閑話96:クトル
初めての感覚だった。
いや、ずいぶん長く忘れてたのかもしれない。
こんなに苛立ちも焦燥もないなんて、いつぶりだ?
いつでも追い詰められるような感覚で、強がって、頭回して、それが当たり前になっていた。
そうとわかるくらい、今は心がとても静かだ。
「おい、クトル」
普段雑な扱いしかしてくれないバッソが、心配して俺を呼ぶ。
少し前までは、ただ声をかけられるだけでも縋るような気持ちが湧いた。
それと同時に引き裂きたいような衝動がずっと付きまとっていたんだ。
ただ今は、素直に、そう、素直に心配してくれてるんだと受け取れる。
今まではそうして感情を向けられることで、縛りつける方向に利用できないかと余計なことを考えてた。
その時になったら逃げられない内にどう仕留めるか、なんてことも考えたな。
「けっこうぎりぎりだったんだな」
自分の状態を認識して口にした途端、バッソに心底馬鹿にした様子で鼻を鳴らされた。
「はん! 会った時からそうだろうが」
「そうなのか」
バッソと出会った時から、俺は暴走寸前だったらしい。
言われて見ればそんな気もするが、そうなるとよくこいつも側にいたな?
軽くなったような、明るくなったような、それでいて、ただ隠しただけのような、どうでもいいと放り出したようなそんな気分だ。
なんにしても、握りしめていた何かを手放して、ようやく指を開き、爪の先まで血を通わせるような解放感と、力を抜いた楽な脱力感がある。
「これもアルタたちか?」
目の前の変わった皇子に、俺は問いかけた。
最初は丁寧な対応で、育ちは良くてもひ弱そうな印象の銀髪だった。
それが髪の色を変えた途端、皇子としての態度で接してきてる。
素直そうだったのに、今じゃ腹黒い奴ら見ても鼻で笑いそうなふてぶてしさがあった。
何も答えずに皇子はバルコニーを見る。
途端に、アルタもイムも首を横に振った。
つまりは、この目の前の皇子が最初から俺を暴走させない手を考えてたわけか。
しかも驚いた顔からして、あいつらにも何も言わずに、言葉だけで特別なこともせずやりやがった。
「…………で、なんでカティは俺を睨んでるんだ?」
「マギナも不服そうだぞ」
カティはあからさまだが、バッソに言われたとおりマギナ非難の色を悲しげに出してる。
理由は皇子から教えられた。
「君たちを待つ間、残ったお菓子は二人が食べてたんだ」
さっきまでの優雅な茶の準備は、俺とバッソで机ごとふっ飛ばして菓子なんてもう残ってない。
それ以外にも、俺は安全確認に菓子を適当に投げた。
うん、二人の不満はわかった。
わかったが、マジか。
アルタとイムは自分から近づいていったんだが、カティとマギナは反感持っててもおかしくない相手のはず。
それが完全に皇子側についてる?
「とんでもないな」
どんな人心掌握術だよと思いながら、俺は光の大樹を見上げる。
のしかかるような威圧感は、確かに存在することを肌で感じさせた。
なのにその姿は透けるほどの希薄さを保っていて、この世のものではないようだ。
たぶん、こういうのを神秘的って言うんだろう。
それに、魔法が使える奴なら嫌でもわかる。
敵わない。
挑むような相手じゃないのは、完全に隠れてた上で、姿を現した時に直感した。
証拠に迷わず首を狙ったのに、皇子の髪一筋も燃やすことなく掻き消された俺の魔法。
魔法使いの中でも、魔力量も腕前も相当だと自負してたんだが、それを遥かに超えて全く別の理で魔法を使われたような感覚だった。
「精霊って、帝室が保持してるのか?」
聞いてみても皇子はすまし顔で何も答えない。
だったら、きっと帝室なんて関係ないんだろう。
そもそも今の皇帝は隠し子で、まともな世襲じゃない。
その第一皇子と言えば、皇帝になる前に生まれた子で、皇子としてもまともじゃない。
帝室が何か隠して継承してても、この皇子に伝えられるわけもないはずだ。
だいたい、少し調べれば放置されてるような育ち方だし、その内臣籍に降りて消える。
そう思ってたのに、今なおそんな噂も動きもないんだから、考えてみりゃおかしかった。
不安定な立ち位置で、追い出されても戻ってまた不安定なまま。
それだけ処分のために手間をかける重要性がないと言わんばかりだが、これを見たらわかる。
逆だ。
「つまり、錬金術に関係してるとか?」
聞けばようやく反応が返って来た。
ただ、その目は俺を観察するような、試すような色をしてる。
「ゴーレムってね、錬金術なんだよ。魔力なんてほとんどいらない」
おい、とんでもないこと言い出したぞ。
そんなこと世間には知られてないどころか、今までの定説無視した話だ。
何処からそんな話が出たんだ?
ルキウサリアも、帝都の宮殿からはなんの情報も回ってきてないぞ。
つまり、そう言う情報は全部、この皇子の胸の中ってことか?
やっぱり、こんなの表に出したら継承争いが起こる。
それに動いてないってことは、帝位を狙ってはいない。
じゃあ、なんだ?
何を望むのかそれを知ることが必要だ。
俺たちの、今後のために、こいつは敵に回すべきじゃない。
「それを発表してるんで?」
「しないよ、今はね。もっとゆっくりやるつもりだったのに、君たちのせいで色々段取り崩れてるんだ。ルキウサリアであんなに派手に使うつもりもなかった」
何したのかと思ったら、アルタとイムから合図が来た。
ゴーレムは何かしら秘密裏に使う予定だったのが、あいつら捕まえるのに使ったのか。
確かにただの枷に見えてゴーレムと言われないとわからないし、つけてる本人もわからないくらいらしい。
こんなの秘匿して活用するほうがいいだろうな。
つまり、そういう考え方をする奴だということだ。
今まで隠れて、あえて不安定な立場に甘んじるどころか自分で作ってたのか。
その上でいつでも世に出られる実力はしっかり磨いてる。
さらに俺たちを捕まえてもそこに第一皇子の名前は出ない状況を見ると、こういうことは初めてじゃないんだろう。
調べればその側近の話が出るから、それもまた、この皇子が隠れ蓑に使ってるわけだ。
「その精霊とやらがいればなんでもできるだろう。俺たちが必要か?」
「そうでもない。勝手をさせると極端に走るからね。…………意義は聞かない」
大樹が不服を唱えるように梢を揺らすと、皇子が素っ気なく応じる。
どうやら、あの大樹と意思疎通ができるらしい。
その上で、手綱を握ってるのは皇子のほうか。
そもそも、あんな存在の手綱なんてあるのかはわからないが。
「まるで犬猫だな」
バッソがそんな感想を言う。
だが声には出してない。
魔力に乗せてるだけで聞こえるのは側の俺だけのはずだった。
「自意識もあれば個人的な好悪もある。言葉の意味も理解してるんだ。愛玩動物と一緒にしないでほしいな。人に近い存在だよ」
皇子が答えた。
バッソも驚いて、俺を見る。
今までバッソが聞かせないと聞こえる者などいなかったから、俺も驚くしかない。
いや、これはまだ足りなかったな。
そもそも俺たちを生け捕りにしてるんだ。
さらにはどんな奴らでも暴走引き出すしかできなかった淀みの魔法使いを、これだけ揃えて平然と話してる。
さらには皇子だとばれても切り返してきた奴なんだ。
精霊やゴーレムなんて人の手でどうにかできそうにない物を確かに従えてる。
もう一段も二段も相手の位置を図り直しているのに、全く実態に近づけないなんて、本当にとんでもない。
「それは、ご無礼を」
俺が下手に出ると、大して気にした様子もなく手を振る。
まだ十五だったはずだが、慣れた感じの動作が皇子だってことを印象づけた。
もうこれは確定だ。
こいつはただの学生じゃないし、ただの皇子でもない。
ましてや、そこらの錬金術師なんて足元にも及ばない本物だ。
殺せるならそれが一番手っ取り早く終わる。
だがそれがまず無理な上に、俺たち以上に何するか予想もつかない精霊という存在が、統制下に入っている状況で、その手綱を握ってる相手を殺したところでなぁ。
この場から逃げても、すでにこっちは手を出した後だから、目をつけられてるのは変わらない。
しかも今回おびき出された。
その上ゴーレムも使いどころが違うとか、まだ手を出し惜しみしてる。
本当、底が見えない。
「それじゃ本題に入ろうか」
俺を観察し終えたらしい皇子のひと言に、柄にもなく俺は内心身構えてしまう。
ここでしくじれば、家族を失いかねないという状況は、確実に皇子の手のひらの上だった。
ブクマ9600記念