あの子、何者なの?
「リリー・サイクラス! なぜこんな簡単な問題もわからないの?!」
年配のミセス・ムーンがキンキン声でリリーを叱りつけた。初めての歴史の授業で、リリーは怒られっぱなしだった。
「すみません…」
フンとミセス・ムーンは鼻を膨らませた。
「今までどんな教育を受けてきたことやら。この学校も落ちたものだわ」
確かに今までろくに勉強してこなかった。読み書き計算はできるが、それ以上の高度な勉強となるとからきしだった。
「いいですか。次の授業までに答えられるようになさい。できないなら私の授業は受けなくて結構」
「…はい」
何とかしなければ。落ちこむリリーをハニーが励ましてくれた。
「大丈夫よリリー、元気を出して」
「私…あまりちゃんと勉強してこなくて。先生の言う通りで」
「気にすることないわ。座学よりもダンスの方が大事よ。それにミセス・ムーンは、気分の波が激しいのよ」
前に座っていたみつあみのアリーナも振り返っていった。
「そうよ。えこひいきだってすごいんだから」
「ね。誰とは言わないけどさ…」
「そうなの…」
よくわからずリリーは相槌を打ったが、あのマーガレットがじろりとこちらを睨んだのでなんとなく事情が分かった。ハニーはまけじと彼女を見返した。するとマーガレットは目をそらしてせせら笑った。
「大きいドブネズミが出現して、小さいネズミたちが調子に乗ってるみたい」
あきらかにこちらに聞こえるように言っていた。
「あら、でも所詮はネズミよ」
「私たちには関係のないことだわ」
彼女の周りの友人たちもまた一様に美しく、持てる者特有の傲慢な雰囲気をまとっていた。
リリーがしげしげとみていたのが気に食わなかったのか、彼女は目を吊り上げた。
「何よ、文句でもあるの?」
リリーは無表情でただ首を振った。
「ふん。田舎者は嫌ね。貧乏くさいったら。同じ空間にいるの、我慢ならないわ」
彼女は席を立ち、取り巻きとともに教室を出ていった。周りのクラスメイトたちの緊張がゆるんだのがわかった。
「あのマーガレットって子…何者なの?」
ハニーは肩をすくめた。
「キング財閥のお嬢様で、先生たちのお気に入り。ミス・レガートをのぞいてはね」
「ふうん、そうなんだ。すごい美人だね」
アリーナが唇をとがらせた。
「でもバレエは顔で踊るんじゃないからね」
ハニーがうなずいた。
「そうよ。ミス・レガートはそのことをよく知っているわ」
「そうなの?」
「だから昨日もAを出さなかったのよ。彼女は、マーガレットの思い上がりを見抜いているの」
ハニーは訳知り顔だったが、リリーには事情がよくわからない。アリーナがハニーの説明を補った。
「リリーは昨日来たからわからないと思うけど、彼女、最近スランプなのよ」
「スランプ? あれで?」
あんなに素晴らしい踊りだったのに。リリーは解せなかった。
「たぶん練習をさぼってるのよ。だから前よりもダンスの精度が落ちてるわ」
「でも言っちゃ悪いけど、彼女のスランプは自業自得」
「ばちが当たったのよ。このまま順位を落としていけばいいわ」
他の生徒も会話に入り、口々にそう言った。…マーガレットは明らかに、皆に好かれてはいないようだった。
放課後、リリーは図書館へ向かった。次のミセス・ムーンの授業までに、基礎をさらわなくてはならない。机に向かって根を詰めていたリリーは、後ろに人が立ったことに気が付かなかった。
「ちょっと!」
振り返ると、マーガレットがそこにいた。吊り上がった目はまるでガラス玉のようだ。美しいけど脆い。直感的にそんな印象を抱いてしまった自分に、自分で驚いた。
「な…何か用?」
「何じゃないでしょう、私が来たのよ。出ていってちょうだい!」
リリーはわけがわからなかった。
「席はたくさん空いてるけど。どこでも好きなところを使ったら?」
マーガレットの横にいたブリュネットの少女が笑った。
「あら、遠回しな言い方では通じないみたい…。あのね、本来この学校は、あなたみたいな人が来る場所じゃないのよ。思い上がらないでね」
そういう事か。リリーは再び教科書に目を落として、動揺をおさめた。
「そう。ご忠告どうも」
マーガレットは不快さをあらわにした。
「聞こえなかったの? 耳がついていないのかしら」
「私はもう少しここで勉強したいわ。そのあとなら出ていくから、嫌なら待ったら?」
その発言に、彼女の怒りは沸点に達したようだった。
「よくも…私にそんな口を!」
隣の生徒が彼女をなだめた。
「行きましょ。野蛮人には話すだけ無駄だわ」
怒りを抑えかねる様子だったが、彼女は友人に連れられて出ていった。彼女の踊りに魅せられただけに、少し気落ちしてしまった。なぜ初対面で、あの子にこうも嫌われているのだろうか。
「誰にもああなの? あの子って」
部屋に戻ってそう話すと、ハニーはわが意を得たりとばかりにうなずいた。
「そうなのよ。あの子に良心とか優しさは、一切ないのよ。だけどたしかに、踊りは上手いわ。だからリリー、あなたの実力を彼女も見抜いたのよ。あの子は本当に困った子でねぇ…自分より目立つ子が許せないの」
「でも彼女だってクラスで一番なのでしょう? 私にかまわず堂々としていればいいのに」
「そこが困ったところなのよ。ダンスはうまくても性格に難ありで。今まではずーっと彼女の天下だったのよ。だから、皆あなたに期待してるの。あなたには壁を破ってくれそうな何かがあるもの」
リリーを見つめるハニーの目は怖いくらいに真剣だった。
「そうかしら…あ、ありがとう」
その迫力に気圧されて、リリーはうなずいた。
温かな日差しを受ける白亜の校舎で、短い夏はめまぐるしく過ぎていった。相変わらずマーガレットは何かにつけ突っかかってきたが、リリーは些細な事だと自分に言い聞かせて努めて気にしないようにした。
なんといっても三度食事が出て、ダンスだけに集中できる環境。加えて一緒に頑張れる友達もできた。これまでのみじめな境遇に比べたら、天国だ。
それに、練習している間は余計な事を考えなくて済む。置いてきた弟の事も…。リリーは誰より熱心に、休み時間も練習をしていた。
「リリーったら、練習お化けね」
「すごいわ、細いのに体力が…」
さすがのハニーやアリーナも、そこまで付き合う気はないようだった。
「いいの、先に戻ってて! 私はもう少しやっていくわ」
「どうしたらそこまで頑張れるの?」
笑い交じりに聞いたアリーナに、リリーも軽く言った。
「ここで踊るの、楽しいの。暖かいし、鏡もあるし、それに…みんなもいるし」
ハニーもアリーナもきょとんとした顔だった。
「田舎だとね…バレエをやってる同年代の子なんていなくて。私、試験に来て初めて、他の子が踊ってるの見れたの。それで嬉しかった。だから今、追いつきたいなって」
それを聞いて、ハニーは納得したようにうなずいた。
「そうだったのね。リリーの自己評価が低いわけがわかったわ」
ハニーはリリーの目を見て堂々と言った。
「あなたは他人と自分を比べた事がなかったんだわ。一人でずっと、無心に技を磨いてきた。だからあんな力強いダンスができる。謙遜しないで、誇りに思うべきよ」
その大仰な言い回しに、リリーは圧倒された。
「あ、ありがとう、ハニー」
ハニーはにかっと笑った。思わずこちらも笑顔になるような、頼りがいと愛嬌のある笑みだ。
「リリーを見てたら私ももっと頑張ろうって気になるわ。よし、みんなで練習しましょ!」




