怒りの王太子
ツァルト国王太子であるエセルバートは、足早に廊下を進んでいた。
とんでもないことを耳にして、冷静さを失っていることを自覚していた。一時の感情で回りに当たっていい立場でない。なんとか平静を保とうと考えながらも、押さえきれない気持ちがどうしても動きに出ていた。
目的地は彼の双子の弟である第二王子エリックの私室だ。双子であるがゆえに元の顔立ちはよく似ているが、彼は自分とは似て非なる男だとエセルバートは思っている。
王太子と定められた自分よりもよほど政に明るく、知恵が回るところが特に。それが善なるものであればよかったのだが、いかんせん悪知恵と称する方が正しいのが玉に瑕であった。
まあ、だからこそ海千山千を相手取った政に向いているのだろうが。
「リックはいるか」
眼光鋭く睨み据えた弟の騎士は、エセルバートの問いかけに首肯した。
「邪魔をする」
一応はノックしたが、入室許可も得ぬ内にエセルバートは自分の配下に扉を開けさせる。
「おや兄上、不躾になんですか」
夜半を過ぎようという頃合いであり、弟は自室でくつろいでいたようだ。ソファに座っているエリックは手にした本を傍らのテーブルに置く。
昼間のかっちりとした様子とは違い、眠気もあるのかどこか気だるげな様子だ。
エセルバートが王太子の権をもって人払いをするのを文句も言わずに見ていたエリックは、もたれていたソファから少し身を起こす。
その正面にエセルバートはどっしりと腰を下ろした。
「お前、あることないこと広めているだろう」
エリックは首をかしげた。
「嘘を信じさせるには真実も一欠片混ぜると良いとは言いますが――さすがに今回は真実を混ぜるのは時期尚早かと」
真顔で「兄が幼女趣味だと暴露すると別の障りがありますからね」と続ける弟にエセルバートは青筋を立てた。
「お前なあ!」
「兄上のためですよ」
にこやかなエリックがうさんくさい。双子の弟がわざわざ自分を兄と呼ぶところに、仄かな悪意を感じるのは穿ちすぎだろうか。
エセルバートは大袈裟に息を吐いた。あることないこと改め、ないことばかりをエリックが噂に流したそもそもの理由は、一応は理解しているつもりだ。
全ては自分が年の離れた娘を見初めたからだ。幼女というほどもう幼くはないが、それでも本来二十歳近い男が想いを寄せる相手ではない。
王候貴族にあってはそれ以上の年齢差の政略婚もあり得るが、今のところ差し迫って彼女を迎える必然性を感じていない。
また、王太子妃とするにはやや家柄が低いという問題もあった。
あと数年は相手が育つのを妹を守る兄のように待つ心づもりであり、その間に問題を解決するつもりであったが。
そういう年頃になって色めいた噂ひとつなく妃を娶る様子の毛頭ない王太子のために、弟はろくでもない噂を撒いたのだろう。
「それにしたって……俺が姉上に懸想しているとか、どうなんだ」
だからといって、それはないというのがエセルバートの感想だ。
「真実味はありますよね。エセルが姉上を慕っているのは事実ですし」
「それは否定しないが」
「姉上が降嫁なさってから、王太子殿下が頻繁にルガッタに忍ばれているのは公然の秘密ですからね。ちっとも身を固めないエセルがもしや姉上をというのは、ありだと思います」
「いや、ないだろ」
「はたから見てそう考えられるのが重要なのですよ」
エリックがニヤニヤと「エセルが会いに行っているのは姉上以上にあの娘なのでしょうけどね」と続けるのをエセルバードは睨み付けてやる。
馬鹿げた噂で彼女が自分の想い人だと知られる危険性が薄れるのならば、我慢するしかないと文句だけは飲み込む。
「では、男色とかいう噂はどういうもので裏打ちしているんだ?」
嘘を信じさせるために真実を一欠片というのならば、エセルバート本人の耳に不名誉な噂が入るまでにそれが信じられるためのなにかがあったと考えてしかるべきだ。
果たして男色の噂に真実味を加えているのは何なのかとエセルバートは訝しんだ。
そんな双子の兄を見上げて、エリックはにやりとする。人を食ったような笑みだ。
「王太子殿下が毎夜のように僕の元を訪れているのは歴然とした事実ですよね」
エセルバートは弟のことを真顔で見返した。得た情報が脳内を巡るまで、しばらくかかる。
「はあぁっ?」
いやそれは普通に情報交換しているだけだろう――そういう真っ当な反論を口に出すことが出来なかった。
事実を元にありそうな話をでっち上げたことのある男をエセルバートは知っていた。
それは異母姉の夫であるアルトベルン・ルガッタだ。彼にかつていいように踊らされた過去が否応なく思い出される。
当時悔しそうにしていたエリックは、目の上のたんこぶのような彼の手腕を真似たのだろう。
そういうことを面白がりそうな人材が弟の下に集っていることもエセルバートはよく知っていた。
目的を果たすために手段を選ばないところが、やはり彼は自分よりよほど為政者に向いている。エセルバートは自分の片割れがあっさり次期王位を譲ったのはツァルト国の損失であるように思えてならなかった。
王位継承争いで国を疲弊させるわけにいかないだの、影で兄を操る方が性に合ってるだの、エリックはなんやかやとうそぶいているが結局のところ彼が目的にしているのはただ一つ――今では彼の婚約者となったマリアベルと無事に添い遂げることだけ。
彼女が王妃など務まらないと遠慮しそうだからエセルバートに王位を押しつけ、さすがにそれは申し訳ないと考えてか兄の希望も果たさせてやろうと協力してくれているに過ぎない。
エセルバートはおおむねそのように理解していた。
マリアベルはエセルバートもかつて姉のように慕っていた女性だ。
美しい面差しであるが大人しい性格で、慎ましやかな好ましい人であるのはエセルバートもよく知っている。しかし、エリックがどうしてそこまで彼女を求めるのかエセルバートには理解しかねていた。
成長した今では分かれて行動する事が多いが、以前はほぼ一日中一緒に過ごしていた双子の弟だ。だから彼女との思い出はほとんど共通しているといっていい。
なのに、幼い頃から彼女を見初めたエリックの判断基準がいまいちわからない。
ただ理解できないことは幸いなのだろうなと思っていた。
二人とも同じ相手を好んでいたら、今のように穏やかではいられないだろうから。
エセルバートはそんな風に考えながら他にやりようがなかったのか聞いてみたくもなったが、今さら言っても仕方ないかと密かに諦める。
「お前、変な噂を振り撒いたせいでマリアに誤解されて身を引かれないようにせいぜい気を付けろよ」
「僕がそんな失態を犯すとでも?」
やけくその忠告を素直に聞くとはもとより考えていなかったが、エリックは自信満々の笑みを見せる。
「僕が兄上のためにどのように動くか、ある程度詳細は話していますからね」
「はあ?」
エセルバートは平然とのたまう弟をまじまじと見つめた。
この男は長くこじらせていた想い人に一体どんな説明をしたのかと思った。平然ととんでもない話をしたのではないだろうか。
「リック、お前マリアにどこまで話したんだ?」
「兄上が下手すれば幼女趣味だという程度ですよ。あとは、国を背負って立つ覚悟の王太子殿下が世を儚んで悪政を敷かないよう微力ながらその恋路を応援すると説明しました」
「俺たちの関係を邪推するような男色の噂は仮に説明していても不快だと思うが」
「耳に入らなければそんなものないも同然ですよ」
さらりと言い切るエリックにエセルバートはため息を吐く。
彼女を囲い込むと言い放ったようなものであり、また何のためらいなくそれを実行しそうでもあった。
言っても聞かないと長いつき合いでよく知っている。同じように彼女もよく知っているのだろう……エセルバートはマリアベルの心中を想像して静かに頭を振る。
どこまで冗談でどこまでが本気かわからないエリックに翻弄され、彼女がいいようにされる未来しか見えない。
「お前……ほんとにお前……よく、そんなことで彼女を口説き落としたものだな」
エセルバートはもしかすると弟はその口先でマリアベルを言いくるめただけではと疑った。
自分がうっかり年下の娘を見初めた事情がなければ、兄より先に婚約者を作るつもりはエリックにはなかったはずだ。
常識的なマリアベルも、兄を差し置いて弟が先に伴侶を得ることの問題は理解しているだろうから、単純に恋だの愛だので頷くとは思えない。
とりあえず形だけでも婚約できればいいとしたならばそれはどうなのだろうか。
長い時間をかけて少しずつ彼女に内密に描き上げていた秘蔵の絵を見せることで想いを遂げたのだとしばらく前に自信満々に語っていたエリックの様子を思い出したが、いったん疑問を感じるととことん疑わしい。
エリックが何をどのように話したのかわからないが、彼らの婚約が決まる前の交流時間の短さからすると常識的なマリアベルがエリックに想いを返して頷いてくれたとは思えなくなってきた。
(それはどうなんだろうなあ)
ここにやってきた時の怒りを遠くに追いやって、エセルバートは姉のように慕っていた人に申し訳ない気持ちを抱いてしまう。
自分以上に振り回されるのはきっとマリアベルだろう。
彼女のためを思うのならばエリックをすすめるべきではないのだろうが、兄としては弟の幸いを願いたいので複雑だ。
(マリアが得られなければ、こいつは何をしでかすかわからないからな)
ただ、純粋にエリックの幸福だけを願っているわけでないことは気持ちを重くする。
兄の気持ちも知らず――あるいは気付いていても知らぬふりで、エリックはにこりと笑っている。
「誠心誠意、思いの丈をぶつけましたからね」
それはないだろうと思いつつも突っ込む気にはなれず、エセルバートは唇をゆがめて曖昧に頷くにとどめる。
素直とはほど遠いひねくれ者の言葉ほど信用がおけないものはない。
そのうち機会があれば将来の義妹に弟の真意の一端でも明かしてやろうと考えながら、
「それがマリアにきちんと伝わってるといいな」
エセルバートは皮肉を込めて言ってやったのだった。
そう遠くないうちにとうそをついたことを懺悔します。




