2 ゼロに至る
「お疲れ様でした」
バイトを終えて店を出る。裏口を潜った先にあるのは車のない駐車場だった。空はもうすっかり夜に染まっている上に地面には雨の跡まで残っていて、駐車場にはいつもより薄暗い空気が出回っている。
雨水でコーティングされたアスファルトを通って家に帰る前に、もう一度給料を確認してみる。金額はきっちり働いた分だけ入っていて、全部千円札になっている。紙袋の底で重みを増加させている銅銭は細かい額まで抜かり無く含まれているという事を示していた。
この金に他のバイトで得た給料まで足せばおよそ八千円くらい。家賃と生活費を払うに十分な金額だ。残りの金では妹に小遣いをあげて、あとは貯金でもしておけばいいだろう。そう思って家に帰ろうと足を踏み出した瞬間——遠くから騒がしい音が聞こえてきた。酔っ払いの中年が大声で騒ぐような、耳に刺さってくる大勢の人々の声。
だけど、その声には聞き覚えがあった。
「お前マジで下手すぎだろ」
「いや、お前ぇよりはマシだぞ」
「合計で三万も無くした奴らが何言ってんだよ」
暴力さが滲み出ているかのような、デリカシーの無い無礼な声。
学校で神木を殴っていたあの男の声だ。
しかも人数は十人以上。学校の時より遥かに多い。
「…………」
十メートル先で駐車場の側を通っていく奴らに気づいた神木が息を潜める。だが真っ暗い駐車場の中で光る店の灯りがあまりにも目立っていたせいで向こうも神木の存在に気づいてしまった。
群れの中央を歩いていた奴がふと立ち止まって神木の方を見つめてくる。やがて何かを思い付いたように不気味な笑いを吐きながら神木のところへ近づいてきた。
「おぉ、神木じゃねぇか。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「……」
神木は答えなかった。逃げもしなかった。ただ焦点のない目を奴に向けているだけ。——後輩が言ったように、神木は空っぽだった。
「悪いけど金貸してくれねぇか? ちょ〜っと資金が足りなくてよ」
悪質な笑みを顔に浮かべて一方的に話を告げる奴はふと神木の手に視線を向けた。そこにあったのはさっき店長から貰った髪袋。
神木の生活費だった。
「それ遣せ」
神木の手から強引に紙袋をひったくって中身を確認する。万円単位の大金を捉えた奴の目が悪質的な光を発した。
「学生のお小遣いにしては多いすぎるな〜。何のお金なんだ? これ」
「……」
神木は答えなかった。
「あ、もしかして生活費か何かか? だったら悪いな〜。そんな大事なお金貰っちまって、本当感謝しないとだぜ。そうは思わないか? 神木」
「……」
神木は答えなかった。
群れの中の一人が奴の隣に立って怠そうな声をあげる。
「おいおい、それは流石にやりすぎなんじゃねぇか?」
「大丈夫だ。問題無いさ。そうだろ? 神木」
「……」
神木は答えなかった。
それがなんとなくムカついて、奴は拳を振るった。
「答えろよ!!」
暴力的な音と共に顔を殴られた神木は力に押されて何歩か後ろに下がったが、地面に倒れる事はなかった。
痛みを知らないかのように。
憎しみを知らないかのように。
神木は何も言わず、ただ視線だけを前に向いていた。
そんな神木の反応に飽きたのか、奴は舌を打って駐車場の外へ向かう。
「ほらよ」
神木の方は見るもせず、ゴミを捨てるかのように紙袋を地面に投げ出す。
奴らが駐車場から完全に去って行った後、神木はその紙袋を拾った。
雨水に濡れて原型を保てなくなった紙袋の中身は、やはり空だった。
「……」
神木は何も言わなかった。
涙を流す事も、自分の境遇を嘆く事もなく、無くなった生活費を取り戻そうともせずに。
ここじゃないどこかを眺めるように視線を放ったまま、紙袋を捨てて家と呼ぶべき場所へ足を運び始めた。
****
古いマンションの階段を上る。家主さんの姿は見当たらない。幸運だ。もし会っていたら家賃の事を話に出されてしまうかもしれなかったから。
キシキシと不吉な音を鳴らす錆びついた金属の階段を登って三階の一番奥にある部屋へ向かう。百年くらい前に建てられたマンションである分、あちこちに老化の跡が刻まれている。部屋も半分以上は空き部屋となっているみたいだった。そのおかげで神木と妹が安い家賃で暮らせるのだけれど……。
今月はそれすらも払えそうにない。奴らに金を全部奪われてしまったのだから。
どうすればいいのか。策を講じてみても浮かんでくるのは何一つ無くて、煙に飲み込まれていくような無力感だけが神木の体を覆っていった。
その息苦しい感覚を振り切ろうともせず、三階の一番奥にある部屋のドアを開けようと取っ手を握った瞬間、ふと中から人の声が聞こえてきた。若い女の声。おそらく妹の友達だろう。
神木の妹はよく家に友達を誘っている。神木に直接報告した事は無いし、一応隠そうともしているようだったが、わざわざ口にしなかっただけであって、神木はとっくの昔から気づいていた。
もちろん今日も黙ってやるつもりだった。妹は兄を友達に見せたくないみたいだから、しばらく他所で時間を費やして戻ろうとしていたのだ。
だけど、今日はそうはいってくれなかった。
「じゃぁね。また明日」
金属のドア越しに声が聞こえてきて、すぐにドアが開かれる。どうやら帰宅しようとしていたところだったみたいだ。
その中にいた者がドアの前に立っている神木の姿を目で捉え、一気に表情を硬ませる。
「あ、えっと、その……」
言い訳でも考えているのか、髪を指でいじりながら不自然な動きを取る彼女を神木はじっと見つめていた。
そのうち異変に気づいた妹が玄関に出て状況を把握し、明らかに敵対的な態度で目を細めた。
「ごめん。あれうちのお兄ちゃん。気にしないでいいから」
妹がため息の混ざった声を吐く。そんな彼女を避けるように友達の子は目を合わせないままマンションを抜け出していった。
そのせいで二人っきりに残された神木は、何も言わず玄関の前に突っ立っていた。何を言えばいいのか分からなかったのだ。
妹が不満そうな声で言う。
「お帰り。早かったね」
「うん」
特に早く帰ってきたわけではない。
「……何?言いたいことあれば言えば?」
神木が怒っているとでも思ったのか、妹が防御的な態度を取る。そんな妹に対し、神木は無表情のまま淡々と答えた。
「無いよ」
「……そう」
目を細めて顔を逸らした妹は、ふと何かに気づいたように口を開く。
「その傷、また殴られたの?」
「……」
妹の目は冷たかった。虫でも睨みつけるように残酷で、嫌悪感さえも宿っているかのようだった。
——やっぱり僕は愛されてないんだね。そう思って、神木は口を黙らせた。
妹が深くため息を吐いて不満げな声をあげる。
「そういえば、家主のジジイが早く家賃出せって言ってたよ」
「……」
神木は答えなかった。
——いや、答えられなかった。
そんな神木の様子から何かを感じ取ったのか、妹が目をより細くして問い詰めてくる。
「何?何かあったの?」
「……」
神木は考えた。何があったのか、そのまま伝えていいのだろうかと。
その考えに結論をつけて、神木が答える。
「奪われた」
「は?」
妹が反射的な声を漏らした。
「ちょ、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。給料を奪われたの」
神木が淡々と答える。
それが許せないとでも言うように妹が大声をあげた。
「ふざけてるの⁈ それを奪われたらどうしろって言うんだよ、この凡骨!!」
妹が怒り任せに叫び出す。
神木は表情を浮かべず静かに答えた。
「ごめん」
「悪いと思ってんならさっさと言って取り戻してきなさいよ!!」
「それは無理」
あの連中から金を奪い戻すのは物理的に無理だ。神木はそう判断した。
だけど、妹の目にそんな事実は映っていなかった。
「知るかよ!いいから自分で責任取れよ!!」
怒りを真っ直ぐ神木に向けて手に取っていた携帯を投げつける。それに頭を撃たれら神木は、それでも何も言わず空っぽな目を妹に向けていた。
——その言葉を聞く前までは。
「あんたなんて、いっそ死んでしまえばいいのに」
「………………………………………………………………………」
神木の中で何かが動いた。
無視しようとしていた事実が。自覚しないようにしていた事実が。気づいてないふりをしていた事実が。
今目の前に浮かんできたのだ。
自分はちゃんと生きていて、これからも生きていかなければならないという事。
それなのに、自分には自分がないという事。
エゴの喪失。空白の自我。
自分が人間として欠如されているという事を、神木は今になってようやく飲み込んだ。
押し付けられて。見せつけられて。いずれ聞くはずだと思っていた言葉を言われて。
神木はようやく気付いた。
自分には生きている理由が無くて、同時に死ぬ理由も無いという事に。
神木は気づいてしまった。
「は、はは、はははは」
神木が笑った。失笑をこぼして、また笑った。
何がそんなに笑わせたのかは分からない。分かりそうにない。
だけど一つだけ、確かに思い知った事がある。
「そうか。死ねばいいのか」
生きる価値が無いのなら死ねばいい。
生きるには代償がつくが、死には何の対価も必要無いのだから。
どっちも選ぶ理由が無いのなら、死を選べばいいだけなのだ。
「はは、は、はは」
廊下の欄干に身を寄せて夜の空を見上げる。真っ暗い夜空には光のかけらも見当たらなくて、果てのない深海のような暗闇だけが町の残光を浴びていた。
それがなんとなく自分と似ているような気がして。
神木は欄干の下に身を投げた。