閑話31:テスタ
人の気配がない建物、表面の埃を払っただけの内装、目地が詰まるほど開けられなくなって久しい窓。
これは想像以上だ。
「本当に来たんだね、テスタ。ここ来れるなんて、いったいどんな伝手使ったんだか」
「これはこれは、お会いできて嬉しゅうございます。第一皇子殿下。こちらも骨を折ったもので」
「いいよ、面倒な挨拶は。ここは人目を気にする必要もないし。ノイアンもいらっしゃい」
「はい、貴重なお時間をいただき光栄です。失礼させていただきます」
宮殿左翼棟に、帝国第一皇子を訪ねて来てみれば、殿下本人が出迎えてくださった。
気安くテスタなどと呼ぶ者は減るばかりのところが、最近老いぼれのこの身に師と仰ぐべき少年ができたのだから、人生とはわからないものだ。
「いつもならここまで歩いて来た相手には飲み物出すけど、いる? 先に見たい?」
「おぉ、さすがはご明察」
こちらの胸の内をあけすけに指摘してくる殿下に、悪い気はしない。
こちらの腹蔵を探ろうとこびへつらい言葉を重ねる者はもはや見飽きた。
かつて同じ師に学んだ者たちは墓の下に行き、遺された時間をいやが上にも感じさせる近頃では煩わしいばかりなのだ。
そんな今、素っ気ないほどの第一皇子殿下の対応はいっそ願ったりである。
ただ、その皇子殿下の境遇は聞いていたよりも悪いように思える。
招き入れられた青い装飾の室内には、ルキウサリアでも見た側近と侍女だけ。
他に侍る貴族はおろか、使用人すら気配がない。
これが帝国の皇子だと、いったい誰が認めるだろう?
ルキウサリアの貴族子弟のほうが、まだそれらしい生活をしている。
「あ、ここは僕の図書室だよ」
「ほう! 拝見しても?」
「いいよ。って言っても、錬金術の専門的なのばかりだから、今のテスタにはまだ難しいと思う。…………あ、こっちは薬草関係だからわかりやすいかも?」
三方の壁に造りつけの本棚がある部屋。
全ての棚が埋まるほどの蔵書はないが、その上でどれを見ても子供が読む内容ではない専門書ばかりが並んでいる。
権威を語るために無闇に難解な本を飾る者もいるが、これは確実に殿下が自ら読まれるのだろう。
中にはルキウサリアで発行された論文もあり、こちらは姫君が贈った物か。
その辺りはストラテーグ侯爵から聞いている。
錬金術師の先達たる殿下の錬金術の部屋を見たく思い、今日の時間を作ってもらった。
ストラテーグ侯爵や先日サロンでご挨拶した皇帝陛下など、使える伝手を使ってこうして宮殿にまかり越したというのに、今日にいたるまでにはうるさいくらい邪魔をされたものだ。
その上第一皇子殿下の話になると寄ってくる貴族たちは引け腰になり、実際来てみればこのざまだった。
「そちらは? 本ではなく冊子でしょうか?」
「あ、これ? これは錬金術の簡単なやり方を纏めたものだよ。僕のじゃないんだ」
ノイアンに答える殿下には、どうやら錬金術を教える相手がいるらしい。
けれど今日、その姿はなし。
やはり表立ってこの鬼才を認められる者はいないのか。
なんとも勿体ないやら腹立たしいやら。
それと同時に、こんな皇子の生まれの身分が低いことが惜しい上で、秘されるのも納得しかない気持ちもあって複雑だ。
これほどの才能だからこそ、死蔵しなければ帝国の継承が荒れる。
低い血筋を鑑みても、この知性は欲を持つ者に期待をさせるだろう。
「あぁ、それ。スクウォーズ財務官の」
「あれ? レーヴァン、知ってるの?」
「えぇ、殿下が派兵でいない時に手に取ってましたから」
気軽に話すのは、どう考えてもストラテーグ侯爵側の者。
ただルキウサリアでのやりとりを見るに、殿下も忠誠なくともいいように使っている。
ただそのストラテーグ侯爵も、今話題に出た殿下の派兵は止めなかったのだろう。
殿下に師事しようと調べられるだけ経歴は調べた中で、ルキウサリア王国の姫君と親しくされていることは早々に知れた。
だから相応に信頼できる情報は王家から仕入れられたのは僥倖。
派兵の顛末も知っている。
帝国の将軍が英雄視されているが、その実功労者は殿下だろうことも。
「おっしゃるとおりタイトルだけでも理解が及ばぬものが多いですなぁ」
「帝室図書館にないもの集めたからね。帝室図書館の蔵書の中で参考文献に上げられてても収蔵してない物もあるから」
「ほほう、それは興味深い」
「なんでも今は目新しいんだと思うよ。さ、読んでたら時間ないし錬金術の部屋行くよ」
殿下の言葉で魔法の家庭教師だという緑尾の才人が扉を開けた。
その姿はまるで従者か何かのようだ。
そして、それを行うべき人員がいない証左だろう。
緑尾の才人も並び称される九尾たちも、この身から見ても才能豊かな者たちだ。
それであるにも関わらず、大半が大成する道を捨てるように表舞台から消えた。
その一人である緑尾の才人は、この殿下のことを思えば正解だったと思える。
表でもてはやされて、結局求めた封印図書館に自力で行きつけもしなかったこの身に比べれば、若い内から先見があったのだろう。
「それじゃ、改めて。ここが僕が錬金術をするエメラルドの間だよ」
内装が全く違う緑の壁に赤いカーテンの部屋。
内装以上に目を引くのは、整然と並べられた器具だった。
「ほう、これだけのものを良く集められましたな」
「実はこれ、ほとんどルキウサリアの学園からもらってるんだよ」
「あぁ、アクラー校に移動させられた時のですな。規模縮小で教材を処分したとか」
「テスタは帝都で道具集めしてたみたいだけど、本当に錬金術やる気なら学園の器具のほうがいいと思うよ。学生が扱うこと前提なのか、規格が一定で結構丈夫なんだ」
「確かに。蒸留器を組み立てて使おうとしたらひびがあったのか破裂してしまいました」
「あぁ、なんか部屋汚したって聞いてたけど、道具の問題かぁ」
殿下の研究室と言うべきエメラルドの間は整然としている。
床にはシミも傷もなく、堅実に試行錯誤をなさっていただろうことが窺えた。
うむ、ストラテーグ侯爵には後で部屋の改装費用を渡さなければな。
蒸留という薬術でも使う行程を失敗したことで、躍起になってしまった。
もう少し落ち着いていればあそこまで汚さずに済んだかもしれない。
「は? エッセンス? あれを作った?」
「え? 使い方があるのですか? また謎解きのような?」
「驚きすぎじゃない? 工程自体は難しくないし、使い方次第で結構融通が利くんだよ」
錬金術を論じた書物にも出て来るエッセンスは、真理の雫、神の一欠け、精髄液など仰々しい記述が多かった。
けれど実情はほぼ無意味と言われており、殿下が取り上げるとは思わず。
しかしこの方が言われるなら、相応の可能性があるのだろう。
実際案内された棚には、属性別のエッセンスが入った試験管が並んでいた。
こうして手探りの方向性を示してもらえることは、長く教える立場にあったこの身には懐かしくも新鮮に感じる。
「ふぅむ、まだまだ奥が深いものですな」
「それはまだテスタが知ったばかりだし。すぐに追いつかれたら僕も困るよ」
冗談のように言う殿下は、しかしこの身が越えることがありえないという侮りはない。
才能を自覚してはいるが、同時に誇る様子もない方だ。
その理由がここの生活だろうか?
だとすれば、この方は本来の才能をまだ秘蔵しているのでは?
錬金術もこうして追いやられた末の選択に思える。
もし魔法だったら? 薬術だったら?
かつて蔓延った犯罪者ギルドの一角を落とした派兵を思えば、用兵や調略の才能もあるやも知れぬ。
「殿下は実のところどれほどの成果を錬金術で成し遂げておられるのでしょうな?」
「教えるわけないでしょ」
「つまり公にできないほどのことを、なるほど」
「揚げ足とらないでよ。封印図書館ほどじゃないから」
この辺りは子供らしく、口を滑らせてくれた。
やはり感情や嗜好は、頭脳に左右されることはないのだろう。
しかし引き合いが八百年前の天才とは、いやはや。
もしや、こちらにわかりやすく例示しただけか?
いや、この方は封印図書館をすでにどのような知識の集積か、理解している節がある。
同行した際の言動からも、我々では理解しえない何かを感じ取っている様子があった。
その上で引き比べて劣るとは言え、他に比べられないような何かをこの殿下はすでになしている?
「殿下、錬金術はすべてここで行っておられるのでしょうか?」
「そうだよ」
「モリヤム商店には?」
「…………皇子が市井の酒屋に? 誰が許すの、それ?」
そのとおりだ。
ただ実際に見た商人と工人たちは、そこまで教養深いとも思えず、錬金術の悪評を無視するとも思えなかった。
人づてとは言え殿下の助言を受ければあるいはとも思わなくもないが。
ただどうしても直接関わっているのではないかと考えてしまう。
そう思わせるだけの味が、ディンク酒にはあったのだ。
整えられた味わいは、それこそ丁寧な計画性と情熱があってこそ。
しかも錬金術でそれを成したという事実は、やはりこの第一皇子殿下の影を窺わせる。
「ふぅむ、さてはて」
いったい何を隠しているのやら。
それと同時に、まだまだこの身では至れぬ未知があり、道がある。
この方に師事することで、きっと封印図書館の全容は知れることだろう。
ただやはり、できればこの手でなにがしかの成果を収めたい。
そんな意欲、長く忘れていたような気もするが、ずっとこの胸の底に眠っていたような気さえする。
「楽しみですなぁ」
呟けば、殿下は同意するように頷かれていた。
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