「血液」(1)
光の都は、闇の地獄絵図へと塗りかわった。
阿鼻叫喚で逃げまどう住民を、夜鬼が空へさらい、食屍鬼がどこかへ連れ去った。
魔物どもに奇妙な共通点があることを、冷静に見抜いた者は少ない。大小それぞれの魔物の首に巻かれるのは、不可解な黒い首輪状の物体だ。材質は不明だが、その色艶はどこか魔王のあやつる黒砂に似ている。
そう、それこそが魔王の刻印だった。服従の誓い? 洗脳の証? いずれにせよこんなものを、野生の魔物がつけていた事例はいままで確認されていない。ふだん滅多におのれの縄張りを出ない魔物どもが、極度に凶暴化しているのもこの刻印の魔力による影響と思われる。
通りを逃げる数名の人々を発見し、メネスも慌ててそれに加わった。戦士寮か宮殿までたどり着けば、きっと救助の手はあるはずだ。
とつぜん暗闇から現れ、ひとりの住民を路地裏へ引っ張りこんだ手は、どう考えても人間のものではない。壁面を四つん這いになって移動し、音もなくまたひとりを連れ去ったあの影も。メネスの前を走っていたひとりは、慄然たる羽ばたきとともに夜空へ拉致された。あるひとりなどは、人間にしては小さすぎる集団に素早く取りつかれ、手近な無人の民家内へさらわれている。
急に力を失って立ち止まると、メネスはうしろを向いた。だれもいない。頬に冷や汗を流し、きつく拳を握りしめる。
メネスの背後に、人影がさしたのはそのときだった。
「よかった、いっしょに逃げ……」
メネスの提案は、尻すぼみに途絶えた。
メネスの目にまず飛び込んできたのは、醜い半液体に覆われた巨体だ。その外見はいびつな蛙のようにも見えて、ちょっとした馬車ほどの大きさがある。いや、なにより恐ろしいのは別の点だ。本来目のあるはずの部分に瞳はなく、その付近には代わりにピンク色の触覚らしき器官がおびただしく生えている。
蛙人……巨大な魔物は、吐き気をもよおす触手を使ってメネスの気配を捉えていた。腰を抜かしたメネスの首根っこをつかみ、唸りをあげて宙へ持ち上げる。
蛙人の開けた大口は、およそ井戸のように暗く深かった。
落ちる。底なしの胃の中へ。
メネスは落ちた。ただし、地面にだ。
「!?」
切り落とされた蛙人の腕と、なかばで折れた剣の破片が宙を舞っていた。魔物の手を切断したはいいものの、刀身そのものも限界を迎えたのだ。悪臭放つ緑色の体液を切断面から吹きながら、蛙人は痛みと怒りの混じった雄叫びをあげた。見ての通り、たとえ一匹であろうと闇の世界の魔物は人間の手にあまる。
折れた剣を舌打ちとともに捨てると、甲冑の人影はメネスへ怒鳴った。
「立て、メネス!」
「え、エイベル!?」
どういうことだろう。エイベルの甲冑はところどころが欠けて砕け、下に見える肌も傷だらけだった。かぶった兜の隙間からも流血がうかがえる。
斬られた仲間の悲鳴を聞きつけ、路地のあちこちで蠢いたのは人外の気配だ。
メネスを小脇にかかえて、エイベルは走った。すこし離れた路地裏の物陰に入ったあたりでメネスを放り出し、みずからも体力の限界からか膝をつく。
ふたりの荒い呼吸だけが、やけにうるさく民家の壁に反響して聞こえた。
重い兜を脱ぎ捨てながら、息も絶え絶えにつぶやいたのはエイベルだ。
「頼むから、次は自分の足で走ってくれよな……」
目を剥いて、メネスは問いただした。
「いったい、なにがどうなってる!? なにがあった!?」
「ご覧のとおりだ。敗けたのさ、魔王との戦いに」
「そんな……他の討伐隊は?」
「たぶん、ほとんど全滅だ。魔王城で拉致された連中が、その後どうなったかまではわからねえ」
顔をおさえて、エイベルはすするように笑った。
「聞かないでくれよ。〝なんでお前も死んでこなかったのか?〟って」
「馬鹿言うな。ぼくの命の恩人だ、きみは」
エイベルに肩を貸すと、メネスは裏路地をゆっくり歩き始めた。
甲冑と本人の大柄さもあいまって、かなり重い。エイベルは多くの箇所を骨折し、様子からすると内臓も痛めているようだ。この屈強な戦士を、いったいどんな恐ろしい力が襲ったのだろう。
メネスはひたすら移動を続けた。ときおり現れる魔物は、建物の隙間に隠れてうまくやり過ごす。
「悪いがな、メネス。俺はおまえを助けに舞い戻ったわけじゃねえ」
顔をうつむけたまま、エイベルは弱々しい声でつぶやいた。あるいは泣いていたのかもしれない。エイベルは言い放った。
「尻尾を巻いて逃げ帰ってきたのさ。必死に、故郷へ。王の勅令も、討伐隊の仲間も、勇気も誇りも正義も、なにもかもみ~んな捨てて、な。笑えよ、笑ってくれ」
「いっしょに笑うんだよ。この状況を切り抜けたあと、酒場でね。さっき君に救われたのが、ぼく以外の人間だったとしても一向にかまわない。明日を夢見る仕事は、その救われただれかに任せる。だからエイベル、自虐はやめろ」
「へっ……生意気言いやがって。おまえ、昔っからそうだよな。ピンチになったら、伝説の勇者の魂が憑依しやがる」
エイベルの手が強く自分を突き飛ばすのを、メネスは感じた。前につんのめって、なんとか持ちこたえる。すぐに振り返って、メネスはエイベルを睨んだ。
「遊んでる場合じゃ……!?」
言葉の語尾は、薄れて消えた。
メネスから見えたのは、エイベルの背中だ。
そして、立ちふさがるその向こうには、大勢の魔物の影……多い。少なく見積もっても十匹以上はいる。いったいいつの時点から追われていたのか。
魔物はどれもこれも、首に魔王の刻印たる黒い輪をはめている。これらの気配を察知したため、エイベルはメネスを先に行かせたのだ。メネスは震える声を絞り出した。
「エイベル……なにしてる?」
「さあ、俺にもよくわからねえ。俺が逃げるのをやめたのは、死んだ仲間の亡霊に追いつかれたからか? それともメネス、おまえの勇気に触れたせいか?」
魔物どもを視線だけで押しとどめつつ、エイベルはメネスへなにかを投げよこした。
メネスの手におさまった物体は、なんだろう。銀色の腕輪?
不思議な輝きだった。腕輪はメネスも見たことのない不思議な金属製で、おそらく手首の甲に来るであろう部分にはガラスの覗き窓がついている。覗き窓はいまは真っ暗だ。腕輪に窓? 中に小さな妖精でも住んでいるのだろうか。腕輪は一部が破損しており、輪の形を成していない。
足首と腰から一本ずつナイフを抜きながら、エイベルは告げた。
「そいつを王に届けてくれ。頼んだぜ」
「なんのまねだ……形見のつもりか?」
憤ったメネスの質問に、エイベルは小さく首を振った。
「俺のじゃねえ。魔王の腕輪だ」
「え?」
「廃城での戦いの最中、なんの偶然か俺の剣が触れて、魔王の手首から外れた。クラネス王に届ければ、きっと魔王を倒す手がかりになるはずだ」
「まさか……ベイツ衛兵の証言にあったあれか?」
「行きな。俺には、ダンス相手の女がこんなにもいる」
両手のナイフを逆手に握るや、エイベルは身構えた。魔物の群れから視線をそらし、うしろのメネスへ片目を閉じてみせる。
「約束どおり、酒場で待ち合わせだ。ちゃんと来いよ?」
壊れた銀の腕輪を握り締めると、メネスはうなずいた。
エイベルの戦いの邪魔をするわけにはいかない。足手まといになるくらいなら、いまから走って助けを呼びに行くほうがまだ現実的だ。また、エイベルの命を賭した頼みを無視することはできない。
きびすを返してエイベルと背中合わせになると、メネスはささやいた。
「約束だよ? 絶対だぞ?」
「おう」
裏路地を駆け出したメネスの背後で、エイベルは地面を蹴った。




