは探るように聞いた。


「…はい」


「ならお前、二度と私の目の前にその顔を出さないでおくれ。お前が同じ屋根の下にいるだけで神経に障るんだよ、私は」


「…はい、わかりました」


 タチアナは目を細めて不快さをあらわにした。


「はいってお前、簡単にいうけど、ここを出ていくあてがあるのかい」


 ない。しかしリリーの頭に、庭の隅の小屋の事が浮かんだ。そこへいけばタチアナと顔を合わせることはなくなるはずだ。


「…庭番の小屋に行こうと思います」


「ふん、そうかい。お前にしては、まぁいい考えだね」


 リリーは立ち上がって子猫を抱き上げた。


「さぁ、とっとと出て行っておくれ、今すぐにね。屋敷のものは持ち出すんじゃないよ」


「はい、わかりました」


 リリーはその足で荷物をまとめて庭へ出て、門まで向かった。

 またタチアナの目に触れてしまったら、次こそ子猫は殺されてしまうかもしれない。そうなる前に、放しておいたほうがまだましだ。

 リリーはそう自分に言い聞かせながら、寒い外へ出た。

 今にも雪が降りそうな空模様だった。子猫を抱えるリリーの手が震えた。この子は外で生きていけるだろうか…。


「ごめんなさい…元気でね…」


 門の格子から手を出し、リリーは子猫を抱いていた腕を下ろした。子猫は冷たい雪を嫌がって、下ろされまいともがいた。


「やだよね……寒いもんね……」


 震える声でつぶやきながら、リリーは無理やり子猫を下ろした。子猫はすぐさま腕の中へ戻ろうとよじのぼってきた。

 リリーは辛いのを我慢して、子猫を振り払い腹の底から声を出した。


「だめ!あっちいけっ!」


 大声に驚き、ショックを受けたように子猫は飛び上がり走り去った。

 外は寒いし、えさもない。無事に冬を越せるだろうか。もし凍死したら、自分のせいだ。

 胸が張り裂けそうだった。消せない後悔が、リリーの胸に焼き印を押したようにしみついた。


「ごめんね……」


 泣きそうな声で、子猫が消えて行った木々の向こうを見る。

 自分に力があれば。自由があれば。あの子を守ってやれたのに。

 門扉の鉄格子を握りしめながら、リリーはぎゅっと両目を閉じた。


(出ていきたい。出て行かなきゃ、この屋敷から)


 でも、どうやって。みなしごの女の子がこの極寒の地で一人で生きていくなど、不可能だ。

 しかし――リリーは一つだけ、まっとうに屋敷を出ていく方法を知っていた。


(お母さんがしたように……都の学校に通う。バレリーナになるための)

 

 乏しい荷物の中のバレエシューズを、リリーはぎゅっとにぎりしめた。


(そしたら、子どもでも、女の子でも――この屋敷から出ていける)


 それなら、その学校を目指そう。

 名前をつけられなかった子猫の存在が、リリーにその決意をさせたのだった。





「おお、リリー、もっとストーブの炭は少なくしとくれ」


「はい、おじいさん」


 庭の片隅の小屋で、庭師のおじいさん、レフとの生活が始まった。彼は無口で不愛想だが、優しい老人だった。

 リリーがこの屋敷から出ていきたいと話すと、リズの話を教えてくれた。なんでも昔、バレエダンサーとして都で生活していたらしいが、足をだめにして今は隣村に住んでいるという。


「わしとそう変わらんから、相当なばあさんじゃが、まだ生きてるはずじゃ。行って、学校なんかの話を聞いてみたらどうじゃ?」


 というわけで、リリーは週末、雪深い道を歩いて、リズがいるという家へと向かった。


「ん? 誰だいあんた」


 その家は、平均的なロシアの家族が暮らす家だった。玄関のドアから赤ん坊を背負ったおかみさんが顔を出して、怪訝な顔をした。


「リズさんはいらっしゃいますか」


 何かの使いかと思われたのか、おかみさんは特に警戒もせずリリーを家へと上げた。


「二階の突き当りの部屋だよ」


 リリーが向かった部屋の片隅には、ベッドに入って上体を起こしたおばあさんがいた。髪は真っ白で、体も不自由そうだ。だがその目の光は鋭く、彼女がやさしいおばあちゃんではなく、気難しく手厳しい老人であることが一目見てわかった。

 少したじろいだリリーに、何の前置きもなく彼女は言った。


「あんた、バレリーナ志望かい」


「えっ」


 思いがけない言葉に、リリーは一瞬かたまった。それを見て老婆はハハと歯のない口を開けて笑った。


「なんでって?ダンスをやる娘には印がついてるのさ。私にはわかるんだよ」


「どういう事、ですか?」


「まず立ち姿が、他の子と違うのさ。こんな田舎じゃ、娘はみんな猫背で縮こまってる。あんたは目立つね。ぴっと背筋が伸びてて、足どりは軽い。そんな子は、ダンスをしてるに決まってる」


 リリーは度肝を抜かれた。やはり彼女は、プロダンサーだったのだ。はやる気持ちを抑えて、リリーは言った。


「あの、私にレッスンを……」


 しかし老婆はそれをさえぎった。


「あんた、どこの子だい?この辺の子?」


「ええっと…レフおじいさんの、手伝いで」


「ああ、お屋敷の庭師のか。でもあのじいさんには、孫は男しかいなかったはずだけど…」


 リリーは目をそらした。気まずかった。


「面倒を見てもらっていますが…本当の孫じゃありません」


 リズはリリーの頭からつま先までさっと見て、深くうなずいた。


「はぁ~あ、そういう事かい、わかったよ」


 恥ずかしさに、リリーは思わずあとずさった。この田舎の村で、リリーは後ろ指をさされる存在だった。


「まぁお待ち。じゃああんたにダンスを仕込んだのは、おっかさんなんだね?」


「……はい」


 小さな声で、リリーはうなずいた。リズの目がキラリと光った。


「いずれこの田舎を出ていきたいって? バレリーナになって? そういうつもりで私んとこにきたんだろ?」


 その目に、嘲りの色はなかった。むしろリリーを見透かすような目だった。


「それで? 都会に出てどうする気なんだい。何かコネがあるのかい?」


「ないです……だけど、学校に行きたくて。ここから……出ていきたくて」


 言い返したリリーに、リズは真剣な顔で言い放った。


「それじゃ、あんたはそれだけのダンスができるってことかい?」


「それは……」


「あの学校は、この国すべての娘の憧れだ。ダンサー志望がみんなあそこを目指す。あんたより稽古を積んでいる娘も、貴族の娘だっている。その子らに勝ってやっていける覚悟と自信が、あんたにあるのかい!」


「私……は、」


 リリーの頭の中に、今は亡き母の顔が浮かんだ。

 

 ――母が生きていたころ、リリーは村のはずれの一軒家に、後ろ指をさされながら二人で暮らしていた。

 その家の暖炉の前で、繰り返し母は語った。

 お前は村を出なさい、大きな場所で自分を試しなさい。お父様は、そんなお前を援助してくださるから、と。

 母は優しいけれど、厳しかった。自分が身に着けた全てのバレエの動きを娘に叩き込んだ。

 母と娘、たった二人の小さな家は、閉じた稽古場でもあった。

 外に行くこともない2人は、古ぼけたレコードに合わせて毎日レッスンに明け暮れた。

 ……その時のリリーにとって、踊りは世界へ出る切符だった。


(この切符を、今こそ使うんだ!)


 リズの前でそう思ったとたん、抑え込んでいた気持ちが心の底から湧いて出た。


(ここを出て、自由に、なるんだ!)


 美しい透き通った純白のチュチュをひるがえし、踊るプリマ・バレリーナ。回転し、飛翔し、小鳥のように自由なその姿。割れるほどの拍手と喝采を浴び、輝くスポットライトの中で生きる人生。


(その舞台に、立ってみたい。輝くバレエの一員に、なりたい)


 妾の子。浮気相手の子。そう罵られてきた、みじめで鼻つまみ者の自分が、スターになるのだ。国中の皆の拍手を浴び、憧れられる、そんな存在に。


(それを目ざすのなら――まず、目のまえのこのおばあさんに、ダンスを認めてもらわなくっちゃ!)


 もう母はいないから、一人でやってみなければいけない。リリーは勢いよく頭を下げた。


「はい……! お願いします、私のダンスを見てもらえませんか」


 すると、リズはまんざらでもなさそうに、肩をすくめた。


「仕方ないねぇ。…じゃあ第一ポジション」


 考える前に、リリーはすっと両足のつま先を体の外側に向けた。ただ足先だけではない。足の付け根からつま先まで、すべて外側に開くのだ。

 たかが立ち方だが、このポジションを正しく表現できなければ一流のバレリーナにはなれないと厳しく母は言ったものだった。


「ポアント、アラベスク」

 

 その指示に従って、なめらかにリリーの体は動いた。懐かしい感覚だった。つま先立ちから片足を上げて、ピタリと空中で静止させる。リリーの足は床とほぼ平行に、まっすぐ伸びているはずだ。


「もうけっこう」


「えっ…」


 まだ何もしていない。リリーはとまどった。


「ピルエットや、ジャンプは…?」


「十分さ」


 見込みがないという事だろうか。リリーの心臓はバクバクと大きな音を立てていた。じっとリズの言葉を待つ。


「ふーーむ…」


 リズはフクロウのように目を閉じた。


「あんた、ずっと一人で練習してきたんだね?舞台も他のダンサーも知らないんだから動きが未熟だよ」


「私のダンスじゃ、学校に入るのは…難しいですか?」


「…でも、基礎がしっかりしてる。動きもダイナミックで華があるね。だから見込みがないとは、言わない。本気で猛練習すれば、試験に通るかもしれないね」


「お、お願いします、私にレッスンをつけてくれませんか?」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ