1 がらんどう少年
雨が降る。空は灰色の雲に覆われていて、息苦しい空気を形成している。
郊外にある小さな高校。その校舎の裏で数人の男が一人の少年に暴力を振るっていた。
校舎の壁に背中をつけたまま倒れている少年の腹を思いっきり蹴ったあと、リーダー役の男が言う。
「くそ、くそ‼︎ あの野郎……何時間も説教しやがって、ぶっ殺してやる‼︎」
凝縮された怒りを声で表しながら再び少年に足を振るう。力任せに振るわれた男の足はそのまま少年の喉に直撃した。
荒い息を吐き出す少年を見下ろしながら男が言う。
「痛ぇのか? 神木」
「……」
少年は答えなかった。ただ焦点のない目を地面に向けているだけ。
そんな彼の反応が気に食わなかったのか、男が威圧的な声をあげる。
「立て」
「…………」
神木が地面に手をつけて倒れていた体を起こす。その直後、男が神木の顔を拳で殴った。
次は腹。その次は脇。神木の胸ぐらを掴んでサンドバックでも叩くかのように何度も拳を振るう。それを一歩引いた位置から眺めていた他の連中はケラケラと笑いながらカメラを手にした。
その調子で数分間暴力が続き、連中の興奮が収まった頃、ボロボロになって倒れた神木を見下ろしながら男が言う。
「お前気持ち悪いな。反応無さすぎだろ。痛覚はあんのか?」
男が拳についた神木の血を袖で拭きながら笑う。
神木は何も言わず地面に身を寄せた。
「実は死体だったりしてー」
「ははは! それはないっしょ!」
倒れている神木に無濁的な視線を送って、連中が楽しそうに嘲笑う。その表面を覆うように雨はひたすら降り続けた。
電話のベルが鳴る。男の電話だ。
「どうした?」
男が電話を受けた。
「お前今どこだ?」
「あぁ? まだ学校だぞ。教師の説教が長くてな。うっかり殺してしまうところだったぜ」
冗談か本気か区別のつかない男の言葉に連中が一斉に笑う。だが電話の相手は笑える気分じゃないようだった。
電話越しの相手が少しイラついた態度で言う。
「はぁ? いやいや、今日隣校の連中とやりに行くって言ったろ! 忘れたのか?」
苛立ちの混じった相手の声に、男は髪を手で荒らしながらため息を吐いた。
「分かった、分かった。今から行くからちっと黙れよ、お前」
早口でそう告げて一方的に電話を切る。
「ぎゃーぎゃーウルセェんだよ、あいつ」
男の愚痴に同調して一斉に笑った連中は校門の外へと向かい出した。その群れのリーダーである男も神木の方に唾を吐いて他の奴らと足を揃えた。
「……」
さっきまでの出来事が嘘に思えるくらいの静けさが堕ち、雨の音だけが神木の耳元で鳴り続ける。地面の水溜りでは雨水と神木の血が混ざったまま揺れていた。
当然神木本人も相当汚れている。血は顔のあたりを除けばあまり付いていないようだが、雨に当たり続けた服と鞄は完全にずぶ濡れとなっていた。
そんな中、倒れていた神木が平然と立ち上がる。
ズボンについたホコリを叩き落として、口元についた血を腕の袖で拭いたあと、何もなかったかのように学校を出る。
涙は流さない。自分の境遇を嘆く様子もない。
その姿はまるで感情のない人形みたいだった。
**
無関心さに満ちた街中を歩き抜け、その奥にある小さな本屋へ向かう。参考書と雑誌をメイン商品としているその本屋は神木のバイト先だ。もう三年くらい働いている。
雨に濡れた髪を犬のように振り回してから店の中に入る。カウンターに立っている仲間の店員に軽く首を下げてすぐに休憩室へ向かう。雨に濡れた服を脱ぎ、指定のロッカーから持ち出した制服に着替え、元々着ていた服で濡れた髪と残っている血の跡を適当に拭いたあと売り場に戻った。
さっきまでカウンターにいた店員は次のシフトである神木が来ると同時に帰宅したのか、カウンターの前は空席となっていた。そこを埋めるようにカウンターの前に立ち、今日の仕事リストを頭の中で浮かべてみる。そのうち店のドアが開いて見慣れた顔の女の子が傘を折って店内に入ってきた。制服を着ている事からして、おそらくゴミ捨ての仕事をしてきたようだ。
そんな彼女が神木の姿を見つけ、無愛想な声を出す。
「今日は遅かったですね、先輩」
「うん。ごめん」
棚の本に水がつかないよう気をつけて傘の水を叩き落とした後輩はいつも通りの動きで神木の隣、カウンターの前に立った。狭い店だからこれだけでも随分と距離が近くなってしまうが、神木と後輩はそれを気にする様子もなくひたすら前だけを向いている。
そんな中、ふと後輩が神木の顔に視線を寄せた。もっと正確に言えば、神木の顔に残っている殴り傷に。
「…………」
後輩は神木の事情に気づいていた。顔と体にはいつも傷の跡やアザが残っているし、何より、そういう雰囲気だったから。神木がイジメに遭っているという事くらい、後輩も分かっていたのだ。
だけど、わざわざそれを口にするようなマネはしなかった。
深く踏み込まない方が自分にとって良いと、そう判断したのだ。
やることがなくて暇になったのか、神木はカウンターの奥に詰められていた在庫の片付けを始めた。今すぐしないといけない仕事ではないので前のシフトの人も手を出していなかったようだ。
それを何も言わず片付け始める神木を見て、後輩が無愛想な声で言う。
「先輩って真面目ですね」
「そう?」
神木が後輩を振り向かずに相槌を打つ。
「そうですよ。もはや真面目のアイコンと呼んでもいいんじゃないかって思うくらいです。妹のために一日五時間も働くなんて、まさに理想のお兄ちゃんじゃないですか」
神木は妹と二人で暮らしている。しかも親からの援助無しに。生活費も家賃も全部自分で稼がないといけない、高校生にはあまりにも荷が重い生き方。そんな不安定な暮らしを続けていく詳しい理由までは分からずとも、その事実自体は後輩も知っていた。
後輩がポケットから持ち出した携帯の画面を凝視しながら言う。
「妹さんは働いてないんですよね? ムカついたりしないんですか?」
「しないよ」
神木が淡々と答えた。
「あの子はまだ中学生だから、まだ働かなくていいんだ」
それが正しい事なのだと、神木は知っている。——そう信じている。
「だからって先輩だけ働くのはちょっとアレじゃないですか。理不尽とも思わないんですか? 先輩は」
「思わないよ。これは僕自身のためでもあるから」
「……ベタな台詞ですね」
後輩があっさりと否定した。
そのあとは特に会話が続く事もなく、降り出す雨と片付けの音だけが静かに響き続けた。雨が降っているせいか、今日はなかなか客も入って来ない。
そんな退屈な状況を解消しようと、後輩が口を開く。
「先輩。一つ質問してもいいですか?」
「何?」
「先輩の額にあるその傷跡、誰にやられたんですか?」
後輩の予想外の質問に対し、神木は迷わず答えた。
「お母さんからだよ。昔、調理中だったフライパンで叩かれた時にね」
神木のアルビノのような白い髪の毛と相反する、火に焼かれたかのようなグロい傷跡。その斑点みたいな刻まりの事情を聞いて、後輩は少し後悔した。
そこまで詳しい事情を聞いたわけではないが、今聞いたものだけでも神木がどんな人生を生きてきたのかくらいは簡単に描けられるから。——嫌でも描かれてしまう。なぜ家を出て妹と二人で暮らしているのかも、ある程度見当がついた。
きっと不幸の色を思いっきり発していたのだろう。そう考えて、後輩はらしくもない質問を口にした。
「辛くはないんですか?」
後輩のその一言を聞いて、神木は片付けの手を止めた。
目を閉じて、少し考えてみて、そして。
嘘ではない答えを後輩に返す。
「辛くないよ」
その返事を耳にして、後輩はなんとも言えない不快さに目を細めた。
「やっぱり、先輩は空っぽなんですね」
「…………」
——空っぽ。その言葉が耳に刺さって後輩の方を振り向いた瞬間、急に店のドアが開いた。
入ってきたのはこの店の店長である田中雅之。神木とは顔を知り合っている仲だが、直接店に来るのは珍しい。来るとしたら定期精算や給料日くらいだった。
今日はその両方に該当する日だ。
「やぁ、バイト諸君。今日も元気かい?」
妙に明るい声で挨拶言葉を渡した雅之はスタスタと店の奥に入ってきた。そのせいで床に雨水だらけの足跡が残って、後輩は掃除の面倒くささを覚えながら軽くため息をついた。
「今日は客が少ないな。雨のせいかな」
「ですよね。正直暇です」
後輩が無愛想な態度で答える。そんな彼女の肩に手を乗せて雅之が笑いながら言った。
「じゃあ適当に休憩でも取りなよ。女の子はちゃんと休まないと肌が悪くなっちゃうんだろ?」
「…………」
ボディータッチによる嫌悪感をなんとか胸の奥に沈めて、後輩が答える。
「では、遠慮なく」
「おう」
早足で休憩室へ向かう後輩の背中をじっと眺める。その姿が壁に隠されて見えなくなった頃、雅之は精算のためにカウンターの奥へ足を運んだ。
自動会計機の中をチェックしながら雅之が神木に言う。
「君も休んでていいよ。どうせしばらく客来ないだろうし」
「いえ、大丈夫です」
「そう。やっぱり君は真面目だな。採用して良かったよ」
あはは、と笑う雅之の方を向かず、神木は店の外に視線を放った。
そのうち精算が終わって、雅之は先に用意しておいた紙袋を神木に渡す。
「はい、これ。今月分の給料だよ」
神木が紙袋を受け取って中身を確認する。予想通りの枚数だった。
「ありがとうございます」
「おう。来月もよろしくな」
雅之が神木の肩を軽く叩いてカウンターを出る。そのあともう一つの紙袋を神木に渡して言った。
「これ、後輩ちゃんの分。代わりに渡しておいて」
「分かりました」
あくびをしながら店を出る店長の姿を目で追いながら、神木は自分の分の給料をポケットに入れた。