呆れる第三王子
「バート、君ちょっと僕に爵位を譲ってくれませんか?」
自室を訪れた兄がソファに座った途端に突拍子のないことを言い出したので、エルバートはぽかんと口を開けた。
「はあァ?」
さらには間の抜けた声まで上げてしまって、反射的に口に手を当てる。
そんな行動をとる原因になった兄エリックは、自分のせいだというのに顔をしかめて「何ですかみっともない」なんて言うんだから信じられない。
突っ込みたいことはいくらでもあった。
そもそも前提として、エルバートは爵位持ちではない。今のところはまだ王家に属している。
側室腹の第三王子であり、王妃の産んだ兄達と年が離れているとなれば王位継承からは程遠く、慣例として将来的には王家を出ることが確定しているようなものではあったが、父王は今のところそれを明言していない。
ただ、順当にいけば母方の伯爵位を継ぐことが出来るはずだった。なにせ、母方の爵位はエルバートが生まれる前に当主とその後継が事故死して以来国王預かりとなっているからだ。
その領地と爵位を血縁であるエルバートが継ぐのは当然とも言える話だった。
対して、目の前の兄は側室腹のエルバートとは違い王妃が産んだ正当派の第二王子だ。
彼の双子の兄である第一王子エセルバートが次代の王と定まっているものの、エリックはその兄を支えるのだとかねてから公言している。
いずれこの兄は王弟と呼ばれ、長兄を補佐するようになる。さらに次代の王が定まった後は、二代限りの大公位が与えられるのが慣例だ。
それは可もなく不可もない伯爵位よりはずっとよいもののはずで、エリックがわざわざ旨味の見えない弟の地位を望むことには違和感がある。
彼の妃がエルバートの従姉マリアベルであることを考えれば望めばかなうのだろうが、異母弟が得るはずのものをかすめ取る行為は兄らしくもないし、優秀な兄に母方の爵位はいささか軽いようにエルバートには思えた。
それに自分の子孫の行く末のために恒常的な爵位を望むなら、兄ならばもっと大胆に上を狙いそうでもある。
狙わなくとも王族の血は数多の貴族から望まれるものなので、先行きを案ずる必要は全くないように思えるが。
「リック兄上、何たくらんでるの?」
エルバートは直接的に兄に問いかけた。
こんなだから甘えたの末っ子王子だと言われるが、エルバートだって時と場合というものを心得ている。
気心の知れた家族間であれば許されると考えていることこそ甘えなのだろうが、この兄に遠回しに尋ねたところで煙に巻かれるに決まっているのだからしょうがない。
とはいえ、直球で問いかけたって望む答えが得られる可能性も低いのだが。
弟の自室に先触れもなく訪れた引け目があるのか――そんなもの次兄にはない気がしたが――エリックはとりあえずは嘆息しただけですぐさまお小言を口にするようなことはなかった。
まじまじと観察するような視線に居心地の悪さを感じていると、
「何で君たちはそういう言い方をするんでしょうね。たくらむだなんて人聞きの悪い」
君たち、と首を傾げるエルバートに「マリアも同じように言ってました」とエリックは妻の名を上げる。
ああと思わずエルバートは納得した。
エルバート自身は常々大いにエリックに振り回されている自信があったが、従姉によると昔に比べて兄はずいぶん落ち着いているらしい。
これで落ち着いているとはかつてはどんなやんちゃしていたのかと考えると不思議でたまらない。
エリックは見た目こそ落ち着いた物腰の優美な男だし口調も丁寧だけど、中身は結構なものだ。
兄は年の離れた弟を可愛がっているつもりでも、よくよく聞けば話す内容は毒々しいことが多いし、しょっちゅうからかってもくる。
爵位を譲れという発言だってどこまで本気か冗談か判断つきかねた。何の意味もなくそんなことを口にするのは慎重な兄らしくもない。冗談にしたって口にしていいことと悪いことがあるものだ。
そういう意味では、兄も弟の前で気を抜いてくれているのだ。そう考えると、昔に比べて弟の口の重さを信用するようになったのだろうと感じる。
なんとなく誇らしい心地になるエルバートの前で、エリックは悩ましそうな表情で足を組んだ。品行方正を絵に描いたような人にしては珍しい行動だとエルバートは目を見張る。
(まるでエセル兄上みたいだ)
エルバートは内心思った。兄二人は双子の割に似ていないとよく言われているが、よくよく観察すれば動作は似ている。
あえて差異を強調しているのでしょうと以前エルバートに教えてくれたのは、従姉のマリアベルだ。
聞いたときは嘘だろうと感じたし、そんなことをする必要性には疑問を覚えたものだった。
それから少し時が経った現在は、兄たちがそうする理由が少しは想像できた気がする。口にしたらきっと生意気だと二人は嫌な顔をするだろうから言わないけれど。
腕まで組んでエリックが渋い顔をするのを、エルバートはついつい観察してしまった。
そういう表情もいつものエリックらしくなく、むしろ長兄のものにそっくりだった。
「マリアのためには、伯爵位の方がよいかと考えまして」
ようやく口を開いたかと思いきやそんなことを言うので、エルバートはやっぱりかと思う。
エリックがいつもの調子を崩すのは、大体マリアベルが理由だった。
「えー、兄上、今さらそんなこと言っちゃうの?」
エルバートはため息をこらえてあえて何でもないように言った。
従姉の養母であるエルバートの母マイラが、マリアベルに王子妃は荷が重いと渋った時は自信満々だったくせに今さら何を言うかという気分だ。
エリックはマリアベルが知れば気に病みそうな手段まで使って周囲の反論を封じたのに、ここに来て弱気とは。
「俺にはよくわかんないけど、聞いた話によれば妊娠中は気持ちが不安定になったりするとかなんとか言うんじゃん? マリア姉上もそういうあれなんじゃない?」
まだ他には伏せるのだけどと前置きした後で朗らかに兄が妻の妊娠を告げてからまだ十日ほどしか経っていない。
所帯を持っても頼る人間が近い方がいいだろうと別宮に移りもしなかった兄夫妻とは毎日のように顔を合わせているが、特別従姉に変わった様子はなかったと思える。
感情を外に出さないことに関しては長年の王城勤めで鍛えているマリアベルが上手に隠しているという可能性は否定できないが――それにしたって、彼女がいくらか不安定になることは兄には予測済みだったはずだ。
エルバートでさえ、マリアベルがどのように悩むか想像できるくらいなのだから。
王太子であるエセルバートより先に婚姻を結ぶことも彼女は本意ではなかったはずだ。
ましてや、先に子を得るなんて。
いくらエセルバートが男色で将来子を望めないかもしれないというようなエルバートからすると爆笑ものの情報で周囲を誤魔化していても、気に病まずにいられるわけがない。
「エセル兄上より前に伴侶を得て、子供まで生まれるわけじゃん?」
努めて軽い口振りで、エルバートは「マリア姉上がそれを気にするのは最初から分かってた話だよね」と続ける。
エリックはただの第二王子ではない。第一王子と時を同じくして誕生した双子王子なのだから、従姉がより気にすることくらい考えるまでもなくわかっていたはず。
エルバートの兄二人はどちらが王位を継いでもおかしくない人たちだったのだ。王位争いが起きる前に早々とエリックが長兄を立て身を引いたが、より政治に向いているエリックを望む声は一定数存在する。
そういう情勢を気にした素振りも見せず――あるいはそれによってよからぬ動きでもあればこれ幸いと対処する気満々で、兄は自らの思いを成就させたのだからなにもかも今さらだ。
「今、このタイミングで臣に下るとか言うのも障りがあるよねえ」
それならそれで、最初っからそのように動いておくべきだったとエルバートは思った。
実際そうなっていたら自分を含めて周囲は漏れなく反対しただろうが、この兄ならどうにかこうにか思いを遂げていたのではなかろうか。
それなりの美談にまとめて王位継承権を放棄する兄の姿までありありと想像できてしまい、エルバートは身震いする。
その場合王家に残り兄の補佐役を務めるのが自分になっていたなんて、受け入れがたかった。
「そのつもりなら最初っからそう動くべきだったでしょ」
エリックは弟の指摘にうなずいた。
「仮に俺が爵位を譲っていいよって言って、兄上がそれを伝えて姉上が喜ぶと思う?」
エルバートの問いかけをゆるやかな首振りで否定するエリックの表情は苦い。
らしくないなあとエルバートも苦笑した。
どう考えても、あの真面目な従姉は自分のために夫が責任を放り出すことを喜ぶとは思えない。
かえって気に病みそうだとエルバートにだってたやすく想像がついた。
なのにわざわざ弟に熟考していない思いつきを打診してしまう兄は、普段の平静さをすっかり見失っているようだ。
エルバートはついつい兄の様子を観察してしまう。
ぱっと見はそこまで参っているようには思えないのはさすがだが、これは密やかにきていそうだ。
「冷静な判断ができないこともあるなんて、兄上も人間だったんだなあ」
常は超然としている年の離れた兄の認識を新たにしてエルバートは思わずつぶやく。
いつもは反論してきそうなエリックはわずかに眉をぴくりとさせたが、自覚があるのか何も言わない。
「兄上は泰然と構えてるのが、姉上にとっては一番いいんじゃないかな」
先回りして動くのがエリックの得意技だが、今回に限ってはそうではなさそうだ。
「ですかねえ」
「マリア姉上が目に見えて大変そうになったら、そのうち俺からそれとなーく話してみるよ。つらくてどうしようもないなら、リック兄上には臣下に降りる方法もあると思うって」
エリックは弟の言葉に唇を持ち上げる。
「結局同じじゃないですか」
「夫に言われるより弟に言われた方が負担感は少ないよー」
エルバートはしれっと言い切ってやったのだった。