肆の筋肉
◇▽◇
軽く筋トレを済ませた私は、再びゲームへとログインした。先ほどまではチュートリアル専用の空間とやらに居たから、本当の意味でゲームの世界に入るのはこれが初めてだね。そう思うと、なんだか興奮してきた。
心地良い喧騒が鼓膜を打つ。瞼を開くと、そこには赤煉瓦の屋根の家が軒を連ね、舗装された石畳の道が足元に広がる街並みがあった。中央に噴水が設置されたこの大広場には光とともに次々と人が出現している。恐らくは彼らも私と同じプレイヤーだろう。広場を抜けた先の通りには露店が立ち並び、客引きの声が響き渡っていた。
『始まりの街“エリアル”』
別称は城塞都市エリアル。このゲームにログインした全てのプレイヤーが最初に訪れる街。その光景を目の当たりにした私は、思わず感嘆の声を漏らした。
「素晴らしい」
天には雲ひとつない青空が広がり、太陽が燦々と照り輝く。地を行く人々の生活の、なんとまばゆく美しいことか。『とてもゲームだとは思えない、さながら異世界のようだ』。そう言った常連客の話を、今本当の意味で理解した。
景色に見惚れること暫し、漸く我に返った私は往来の妨げになっていたことを自覚する。周囲に頭を下げつつ、人の流れに沿うように歩き出した。目的地はない。ログイン前に立てていた予定では、まずは服屋で上衣を調達しようと考えていたが、気が変わった。この街の景観、余すことなく堪能してみたくなったのだ。服屋に向かうのは、それからでも遅くはない。
それからゲーム内で1時間ほど、私は街を散策した。
◇▽◇
私は現在、進退窮まる状況に陥っていた。
広場に繋がる大通りを横に逸れ、裏路地に入ったまでは良かったのだ。賑やかな大通りとは対照的に、人も疎らで物静か。朝っぱらから壁に凭れる酔っ払いも居れば、目つきの悪い連中が通りを塞いでいたこともあったね。華やかな表とは違う景色を堪能できて、私は非常に満足だった。
問題はその後、例の目つきの悪い連中を穏便に追い払った後のことだ。複雑さを増す裏路地を更に進むこと十分ほど、現在の状況が発生した。
つまるところ、迷った!
29にもなって迷子とは情け無い話だが仕方ない。初めて来た場所である上に、迷路の如き複雑な道程であったのだ。迷わぬ方が無理だろう……何?途中で戻れば良かっただと?はっはっは!痛いところを突いてくるね!まさにその通りだ。私としたことが、痛恨の過ちだよ。
まあ、後悔先に立たずだ。今は現状を打開するために一番有効な方法を考えよう。例えば人に道を尋ねるとかね。辺りを見渡すが、残念ながらこの付近に人は居ないようだ。店なら一軒ほどあるようだが…………待て、店だと?ならば人が居るではないか!先ほどまでは無かったような気もするが、そんなことはどうでも良い。今はあの店だけが頼りだ。ええと……なるほど、“マリアの館”というらしい。店の扉に書いてあった。さて、それでは入店するとしようか。
扉を潜って最初に目に入ったのは、巨大な機械だった。木製のそれは一定のリズムで振動し、その度に紐で吊るされた棒らしきものが動く。その下にある大量の……糸!あれは機織り機か!本物は初めて見たよ。
「いらっしゃいませぇ〜」
機織り機の振動が止まると同時に野太い声が耳に入る。機織り機の向こうから現れたのは――謎の生物だ。
まず顔。彫りの深い男前であろう顔だが、常人の感覚ではあり得ないほどの濃い化粧がなされているために詳しくは分からない。とにかく顔が白いとだけ言っておこう。黄金色の髪は三つ編みになっており……いや、もう見なかったことにしよう。次に体。私ほどではないが、拳一つほどしか変わらないであろうかなりの巨体だ。オーバーオールの服から覗く腕や胸元の……隆々たる筋肉は実に素晴らしい。一瞬だが、あの謎の生命体とも見間違えそうな顔面が気にならなく思えるほど、彼(?)の筋肉は美しい構成をしている。ギリシア彫刻ばりに括れた優美な胸板、上腕二頭筋と上腕三頭筋のバランスに加え手先に至るまでの筋肉の隆起のフォルム……服に隠れて脚のほうまでは見えないが、非常に素晴らしい筋肉だ。
「あら、新規のお客様?珍しいわね。マリアの店にどんな依頼で来たのかしら?」
低音ボイスに女口調という珍妙な組み合わせに再び思考が停止しかけるが……おっと、そうだった。色々と衝撃があり過ぎて、すっかり本来の目的を忘れていたよ。
「恥ずかしながら道に迷ってしまってね。大通りへ出るにはどうしたら良いか聞こうと思ってここに来たんだ。客でなくてすまない」
「なぁ〜んだ、依頼じゃないのね。マリア、ちょっとがっかり。まあいいわ。お兄さんの逞しい肉体に免じて許してあ・げ・る♡」
「はっはっは、ありがとう!だが、君の肉体も十分素晴らしいさ」
あらやだ、とその筋骨逞しい手を頬に当て、身をくねらせるMr.マリア。このゲームを初めてから、私は学ぶことが多い。今まさに、人には一生理解できない価値観があるということを学んだところだ。
「んん〜?お兄さん?遠くを見つめちゃってどうしたのかしら?」
何時の間に接近したのか、私の肩に手を這わせつつ怪訝そうに首を傾げるMr.マリア。うむ、ここは1度深呼吸をしよう。ふぅぅぅうぅぅぅぅ……はぁあぁぁぁぁぁ……よし、落ち着いた。この鬼塚剛天を三度も動揺させるとは、なかなか油断ならない人物だ。
仕草については目を瞑ることにして、咄嗟に話題を変えることにする。
「そういえば依頼がどうとか言っていた気がするが、ここは何の店なのかね?」
「あら?コレを見ても分からないかしら?」
彼が示す先にあるのは先ほど目にした機織り機だ。店内を見回してみたが、至る所に布が飾られている。となると、織物屋か?Mr.マリアに尋ねると、「50点ね」という返答が来た。
「うちは織物屋兼服飾店“マリアの館”よ。それもオーダーメイド中心のね。布作りから裁縫に至るまでの全行程を当店のみで行っているわ」
流石に素材の確保は冒険者に任せているけどね、と付け加えたMr.マリア。君なら素材も確保できそうだが、私が気にしているのはそこではない。
服飾店……つまり、当初の私の目的であった上衣の確保ができるかもしれないということ。でかしたぞ、十分前の私。裏路地散策も捨てたものじゃないね!
「なんと!ちょうど上衣を調達しようと思っていたところだ。これも何かの縁、よかったら私に上衣を見繕ってもらえないだろうか?」
「あら、そうなの!それはなんとも運命的ね。うちとしても新規のお客様は大歓迎よ。いいわ、マリアに任せてちょうだいな」
そう言って胸を叩くMr.マリア。パーン、と小気味良い音が店の空気を揺らした。実に頼りになりそうな胸板だ、などと考えていた折、「ところで――」と彼が口を開く。
「予算は幾らかしら?」
そのとき、私の全筋肉が固まった。