第一章⑩ 圧倒
「『松ノ下』、だとぉ……!」
先ほどまで平然としていた男の声音が、微かに震えているように感じられた。
(『松ノ下』……)
宝島は動かない身体のまま、せめて思考を回して状況把握に努めていた。
『竹』ランクのおおよその基準として、『人を殺すことができる程度の力』と定められている。たとえば宝島の【十字砲火】であれば、火炎の一撃は物理的な力も兼ね備えているため、人を殺すという点において焼殺も圧殺も撲殺も可能だ。【快刀乱麻】も刀はもちろんのこと糸でも人を絞め殺すことはできる。
無論能力自体の危険度も含まれるのだが、『竹ノ上』ランクともなればどうあれ人を容易に殺せるという認識に間違いはない。
――――そして『松』ランクとは、『人類を危機に陥れる危険性』があると判断されたゲンレイが該当する。即ち戦闘規模でなく戦争に匹敵する力を『松』ランクは持っているのだ。
それ故『松』ランクは日本で二十人とおらず、『松ノ上』に至っては三人しか存在しない。都市伝説レベルの存在なのだ。
(護国寺くんがその『松』ランクだというの……?)
あの争いを好まなさそうな少年が、世界に危険視される存在だと言われてもいまいちピンと来ない。
しかし宝島とそう離れていない場所で、凄まじいほどの霊力が荒れ狂っている。到底『竹』ランクには思えないほどの量。残念ながら首も固定されて天井しか見上げることしかできないが、その霊力の持ち主が護国寺だと言うのだろうか。
直後、彼女を拘束していた糸の一部分が何の前触れもなく発火した。ポッ、と線香花火程度だった消火は瞬く間に広がり、器用に糸だけを焼失させた。
顔を上げる。真っ先に膨大な霊力反応の主を確認する。そこには想像していた少年の姿はなく、見知らぬ少女が炎を従えていた。状況的に糸を燃やして助けてくれたのはあの少女だろう。
脚に届きそうなほどの真紅の長髪に、凛々しいながらも幼さの残る顔立ち。ルビーの瞳はしかし凍えるような冷徹さを秘めていた。そのせいで本来中学生くらいのはずの少女は大人びて見えた。
どこからあの少女はやってきたのか、一部始終を知るはずの糸使いは一歩後ずさった。この様子では宝島の拘束が解けたことも把握していないはずだ。
「は――――っ」
男は薄く笑ったが、虚勢に過ぎないのは一目瞭然であった。
「さっきまでただの坊主だったのに、いつの間にか少女に変身しているとは……。これが巷で流行りの男の娘ってやつか? アリかナシかってーと……ナシだな。俺の息子を噛み千切ってきそうで相手にしたくねえ」
「…………」
下劣な発言にも少女は眉一つ顰めなかった。聞こえていないのではなく、最初から相手にしていないのだとすぐに分かった。
チカ、と少女の右目が妖しい光を放つ。
たったそれだけのことで男の足元が突如小爆発を引き起こした。
「くあっ!?」
爆炎をもろに浴びてしまった男は空中へと放り出されるも、持ち前の糸を駆使して何とか体勢を立て直す。
男は建物に張り付き、纏わりつく火の粉を振り払いながら吐き捨てた。
「ケッ。何の予告もなしに奇襲とは礼儀のなってねえガキだな。いいだろう、この俺自ら調教してやる……! まずはさっきみたく雁字搦めにしてやるぜ、エロ同人みてえになあっ!」
依然としてその場から動かない少女目掛けて、男は再び糸球を連射する。あの糸に一度囚われてしまえば脱出は困難を極める。しかし全てを避けようにも数の多いそれを躱し切るのも至難の技だ。
宝島の思考は正しい。何をどうすべきで、どれくらいの難易度かを正確に捉えている。優れた戦況判断と言えよう。
しかしそれはあくまで常人の考えでしかなく、『松』ランク(バケモノ)にそんな条理は通用しない。
雨のように降り注ぐ糸玉を前にしてもなお、結局少女は何一つ防御動作を取らなかった。そして糸の命中まで約五十センチに迫ったところで――――
――ボッ、と。
大量の糸玉はそれ以上近付くことができずに、蛍火のように燃焼しては消えていった。
(おそらく霊力による自動防御! あの子の周囲を霊力が覆い、そこに触れたものを焼き尽くしているんだ)
当然糸は炎に弱い。百に迫る糸を放ったものの、何一つとして少女の肌に触れることもできなかった。
「ちぃっ! 相性最悪じゃねーか!」
無駄球と悟った男は即座に次の武器へと切り替える。抜刀し、猛然と襲い掛かった。
それと呼応するかのように、いつの間にか少女の手には燃え盛る炎剣が握られていた。炎の凝縮によって形成された刀身が周囲の空気を吸い尽くしている。
男は洗練された動きで見る見るうちに距離を詰めていく。それだけで剣の腕も並外れていることが窺える。
けれど少女の動きはもはや目で追えなかった。地を蹴った、と認識したときには既に男との距離をゼロにしていたのだ。その勢いのまま彼女は袈裟切りを振るう。
しかし相手もさるもので、懸命に刀を炎剣と合わせていく。鍔迫り合いになる、と当たり前の予想をしたところで。
「ぐうぅ……!」
一瞬で炎剣が刀を両断し、男の鎖骨辺りを掠め焼いた。刀を叩き折ったのではなくて炎が鉄を溶かしたのだ。飴細工のように変形した刀を放り捨てる男。
(あの蜘蛛男をまるで赤子を相手取るように圧倒してる……。相性云々なんてものじゃない。もはや生物としての核が違う……!)
『竹ノ上』と『松ノ下』。ランク表で見ればたった一つの差だが、彼我の実力差はそれ以上である。
これぞ『松』ランク。世界の脅威と見なされた者の本領。炎一つ取っても宝島の【十字砲火】とはまるで威力が違う。
遠目で観戦している宝島ですら格の違いを思い知らされているのだ、直に相手をしている男はもっと痛感しているに違いない。
したがって怪物に勝とうなどという夢物語を即座に放棄して、撤退に移行するのは至極当然のことと言えた。
男は右手の糸で上空へと身体を移動させ、左手の糸で現金の入ったスポーツバッグを回収した。そして脇目も振らずに逃走を開始する。
「はっはっはあーっ! お前らの相手は元より暇潰しに過ぎねえ! 当初の目的通り金さえ手に入れば俺の勝ちなんだよぉ! バーカバーカ! 悔しかったら空でも飛んでみろーっ!!」
ジャングルで生きる野生児よろしく、振り子の要領でどんどん遠ざかっていく男。時速にして五十キロは出ている。
このままじゃ逃げられる! と宝島が【十字砲火】で追撃を放とうとするのを、少女は片手で制した。
そして何も言わずに、今度は自身の足元で炎が爆ぜた。そうすることで瞬間的に爆発的な機動力を生み出し、継続的に噴射することで空中移動すら可能にさせる。
ボウッ! と、あたかも一つの炎と化したかのように、少女の通った軌跡が紅に染まる。さらに火の粉が鱗粉の如く煌めいた。
「……綺麗」
その光景を目の当たりにして、畏怖の心は一切なくただただ目を奪われてしまう。
一秒足らずで自分に追い付いてきた少女を見て、蜘蛛男の表情が驚愕に埋め尽くされる。その顔面に少女の蹴りが叩き込まれ、男は翼を捥がれた鳥のように地上へと落下した。
ビクビクと小刻みに痙攣する男。落下の際頭を打ったのか、見るからに戦闘不能状態なのは明らかだった。
しかしなおも炎の少女は手を緩めない。剣先を男の首に突き立てるべく、躊躇なく一直線に突っ込んでいった。
(このままだとあの蜘蛛男が殺される……!)
確かに蜘蛛男は同情の余地のない悪党だったが、それでも命まで取ることはない。それが生かしておく余裕があればなおさらだ。
しかし彼女をいったいどう止めたらいい? 名前も知らない少女に対し何と呼びかければよいのか。
ずっと気にかかっていたが護国寺の姿が見えずにいる。尻尾を巻いて逃げた、というわけではあるまい。彼はそのような男じゃない。有り得るのは炎の少女が護国寺本人だということ。
荒唐無稽な話に聞こえるが、事実言霊には変身系の能力がある。【変幻自在】を持つ大泥棒が今も世界中で怪盗ごっこに興じているらしい。つまり護国寺もその類いの言霊使いだったのかもしれない。
仮説は立てられる。しかし根拠がない。
けれども宝島にはある種の確信めいた感覚があった。あの少女の正体は――――
魂から魂へ。宝島はその名を耳にではなく『彼』の心に届くよう懸命に叫んだ。
「護国寺くん、駄目――――ッ!!」
口にしたときには最早剣尖は男の喉元に刺さる寸前まで接近していた。
はたして宝島の言葉は、思いは届いたのか否か。
だが事実として、男の首が落とされることはついぞなかった。
――ピタリ、と写真で切り抜かれた場面であるかのように、炎剣は薄皮一枚分を残して静止していたのだから。
否。静止、というほど穏やかなものではない。未だ突き立てようか突き立てまいかの境界線を行き来しているのか、鍔迫り合いのような葛藤が剣の震えから見て取れた。
「……っ! お前、が俺だって、言うのなら……! 少しは俺の意思を汲み取れ…………っ!」
少女らしからぬ口調が僅かに聞こえた。
歯を食い縛りながら一言一言、慎重に声に出して形を与えていく。
「裏切るわけには、いかないんだよ……。俺は、お前たちを御して、胸を張って言えるようになりたいんだ……! 友達になってください、と――――!」
やはり宝島の予測に狂いはなかった。あの少女は護国寺直斗そのものだったのだ。暴力的な一面もあったものの、その根底には確かに優しさがあった。
フッと力を緩め、少女はゆっくりと炎剣を落とした。ちら、と微かに彼女と目が合ったような気がした。
少女が天を仰ぎ見る。それはあたかも天使の迎えを待っているかのようであった。彼女を覆っていた霊力が霧散していく。それとともに少女の姿がぼやけていき、中から護国寺の身体が現れた。
「ぅ……」
糸の切れた操り人形よろしく、彼は力なく地面に倒れ込んだ。誰かが呼んだらしい救急車のけたたましいサイレンの音が近寄ってくる。
――――こうして、波瀾万丈に満ちた一日はようやく幕を下ろしたのであった。
見た目は少女、中身は少年。
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