脱出の切符
「図々しい。お前の謝罪なんて、聞くだけでぞっとする」
「な…なんでもします、なんでも言いつけに従いますから、どうか…」
可愛がった子猫を目の前で殺されるのは耐えられなかった。リリーは額が痛くなるほど必死で床に頭をこすりつけた。
すると、そのみじめな様子に、母様の怒りが少し収まったのがわかった。
「なんでも?なんでもと言ったね?本当に従うのかい」
せせらわらいながら、タチアナは探るように聞いた。
「…はい」
「ならお前、二度と私の目の前にその顔を出さないでおくれ。お前が同じ屋根の下にいるだけで神経に障るんだよ、私は」
「…はい、わかりました」
タチアナは目を細めて不快さをあらわにした。
「はいってお前、簡単にいうけど、ここを出ていくあてがあるのかい」
ない。しかしリリーの頭に、庭の隅の小屋の事が浮かんだ。そこへいけばタチアナと顔を合わせることはなくなるはずだ。
「…庭番の小屋に行こうと思います」
「ふん、そうかい。お前にしては、まぁいい考えだね」
リリーは立ち上がって子猫を抱き上げた。
「さぁ、とっとと出て行っておくれ、今すぐにね。屋敷のものは持ち出すんじゃないよ」
「はい、わかりました」
リリーはその足で荷物をまとめて庭へ出て、門まで向かった。
またタチアナの目に触れてしまったら、次こそ子猫は殺されてしまうかもしれない。そうなる前に、放しておいたほうがまだましだ。
リリーはそう自分に言い聞かせながら、寒い外へ出た。
今にも雪が降りそうな空模様だった。子猫を抱えるリリーの手が震えた。この子は外で生きていけるだろうか…。
「ごめんなさい…元気でね…」
門の格子から手を出し、リリーは子猫を抱いていた腕を下ろした。子猫は冷たい雪を嫌がって、下ろされまいともがいた。
「やだよね……寒いもんね……」
震える声でつぶやきながら、リリーは無理やり子猫を下ろした。子猫はすぐさま腕の中へ戻ろうとよじのぼってきた。
リリーは辛いのを我慢して、子猫を振り払い腹の底から声を出した。
「だめ!あっちいけっ!」
大声に驚き、ショックを受けたように子猫は飛び上がり走り去った。
外は寒いし、えさもない。無事に冬を越せるだろうか。もし凍死したら、自分のせいだ。
胸が張り裂けそうだった。消せない後悔が、リリーの胸に焼き印を押したようにしみついた。
「ごめんね……」
泣きそうな声で、子猫が消えて行った木々の向こうを見る。
自分に力があれば。自由があれば。あの子を守ってやれたのに。
門扉の鉄格子を握りしめながら、リリーはぎゅっと両目を閉じた。
(出ていきたい。出て行かなきゃ、この屋敷から)
でも、どうやって。みなしごの女の子がこの極寒の地で一人で生きていくなど、不可能だ。
しかし――リリーは一つだけ、まっとうに屋敷を出ていく方法を知っていた。
(お母さんがしたように……都の学校に通う。バレリーナになるための)
乏しい荷物の中のバレエシューズを、リリーはぎゅっとにぎりしめた。
(そしたら、子どもでも、女の子でも――この屋敷から出ていける)
それなら、その学校を目指そう。
名前をつけられなかった子猫の存在が、リリーにその決意をさせたのだった。
「おお、リリー、もっとストーブの炭は少なくしとくれ」
「はい、おじいさん」
庭の片隅の小屋で、庭師のおじいさん、レフとの生活が始まった。彼は無口で不愛想だが、優しい老人だった。
リリーがこの屋敷から出ていきたいと話すと、リズの話を教えてくれた。なんでも昔、バレエダンサーとして都で生活していたらしいが、足をだめにして今は隣村に住んでいるという。
「わしとそう変わらんから、相当なばあさんじゃが、まだ生きてるはずじゃ。行って、学校なんかの話を聞いてみたらどうじゃ?」
というわけで、リリーは週末、雪深い道を歩いて、リズがいるという家へと向かった。
「ん? 誰だいあんた」
その家は、平均的なロシアの家族が暮らす家だった。玄関のドアから赤ん坊を背負ったおかみさんが顔を出して、怪訝な顔をした。
「リズさんはいらっしゃいますか」
何かの使いかと思われたのか、おかみさんは特に警戒もせずリリーを家へと上げた。
「二階の突き当りの部屋だよ」
リリーが向かった部屋の片隅には、ベッドに入って上体を起こしたおばあさんがいた。髪は真っ白で、体も不自由そうだ。だがその目の光は鋭く、彼女がやさしいおばあちゃんではなく、気難しく手厳しい老人であることが一目見てわかった。
少したじろいだリリーに、何の前置きもなく彼女は言った。
「あんた、バレリーナ志望かい」
「えっ」
思いがけない言葉に、リリーは一瞬かたまった。それを見て老婆はハハと歯のない口を開けて笑った。
「なんでって?ダンスをやる娘には印がついてるのさ。私にはわかるんだよ」
「どういう事、ですか?」
「まず立ち姿が、他の子と違うのさ。こんな田舎じゃ、娘はみんな猫背で縮こまってる。あんたは目立つね。ぴっと背筋が伸びてて、足どりは軽い。そんな子は、ダンスをしてるに決まってる」
リリーは度肝を抜かれた。やはり彼女は、プロダンサーだったのだ。はやる気持ちを抑えて、リリーは言った。
「あの、私にレッスンを……」
しかし老婆はそれをさえぎった。
「あんた、どこの子だい?この辺の子?」
「ええっと…レフおじいさんの、手伝いで」
「ああ、お屋敷の庭師のか。でもあのじいさんには、孫は男しかいなかったはずだけど…」
リリーは目をそらした。気まずかった。
「面倒を見てもらっていますが…本当の孫じゃありません」
リズはリリーの頭からつま先までさっと見て、深くうなずいた。
「はぁ~あ、そういう事かい、わかったよ」
恥ずかしさに、リリーは思わずあとずさった。この田舎の村で、リリーは後ろ指をさされる存在だった。
「まぁお待ち。じゃああんたにダンスを仕込んだのは、おっかさんなんだね?」
「……はい」
小さな声で、リリーはうなずいた。リズの目がキラリと光った。
「いずれこの田舎を出ていきたいって? バレリーナになって? そういうつもりで私んとこにきたんだろ?」
その目に、嘲りの色はなかった。むしろリリーを見透かすような目だった。
「それで? 都会に出てどうする気なんだい。何かコネがあるのかい?」
「ないです……だけど、学校に行きたくて。ここから……出ていきたくて」
言い返したリリーに、リズは真剣な顔で言い放った。
「それじゃ、あんたはそれだけのダンスができるってことかい?」
「それは……」
「あの学校は、この国すべての娘の憧れだ。ダンサー志望がみんなあそこを目指す。あんたより稽古を積んでいる娘も、貴族の娘だっている。その子らに勝ってやっていける覚悟と自信が、あんたにあるのかい!」
「私……は、」
リリーの頭の中に、今は亡き母の顔が浮かんだ。
――母が生きていたころ、リリーは村のはずれの一軒家に、後ろ指をさされながら二人で暮らしていた。
その家の暖炉の前で、繰り返し母は語った。
お前は村を出なさい、大きな場所で自分を試しなさい。お父様は、そんなお前を援助してくださるから、と。
母は優しいけれど、厳しかった。自分が身に着けた全てのバレエの動きを娘に叩き込んだ。
母と娘、たった二人の小さな家は、閉じた稽古場でもあった。
外に行くこともない2人は、古ぼけたレコードに合わせて毎日レッスンに明け暮れた。
……その時のリリーにとって、踊りは世界へ出る切符だった。
(この切符を、今こそ使うんだ!)
リズの前でそう思ったとたん、抑え込んでいた気持ちが心の底から湧いて出た。
(ここを出て、自由に、なるんだ!)
美しい透き通った純白のチュチュをひるがえし、踊るプリマ・バレリーナ。回転し、飛翔し、小鳥のように自由なその姿。割れるほどの拍手と喝采を浴び、輝くスポットライトの中で生きる人生。
(その舞台に、立ってみたい。輝くバレエの一員に、なりたい)
妾の子。浮気相手の子。そう罵られてきた、みじめで鼻つまみ者の自分が、スターになるのだ。国中の皆の拍手を浴び、憧れられる、そんな存在に。
(それを目ざすのなら――まず、目のまえのこのおばあさんに、ダンスを認めてもらわなくっちゃ!)
もう母はいないから、一人でやってみなければいけない。リリーは勢いよく頭を下げた。
「はい……! お願いします、私のダンスを見てもらえませんか」
すると、リズはまんざらでもなさそうに、肩をすくめた。
「仕方ないねぇ。…じゃあ第一ポジション」
考える前に、リリーはすっと両足のつま先を体の外側に向けた。ただ足先だけではない。足の付け根からつま先まで、すべて外側に開くのだ。
たかが立ち方だが、このポジションを正しく表現できなければ一流のバレリーナにはなれないと厳しく母は言ったものだった。
「ポアント、アラベスク」
その指示に従って、なめらかにリリーの体は動いた。懐かしい感覚だった。つま先立ちから片足を上げて、ピタリと空中で静止させる。リリーの足は床とほぼ平行に、まっすぐ伸びているはずだ。
「もうけっこう」
「えっ…」
まだ何もしていない。リリーはとまどった。
「ピルエットや、ジャンプは…?」
「十分さ」
見込みがないという事だろうか。リリーの心臓はバクバクと大きな音を立てていた。じっとリズの言葉を待つ。
「ふーーむ…」
リズはフクロウのように目を閉じた。
「あんた、ずっと一人で練習してきたんだね?舞台も他のダンサーも知らないんだから動きが未熟だよ」
「私のダンスじゃ、学校に入るのは…難しいですか?」
「…でも、基礎がしっかりしてる。動きもダイナミックで華があるね。だから見込みがないとは、言わない。本気で猛練習すれば、試験に通るかもしれないね」
「お、お願いします、私にレッスンをつけてくれませんか?」