10 そして、ふたりきりで
意外だなというのが、マリアベルの正直な感想だった。
かつては抜け駆けしないようにと兄弟で足並みを揃えて姉に日参するくらいだった人が姉をだしに姉もどきとの時間を求めるとは。
ただ先日彼が口にした通りに、エリックが自分を好ましく思っているのならばその意外さは多少薄まるか。
(でも、ねえ……)
マリアベルは思案する。
過去を思い返すと、違和感は拭えない。どうあっても、マリアベルが彼にとって異母姉よりも重い存在とは考えがたかった。
「ゆっくり、話……ですか」
エリックはうなずいた。
「僕のことを少しは意識して下さいましたか?」
反応に迷うマリアベルを見て、エリックは口の端を持ち上げる。あからさまに満足げな様子を見せるのがいっそわざとらしく思えるのは気のせいだろうか。
この間から急激に距離を詰められたので、いまいち落ち着かない。
それを意識したというのなら確かにそうだろう。
感想をそのまま口に出すのは手の内で踊っているようで、なんだかしゃくだった。昔からマリアベルは王子たちに踊らされてばかりだったので。
(どこまで本気なのかしら)
先日は彼が本気なのではと考えたが、時間が経てば自信がなくなってくる。
エリックは――この第二王子殿下は、やろうと思えばいくらだって演技ができる方だ。
本音を隠して表情を取り繕うのはお手のもの。そういうところは兄王子と正反対で、母である王妃にそっくり。
目的のためなら手段を選ばないところがあることをマリアベルは身をもって知っていた。
この場合の目的はなんだろうか。
下手に力がある妻を持てば、野心にさらされかねない。そういった煩わしさをエリックは嫌っているはずだ。
だからいまいち後ろ盾の弱いマリアベルを娶ることは、王位を求めない彼にとってまったく意味がないわけではない。
しかし、王太子殿下のお相手が定まらない今、不用意に動くことはいくら考えても良策とは思えない。
兄が目を付けたのが年下の少女だからと彼は言い、その婚姻を待てばマリアベルが婚期を逃すからだとも口にしたけれど。
そこまで無理をして、今動く必要はあるのだろうか。
マリアベルが仕事に邁進する心づもりであったことをエリックは確信している口振りだった。
彼は婚期がなどと口にしていたけれど、マリアベルはそんなもの気にしたことは――一応は年頃の娘としてないとまで断言はできないけれど、そもそも誰かと共にある自分を想像したことはなかった。
なにせ名目だけの伯爵家の、半分平民の血を引く娘だ。何かを望める立場にないと知っている。
エリックが本気であっても、だからこそ今動く必要はない。
王太子殿下が婚姻後、さらには無事に御子が生まれた後で動いた方が、きっと問題がない。
将来兄の補佐として過ごすとかねてから明言するエリックは、兄に後継さえできれば本人に子を残すことは求められない。
万が一に備えて王族から離れることは認められないだろうけど、妻に後見の怪しい年増女を求めること程度は許されるはずだ。
「意識は、しましたね」
かつては弟のように感じていた、今は仕えるべき方である第二王子について、これほど考えたことは近頃ないことだった。
言葉を受けたエリックが検分するように見つめてくるのに、マリアベルは居心地の悪さを感じた。
「今、リックさまが動くのは得策ではないと思うのですが」
往生際悪くマリアベルは問題を先送りにしようとする。数年後であれば、いくらか状況が変わりそうだ。
少なくとも確実に、周囲の軋轢は減ると考えられる。
「話を蒸し返しますねえ」
エリックは呆れたようだった。
「今を逃すと貴女に逃げられそうだからと言いませんでした?」
「聞きましたけれど」
「問題を先送りにしたところで僕はあきらめませんし、そもそも先送りにさせる気もありません」
すうっと目を細めて、彼は鋭く断言した。
「僕は、ずっと貴女と家族になりたいと思っているのですから」
エリックの言葉を聞いたマリアベルの中で、様々な思いが渦巻いた。
それはぐちゃぐちゃとしていて、自分がいったい何を思ったのか正確には自分でもわからないくらいだった。
「私は……」
マリアベルは呆然と口を開いた。
「一応は皆さまの家族の枠に含めていただいているものと思っておりました」
呟いた声は動揺によって震えていた。
「いえ、あの……恐れ多いことなのですけどっ」
動揺したままついぽろりと口にした後で慌てて言ったけれど、かえって不敬を重ねただけではないかと青ざめる。
エリックは焦るマリアベルに苦笑に近いような淡い笑みを見せる。
「大丈夫ですよ」
それから安心させるように言いながら立ち上がり、瞬く間にテーブルを回り込んで近づいてきた。
大丈夫ともう一度彼が告げた時には、右手に彼の手が重ねられていた。
兄王子とは違い、最低限の剣しか学んでいないと聞くエリックの手は無骨さからはほど遠いが、やはり女のものとは違う。
マリアベルより一回り大きい手のひらは温かく、安心させるようにしっとりと彼女の手を包み込む。
「恐れ多くなどありませんよ」
その言葉はどこか上機嫌に響いた。
「マリアが僕たちを家族の枠に入れていると明言してくれるなんて。それを喜びこそすれ、不敬だなどと言いやしませんよ」
マリアベルはおずおずと顔を上げ、そこに隠す気もなくご機嫌な様子のエリックを発見する。
ぎゅっと手を握るように力を込められて、マリアベルはかつて弟のように思っていた第二王子の手が思いの外ゴツゴツとしていることに気付いた。
男性にしては優美な印象を持っていたのだけど、こうして触れると自分とは違うものを感じる。
呆然として繋がれた手を見下ろしたマリアベルは、その手をどうしていいのかわからなかった。
こうまで握りしめられたものを振り払うことこそ不敬だろうか――そう考えればどうすることもできない。
「光栄です」
難しいことを考えられる精神状態とはほど遠く、ひねりのない言葉をマリアベルは吐き出すしかない。
「ただ」
分かり易く笑顔を浮かべたままエリックは口を開き、
「僕はそれでは物足りないのです」
マリアベルをぎょっとさせる。
「一応は家族の枠……言い得て妙ではないですか。貴女は出過ぎず、僕たちに家族に近い情を抱いていても、一線引いている」
「……当たり前、ですっ」
はくはくと口を開いて閉じた後、ようやくマリアベルは叫ぶように反論した。
「叔母が繋いだ縁があるとはいえ、恐れ多くも王族の方々と家族のように親しくしていただいたのです。幼かったと言え、それを安穏と受け取っていたことこそ出過ぎたことだったのです」
エリックは笑みを引っ込めた。そして再びマリアベルの右手を握り締め、真顔で様子を観察する。
「貴女は陛下のお声掛かりで側室入りしたマイラ母上が、側室入りが決まる前に養女にした娘ですよ」
お互い幼くて聞いたことしかない事実を彼は確認するように口にする。
「義理とはいえ、誰はばかることなく堂々と家族としてあっていいと思いますけどね。貴女の存在は陛下も、正室である僕の母も認めているのですから」
「それは光栄なことですけれど、分は弁えるべきですわ」
マリアベルは他ならぬ庇護者の叔母からそう諭されて育った。
二人はしばし黙って視線を交わした。睨みあうとまではいかないまでも、お互い譲れる線を探るような鋭いそれを。
ため息とともに先に顔を逸らしたのはエリックの方だ。
「それが物足りないと思いつつ、そこが好ましいと感じてしまうのだから、僕の負けですね」
やれやれとした調子でようやく彼の手は離れた。ほっとして自分の手を取り戻したマリアベルには冷静さが足りなくて、第二王子がいったい何を言ったのかしっかり理解できていない。