8 女神のような王女さま
マリアベルが王女に仕えたのは二年ほどの短い期間だった。
病がちであったためか快復したあとも内に籠もりがちな大人しい姫君は、あっという間に現在の夫に浚われたようなものだった。
そこには深い愛があったようにマリアベルには思える。
そうでないのならば、娘を溺愛する国王が彼女の降嫁を認めるわけがなかった。
公爵家の御曹司の愛は深く、そしてけちを付けるわけにいかないほど抜きん出て優秀との呼び声が高かった。
ただ、人見知りがちな王女の懐に入り込むのは、その優秀なアルトベルンであってもすんなりとはいかなかったようではあったが。
しかし、彼は幼い頃にも王女の側にあった人で、なおかつ一応親族にあたる人でもあった。
フィーアの母――マリアベルの叔母マイラの側室入りに伴って第三妃と呼ばれることになった国王の寵妃ファーラは、ルガッタ家の養女であり、彼らは義理とはいえ従兄弟同士なのだった。
従兄弟にはすぐ慣れたフィーアも、異母弟にはなかなか慣れなかった。好意を全面に押し出しすぎてかえって引かれている有様だった。
年かさのアルトベルンに比べ、王子たちはまだ若すぎたのだろう。短い時間を見つけてはそろって押し掛けるのは下策だと一人も気付いていなかった。
弟たちの存在にたじたじとなるフィーアにマリアベルはどれほど助言をしたかったか。
貴女の弟たちは本当に貴女が好きで少し冷静さを失っているようです、と。
口にしたところでフィーアの困惑が解消されるかはわからなかったけれど、報われない王子たちのためにも伝えてあげたかった。
そう考えたのは何も王子と幼なじみのマリアベルだけではなく、元同僚のシャーロットも同様だ。
こちらは主のためだけに王子たちに抗議するとまで口にしたものだから、マリアベルの肝は冷えたものだ。
今ほどつきあいが深くない頃だったけれど、シャーロットならば義憤にかられて実行しかねない危うさを感じた。
そんなことをすれば王子の不興を買うかもしれないとマリアベルは彼女をたしなめた。
実際のところ、彼らは聞く耳がないわけではない人達だと理解していたけれど、こと姉のことに関しては彼らがどう反応するか読み切れなかった。
一侍女が王子に楯突いて許されるものではない。勢いばかりで突進して彼女が処分されることは避けたかった。
矢面に立つべきは、役職持ちのマリアベルだ。
「姫さまさえよろしければ、私の方から殿下方にうまくお伝えしますよ」
そう伝えてみてもシャーロットをたしなめた言葉に怖じ気付いたのか、フィーアは今はいいと首を振った。
「私なら王子たちと幼なじみなのでうまくできます」とでも言葉を足せば違ったのかもしれない。
だけど、どうしても言えなかった。
マリアベルは仕事にプライドを持っている。職分から逸脱したくなかった――というのは、きっと上辺を取り繕った言い訳だった。
さらに内側に、隠していた関係が知られることでせっかく築いた信頼を失い、王女が不安定になることを避けたい思いがあり。
もっと言えば、ようやく素を見せてくれるようになったできたての友人を失いたくないという本音が隠れていた。
おずおずと遠慮がちに他に誰もいない時は友達のように過ごしたいと口にしてくれた王女殿下に、嫌われたくなかった。
だって彼女はマリアベルの大事な幼なじみの大好きな姉姫。ずっと話にだけは聞いていて、マリアベルは一人勝手に彼女に親近感を抱いていた。
それは、基本的に真面目で融通の利かないマリアベルが仕事を越えて彼女と親しくなりたいと思うくらいの大きさで。
そして、同時に大きな罪悪感も持っていた。
王女がいない間に王子たちの側にあったことも、それをすぐに伝えなかったことも。
他の同僚には隠していても、王女にはすぐ伝えておくべきだった――と、親しくなった頃に後悔しても遅かった。
その頃には関係が崩れるのを恐れて余計に言えなかった。
侍女としては間違ってなくても、人としては間違っているという思いは消えず、だけど王女の反応が怖くて二の足を踏んでいた。
マリアベル側室の養女であるのをいいことに弟たちと親しんでいたと聞けば、人のいい彼女でも気分を害するのではと恐れたのだ。
なにも言えぬままずるずるとフィーアの側近くに仕えたマリアベルが隠し事を明かしたのは、いよいよ彼女の側を離れることが決まった時だ。
マリアベルは次に従弟――第三王子エルバート付きになることに決まっていた。
姉姫が降嫁することふてくされるであろう幼い王子を宥めるための配置だ。
姉がいなくなっても、従姉が側に来れば落ち着くだろうと配属理由を聞かされたマリアベルは途方に暮れた。
エルバートはまだ幼くて、口の軽いところがあった。だからマリアベルは彼が物心つく以前のごく幼い頃を除いて従姉として対面していなかった。
そうでなくてはうっかりと、どこかで二人の関係性がバレてしまっていただろう。
マリアベルとエルバートはもっぱら書面でやりとりを重ねており、だからこそ安心して彼女は素知らぬ顔で王女の侍女を務めていられた。
内定を辞退しこれまでのように事情を隠し通すことも可能だっただろうけど、王女の側で関わりがあった従弟に以前より深い情を感じていた。
しばらくは落ち込むであろう彼を慰めてあげたいとも思ったし……数少ない身内と親しくしたいという欲もあった。
正直なところ、純粋にエルバートが異母姉を慕う様子がうらやましかった。
その半分でも従姉も慕ってもらえたらと浅ましく願う気持ちもあった。
そうして心を決めたならば、するべきことは決まっていた。
伏せられていた事実がいずれ従弟に明かされたなら、さすがにもう誰彼かまわずしゃべる年齢ではなかろうが、エルバートが嬉々として身内に吹聴するのは目に見えていた。
身内には間違いなく、彼の姉も含まれる。
そんな風に他人から秘め事が明かされることこそ、マリアベルは避けたかった。自分の口から伝えて、これまで黙っていたことを詫びるのが筋だ。
マリアベルは主と二人きりになる機会に意を決して隠していたことを明かした。
水くさいと詰られるのも覚悟の上だった。最悪、これまでの忠心まで疑われ、嫌われることさえ想定していた。
拳を握りしめて自らの身の上を話し、それまで黙っていたことと、王子たちに困っているのを知っていてたしなめられるかもしれないと考えながらもそうできなかったことを詫びたマリアベルに対するフィーアの反応は、あっさりとしていた。
「そうなんだ。うーん……まあ、なんていうか。誰にだって黙ってたいことあるよね」
私にもそういうことの一つや二つ、あるよ。フィーアはそう続けて、にっこりした。
「マリアが規律正しい人だって、私は知ってる。王子の幼なじみだってひけらかして仕事するようなこと、できなかったんでしょ」
「それはそうですけど。それだけではなくて、私はその……姫さまに嫌われるのが怖くて」
フィーアは驚きに目を見張り。次いで微笑んだ。
「そんなことくらいで嫌ったりするわけない」
あっさりと言ってのける王女はまるで女神のようだとマリアベルは思った。
あまりにすんなりと許されて、逆に心配になったくらいだ。
「私は醜いのです」
だからマリアベルは懺悔した。
すぐに正直に話さなかったのは、自らの保身でもあったことを正直に告げる。
「そんなことないよ」
フィーアは凪いだ表情のまま、さらりと否定したものだった。
「マリアは私にできる限り親身になってくれてたでしょ。保身は当然のことだよ。私だって、マリアに嫌われるのは怖い。大事な友人だもの。
それより、私の弟たちと仲良くしていたなら、彼らのことを聞かせてほしいな」
そして茶目っ気たっぷりに話を変えてくれた主にマリアベルは頭を垂れたのだった。