15 覆いの中に
ためらうマリアベルを笑顔で促して、エリックはアトリエにしている奥の間に足を進める。
扉を開けると、室内は暗く閉ざされていた。彼は彼女に少し待つように告げて、分厚く窓を覆うカーテンを自ら開けに行く。
その間に手燭を掲げた侍従が近づいてきて、マリアベルの横をすり抜けていった。
窓からはいる日の光に加えて、侍従が灯していくロウソクが部屋を明るくする。
相変わらず目立つ調度のない部屋だった。
数年ぶりに足を踏み入れたマリアベルが見つけた大きな違いは壁にエリックが描いたであろう絵が増えているということくらいだ。
左右に掲げられているほとんどが小さいものだ。さらにはほとんどすべてが布に覆われているので、本当に全てが彼の作品かはわからない。
ただ一つ日にさらされた作品は壁に並ぶ中で数少ない大判の一品。その画面には巻いた金の髪が豪奢な若い女性の姿があった。これはエリックの手によるものだと判断できる見慣れた筆致だ。
「あれは……」
エリックの作品だから、彼の家族の誰かだ――マリアベルはそう知っていてもなお、その人が誰かとっさにわからなかった。
一歩二歩と歩みを進め、ついまじまじと絵を見上げる。
「王妃さま?」
エリックのものとよく似た鮮やかな色合いの金色。今でも十二分に若々しい方だけれど、それよりも更にお若い姿なので咄嗟にわからなかった。
侍従を手で追い払うようにしたエリックがうなずきながら近づいてくる。
扉が閉まるような気配を感じながら――しかして若い男女を二人きりにはさせぬよう、閉まりきる音はしないまま――、彼はマリアベルの横に立ち止まった。
「少女の頃の母上ですね」
マリアベルの知るより遥かに若い少女の絵姿は、森の中にある。無邪気に微笑んで画面の外の誰かに手をさしのべるようにした上目遣い。
見知った王妃の印象とは大いに異なる姿に違和感が禁じ得ない。
どういう意図でもってエリックはこのような作品を仕上げたのだろう。
マリアベルが疑問を感じたのと同時に、エリックはふふっと笑った。
「ここだけの話、母上は案外少女趣味なのですよ」
「それでこのような絵をご依頼になったのですか?」
表に出れば誰もが仰天しそうな一作は王妃の好むところではなさそうに思えるが、こんな絵を望むことがあったのだろうか。
「実はこれ、二枚で一組でして」
いぶかしんでいたマリアベルは、エリックに促されて後ろを振り返る。
うら若き王妃の絵の正面、壁の反対側に同じくらいの大きさの作品があった。
エリックは部屋を横断し、覆いの布を取り外す。中から現れた姿も瞬時には誰か判別はつかない。
「前王陛下です」
考え込む前に頭の中にその御名が滑り出たけれど、口にする前にエリックから答えがもたらされる。
「えっ」
予想と違う答えに、マリアベルは間の抜けた声を上げた。
思わずまじまじと、現れた絵を観察してしまう。
王妃と同じく正面に手をさしのべた青年は言われてみれば違和感があるが、国王を若くした姿そのものにマリアベルには思えた。
「父上の兄にあたる前王が、母上の本来の婚約者であったことはマリアも知ってますよね」
「ええ」
「幼い頃から決まっていた政略でしたが、良好な関係を築いていたそうです」
説明を聞いたマリアベルはこくりと頷いた。改めて説明されるまでもなかった。
愛のない国王と王妃はもちろん政略結婚だ。王妃の生国モディールは大国でありツァルト国のある大陸南方の盟主と言われる。
争いの絶えない時代もかつてあったようだが、モディール国の台頭によって大陸南方部に限って現在は平穏そのもの。
そのモディールは和平を維持するために、近隣国と数代に一度は婚姻関係を結んでいる。
近代の平和はひとえに各国の王族がモディールを中心に姻戚関係で結ばれているからこそもたらされているとも言える。
現国王の兄である前王陛下は、それもあって将来の伴侶が定められていた。
こちらも言わずもがな政略ではあったが、幼い頃から親しみ良好な関係を築いていたらしい。
きっとそうあるべく双方が努力したのだろう。
しかし二人は運命のいたずらに翻弄された。
前王即位と同時に輿入れ予定だった王妃は生国の事情でそれの延期を余儀なくされ、さらには新たな日取りを調整中に、前国王があっという間に病で天に召された。
当時まだ産まれてなかったくらいのマリアベルであっても、若き王の急逝に当時は毒殺説さえささやかれたことくらいは聞き及んでいる。
国の主を亡くしたツァルト国はさぞ混乱しただろうが、次に立つべき者は制度で定められていた。
子のない王の次に控えていたのは、王の弟だ。
現在の仲睦まじい王室の原点はそこで生まれたのだろうとマリアベルは推測できる。
将来の伴侶を失った若き日の王妃と、王弟の正妃としてはギリギリ認められたが、国王の正妃――国母たる王妃としては認められなかった平民上がりの公爵家の養女。
新たに立つことになった国王の三者の間で、恐らくは契約がなされた。
仕える身とすれば、王家の方々が穏やかに睦まじく過ごし、治世に曇りなければ何の問題もない。
しかし信頼はあれども愛がない夫婦の子として誕生した正妃腹の双子王子には、それはなかなか直視しがたい事情だった。
口さがなく余計なことを語る者はどこにでもいる。
それがわざと語られたのか、いたずらっ子たちがあちこちに出没する過程で偶然耳にしただけなのかはわからないが、幼子が真実に似た下世話な会話を耳にしたことだけは間違いがない。
ショックを受けた双子王子はやんちゃばかりの頃であったけれど、大人たちに無遠慮に真実を問いただす勇気は持ち合わせていなかったようで、彼らは身近なマリアベルに泣きついてきた。
僕らは愛のない子なのと問われたマリアベルはなんとも答えがたい質問に困り果てた。
王子たちより年上とはいえ、マリアベルも深くは事情の知らない幼子だった。
自分たちの聞いたことの説明をする双子も要領を得ず、聞き取るマリアベルの理解力も足りない。そんなわけで、マリアベルは自分の理解できる範囲内で二人を慰めた。
ひどく拙く、自分の不幸自慢をするような形で、だったけれど。
今思い返すとそれは何の慰めにもなっていなかっただろうけれど、二人が一応の納得を得たのは、マリアベルの境遇よりはましだと認識したのだろうか。
あるいは、「私にとっては愛情たっぷりのすてきなご家族です」と続けたのが功を奏したのだろうか。
「現実で横に並ぶことは叶わなかったので、せめて向かい合いたかったのだそうです」
真実に傷ついた過去があるはずなのに、エリックはさっぱりした顔でそんな風に言った。
「どうせ表に出す代物ではないのですから、横に並んでも良さそうなものですけどね。万一表に出たら問題だと」
彼の両親の間には、未だに深い愛はない。国王の寵愛は、第三妃ファーラのもとにあるのは明確だった。
それでも王家の方々は、今ではマリアベルの叔母も含めて確かな愛情と信頼関係とで結ばれている。
エリックもそう折り合いをつけ、見たところ含みはなさそうだ。
彼の言葉になるほどとうなづきながらマリアベルはそんな風に感じた。
「母上は時折、この絵を見に来られるのです。横に自分の姿があるよりも初恋の方だけが見える方がきっと都合がいいのでしょう」
いささか割り切りすぎのように感じるが、本人がいいとするものを外野がとやかく言う必要はない。
「僕もそうですのでね」
口角をあげてしれっとエリックは続けた。
今日だけで何回驚かされているかと現実逃避しかけるマリアベルを現実に引き戻すようにエリックは部屋を横切って「まずはこれですね」と若き王妃の絵姿より左側、一番窓際の作品の覆いを外した。
「これが僕の本当の処女作です」
聞いていたとおり、先ほど見た対の作品よりはずいぶん拙い出来の作品には、ピンクのドレスの少女がイスに腰掛けていた。
技術的には拙くとも、生来の腕は悪くない。一作目にして十分にモデルの特徴をよく捉えているようだ。
どこかしら緊張した面もちの着飾った過去の自分と対面して、マリアベルは何とも言えない心地になった。
初恋の人の絵姿と向かい合うことの何が都合がいいのだろうと今考えなくても良さそうな疑問が湧いた。
「マリアは侍女になると真似事を始めた頃でしたから、頼んでもなかなかドレスを着てくれなかったので貴重ですよね。ただこれは、マイラ母上のお好みのドレスですので、それだけが不満です」
「はあ」
とうとうと語るエリックにマリアベルは遠い目で生返事をする。
「僕はマリアには若草色が似合うと思います」
「そうですか」
エリックは一つ右の絵に移り、覆いを取り払う。彼の好みを反映してか、若草色のドレスの少女がそこにはいた。
今度はテーブルを前にお茶をしている様子だ。
「これはモデルを務めることにようやく慣れてくれた頃ですね。自然に近い形でスケッチできたので筆がはかどりました」
どういうことだと目を見張るマリアベルをエリックは綺麗に無視して言いたいことを言う。
彼がそのまま母の絵の前を横切ってその隣に手をかけるので、マリアベルはいやな予感がした。
はたして、布の下から現れたのは今度もやはりマリアベルの絵だった。
胸ぐりが深い大人びたドレスを身につけている。
もう自分には着れないものだからと口にして着せられた記憶があった。似合わない恥ずかしいと固辞したが聞いてもらえず、最後は諦めた覚えも。
叔母と姪でもサイズが違う。新しく仕立てたわけではないにしても、サイズ直しはされたであろうドレスを断り切ることは出来ず、そのまま流れるようにエリックに見せることになった。
姪っ子を着飾りたいマイラと、姉を描くための修行として少女をスケッチしたいエリックの思惑は、図らずも一致していた。
どうせ形に残る訳ではないからと開き直ったことまで思い出しながら、マリアベルは絵を見つめる羽目になる。
いくつもあるとは聞かされたが、こんなに次から次に自分の絵姿が現れるとは予想もしていなかった。
まだ布に覆われた絵は幾枚もある。もしやそのすべてに自分が描かれているのではないかと想像したら目眩がしそうだ。
家族しか描かないと公言する人がいったい何をしているのだろう。
エリックは趣味にかまけてばかりではいられない立場だ。父に実母、義理の母や兄弟たちの絵姿を次々に仕上げているが、その頻度は高くない。
年に一作二作仕上げる程度だと思っていたので、アトリエにこれだけの作品があるとは目で見た今も信じがたい。
大きさはどれも小振りだが、だからといって完成度は低くないようだ。出来に不満があればあれば、たとえモデル当人であっても彼は人に見せようとはしないだろうから。
「何故、このように私の絵が何枚もあるのですか?」
魅入られたようについつい夜会ドレス姿の過去の自分を見ていたマリアベルは、ようやくあえぐように問いかけた。
叔母のお下がりのドレスは当時のマリアベルにはあまり似合ってはいない。幼さを濃いめの化粧で何とか体裁を整えてはいたが、服に着られているといっていい。
「マリアが僕の側から離れようとしていたからですかね」
「え?」
「寂しかったんですよ」
それは珍しく素直な言葉だ。
マリアベルは思わずエリックを見上げる。彼は自嘲するように唇を歪めていだ。
「母上を少女趣味と笑えませんね」
マリアベルは目をぱちくりとさせながら、ついつい彼の様子を観察してしまう。
エリックがマリアベルを描いた理由に、ようやく思い至った気分だった。
どこかばつが悪そうに佇む彼を見ていると、推測が正しい物のように思えてくる。
胸の内になにか暖かい物が広がる。自分が彼に家族として認められていたのだとすとんと納得できた。
異母姉ほど遠くに離れたわけではないけれど、身分差によって遠ざかった姉もどきが離れることを惜しみ寂しがってくれたのだろう。
言葉よりも雄弁にそれが理解できた。マリアベルはついつい笑み崩れる。
「笑わないで下さいよ」
エリックは嫌そうに顔をしかめる。
「リックさまが私を惜しんでくれたなんて、とてもうれしいことですから」
マリアベルは自分の絵を見比べた。
「惜しんで下さった割には、日頃の私らしくありませんけど」
冗談混じりに続けると、エリックはすんなりそれを認めた。
「本来ご不在だった姉上を深窓の姫君らしく装って描くための習作ですから、仕方ない話ですね」
それから彼は一枚一枚にもっともらしくコメントをつけた。
処女作は見たままにスケッチした姿を描くことに集中しすぎたこと、二作目のドレスがやはり一番彼女に似合うと思うけれど、当時は技術が足りなかったので愛らしい姿を映しきれなかったこと。
三作目については、
「マイラ母上は少し気が早かったと思うのですよね……あの頃のマリアには少し背伸びしすぎのデザインは、正直似合っていません」
きっぱりと言い放つのにマリアベルも大いに頷いた。
「記憶だけを頼りに普段の貴女を描く力がなかったことは悔やまれます」
エリックはそこで再び次の作品の覆いを取り払った。三作目と同じドレス姿のマリアベルがそこにはあった。
「これ、は……」
「マリアが十六、七頃のものになります」
「その頃、私はリックさまのスケッチにお付き合いした記憶はありませんけれど」
エリックはにっこり微笑んだ。
絵の中のマリアベルも微笑んでいる。幼い容貌に不釣り合いな化粧をした姿よりも、年を重ねた分だけ紺の夜会ドレスが似合っていた。
当時はそんな物を身につけたこともないし、夜会に出た記憶もない。化粧だって最低限粉をはたいて、日々仕事に励んでいた頃だったはずだ。
なのに絵の中には隣の絵から年を重ねた同一人物だとわかる姿があった。そうとわかる姿を描けるほど、エリックが腕を上げたのだろう。
「姉上のお側に貴女がいらした頃ですからね」
エリックはそれからいくらでもマリアベルの姿をよく近くで見ることができるようになったからと上機嫌に続ける。
マリアベルはそんなエリックを唖然と見ることになった。
なにかわかったような、わからないような、しかしやはりわかったような、そんな気がした。
理解しつつある何かに、息を飲む。
療養から戻られたばかりの王女殿下の筆頭侍女として、当時のマリアベルはほとんど彼女の側に侍っていた。
それは、長き断絶を埋めようと埋めようと飽きもせず日参してくる王子殿下たちの側近くにあったといっても間違いではない。
王女の側に控えるマリアベルを含めた侍女たちは空気のように存在していたし、エリックを含めた王子殿下がたが侍女たちを気にかけた様子はついぞ感じた記憶はないように思うけれど。
その実、少なくともエリックはマリアベルの様子を観察していたのだろうか?
思い返そうとしても、たやすく思い出せない程度にはあの頃はもう近くない。
ただ、姉上大事のエリックが少しでも自分を気にかけてくれたのだということは、マリアベルの心を温かくさせた。
これはよくない。
マリアベルは自分を戒めようと考えたけれど、それはちっともうまくいかない。
彼女の動揺を感じ取った様子のエリックはますます上機嫌に見える。
軽やかな足取りで部屋を縦断し、彼は新たなる一枚を日の下にさらした。
「個人的に、今のところこれが僕の最高傑作だと考えています」
処女作の正面に現れたのは、またしてもマリアベルの姿だった。
現在でも日常的に身に着けている物とは少し違う、侍女のお仕着せだ。
(フィーアさまのお側にいた頃の、私)
胸元のリボンの色で、おおよその時期は推測できる。先ほどの夜会ドレスの絵とあまり変わらない頃に描かれたのだろうか。
「リックさまはお忙しいのではないですか?」
「確かに日々忙しくはしていますが、だからこそ適度に息抜きをするのですよ」
「絵を描くのが息抜きになるのでしょうか……」
呟きにエリックが自信満々にうなずくので、マリアベルは本人がいうのだからそうなのだろうとそれ以上のつっこみは控えることにする。
絵心のない人間からすれば、絵を描くことは根気のいる繊細な作業としか思えなかったが。
「リックさまはフィーアさまばかり注目していらっしゃったと思えますけれど」
「ふふ。それとなく観察しましたからね。マリアに悟られていなかったなんて、なかなかの技術でしょう」
「そのようなことを自信たっぷりにおっしゃるのもどうかと」
「仕事にも生かせる技術ですからね」
堪えた様子のないエリックにはなにを言っても無駄そうだと、マリアベルは大げさにため息を漏らした。
「こっそり観察されていたなんて、あまりいい気分はしません」
「残念ながらあからさまに視線を向けられる状況ではありませんでしたからね。マリアだって、仕事中に王子から見つめられても困るでしょう?」
「もちろんです」
苦言を呈してもエリックは堂々としたものだった。
生き別れの異母姉を描くために技術を身につけ、それを周囲に好ましく受け入れられた人だけに、彼の中では距離の開いたマリアベルを描くことが正当化されているのかもしれない。
「着飾ったマリアはきっと想像以上に美しいのでしょうけど、僕はこういった自然の貴女も美しく見えますし好ましいです」
聡い人だからきっとマリアベルの気持ちは想像できるだろうに、気にしないそぶりで悪びれもせずエリックは続ける。
こういった、と告げながらさらに数枚の絵の覆いを外すのにマリアベルは苦笑するしかなかった。
現れた絵の中にはもちろんマリアベルがいた。中には彼の家族――王妃や第三王子の姿が一緒に描かれたものもあったが、素人目で見てもメインは彼女だ。
仕事中のマリアベルの姿を描いてなにが楽しいかわからないが、それらを眺める本人はなにやら満足そうだ。
他の作品のように公に飾れないからアトリエに残しているのだろうが、画業に専念しているわけではない人の作品としては数が多いように感じられた。
許可無く描かれた当人としては、居心地の悪さを感じる。ただ、執着のような物を感じるその行動に嫌悪感はなかった。
残ったのは、相変わらず愛情表現が下手だという感想だけだ。
エリックは素直な性質でもないし、またそうできない立場でもある。きっとこれが彼にできる精一杯なのだろう。
マリアベルは気持ちを落ち着けるべく、深呼吸をする。
愛する姉君に言われたからとはいえ、エリックがここまで正直に絵の覆いをすべて取り払ったのは下手をすればマリアベルに嫌われる覚悟の上だったろう。
本人の預かり知らないところでこれだけの作品を仕上げていたと明かすのは勇気のいることだったはずだ。
その絵の数々に戸惑いはすれども嫌悪を覚えず、動揺の後に残るのは胸の暖かさだけ。
突き詰めるとエリックの気持ちが嬉しくて、彼がこのまま押し続けてくれば根負けしてしまうことは明らかだった。
いや、今まさに抵抗する気力が尽きかけているのだとマリアベルは自覚した。