真崎君の恋愛小説
―― 一
私、青海桜子は、今年16歳になる現役女子高生です。学力、就学態度、共に問題無しと認定された私は、この春、無事に高校二年生に進級したわけですが、そのクラス替えに際して、幸運にも、友人と離れ離れになって孤立、なんてこともありませんでした。勢い『幸運』なんて言葉を使ってしまいましたが、その理由は至極単純、私には友達が多いからです。女子でも男子でも、私にはなぜか声を掛けてくれる人が多いのでした、逆に私から声を掛けるようなことはあまりありませんが。クラス替えから一週間近く経った今となっては、クラスの人とはほとんど友達です。そりゃあ、一度も会話をしたことのない人もいますが、その人たちは、大抵一人で本を読んでいるか、2、3人で教室の隅に集まっているので、あまり多くの人と話すことが好きではないのでしょう、そういう人達とはこちらから無理に関わる必要はないと思います。
私がこれほど人気な理由、と言いますか、人が集まってくる理由は、自分でも割りと正確に認識できているつもりです。私の思うその要因は 「顔が良いから」 これに尽きます。
私はよく言われるのです。
「青海さんって、ほんっとメチャメチャかわいいな!」
「そんなにかわいいと、もう嫉妬というか憧れになっちゃうよ」
「女のあたしでも独り占めしたい」
私は自分で鏡を見ても思うことがあります、「なんかちょうど良いパーツが、ちょうど良い配置になってるなぁ」って。ただの自惚れというか、それが事実なんだと思います。だって、去年の『ミス七海高校コンテスト』でも、二年生で一番の美人だって言われている堤先輩や、二年連続でグランプリを獲得して、読者モデルのお仕事もしていた、三年生の青山先輩を差し置いて、私が優勝してしまいましたから。私はどうやら、私の通う七海高校のマドンナ――少し古いかな?――のようなのです。
このように世間的には大人気の私ですが、自分ではあまり、自分に魅力を感じません。私は勉強が特別得意ではないし、運動能力もクラスで下から数えた方が早いでしょう。会話も大してユーモラスというわけでもないし、誰が聞いても笑ってしまう鉄板ネタなんていうものがあればいいのでしょうが、そういうエピソードもありません。いえ、過去にあったのかもしれませんが、そんなことはもう覚えていません。私は毎日を平々凡々と、ただ時間の流れるに任せて過しているのですから。
こんないつもぼけぼけっとした私にも、周囲の人は、特に男子は優しくしてくれます。テストの範囲がわからないと言えば、その日の内にファミレスで勉強会を開いてくれるし、頼んでもいないのに事あるごとに便利文具をプレゼントしてくれたりします。そういえば、この間もらった色付きのシャープペンの芯などはかわいらしくて関心しました。
ただ、こんな私でも、苦労をすることはあります。それは、さっき挙げたテスト関連のこととか、私はそれなりに要領がいいのか、テストの一週間前から友達に借りたノートを写すだけで、なぜだか他の人よりも良い点が取れてしまうのです。この場合、いつもノートを貸してくれる友達というのが、勉学の方面でとても優秀なので、彼の功績がそのほとんどなのですが、世間一般には私に対して学力が高いという間違った認識が浸透してしまっているので、自分の浅学さを隠すために、日々神経をすり減らしているのです。
そんな私ですから、異性とお付き合いすることも少なくありません、多くもありませんが。知り合った男性から告白される確率は、およそ3~4割といったところでしょうか。その度に断るのも面倒くさいし、あまりに相手が真剣だと、簡単に首を横に振ることもできないのです。だって、こんな何も考えていない私のような人間に振られるのは、可哀想でしょう? だから、付き合ってみてもいいかなと思った時には、はいと頷くようにしています。
一番長く続いたのは、高校一年生の時でしょうか。夏休みの期間中、つまり二ヶ月ほど付き合っていました。でも、当時の彼が、折に触れて二人きりになろうとするのが面倒くさくなり、もう会いたくないと面と向かって伝えました。そうしたら、彼は相当なショックを受けたらしく、長期休暇明けから一ヶ月ほど登校していないようでしたが、その後はちゃんと復帰しているようで、たまに廊下で挨拶を交わします。そういえば、彼の頭髪に以前ほどのボリュームがないのは気のせいでしょうか。
そうやっていると、自然、男をとっかえひっかえしているとか、そういった悪口を言わられることもあります。私としては、相手の方から言ってきたのを了承しているだけで、私の方からどうこうしようとは思っていないので、そんな言いがかりは私に言い寄ってくる男の人たちに言ってくれと思います。好きな人を取られたとか、そういう因縁も同様です。だって私は自分からは何もしないで、いつも通り、のんべんだらりと生活しているだけなのですから。
さて、なぜ私がこのような下らない自己評論を展開しているかと言うと、現在私は、私たちのクラスは、とても退屈な作業の最中にあるからです。それは、委員会決め。この一年間、それぞれの生徒に課せられる責任を、担任の教師監視の下、強制的に割り振られているのです。
はっきり言って、面倒くさいです。保健委員になれば、健康診断などの手伝いをやらされ、病気や怪我をした生徒に構わなければいけません。体育委員になってしまったら、毎日の体育の授業で陣頭指揮を取らなければいけないし、他の委員会も、お昼休みが潰れたり、放課後に居残りがあったりと碌な事がありません。幸い、去年は全ての役職を免れたので、今年もそうなるように期待して眺めていましょう。
「文化祭実行委員、やりたい人いないの?」
一番初めに決まったクラス委員の人が、教卓に寄りかかりながら視線を巡らせます。皆、それぞれ雑談をしたり、机に伏せていたりと、全く協力的ではありません。誰か立候補しないでしょうか。
「それじゃあ、これもくじ引きな」
クラス委員が、全員の名前が入った箱をがさがさと音を立てて弄ります。私の名前は出てきません、そんな気がします。
「まず女子、青海桜子」
気がするだけでした。
その瞬間、教室が異様な熱気を帯びてどよめきました、主に男子生徒たちが。口々に私の名前を呟いていたかと思うと、一人が右手を挙げました。
「はい、男子は僕が立候補します!」
すると、堰が決壊したように、教室中で俺が俺がの大合唱です。女の子も手を挙げているのはなぜでしょうか。ひどい罵りあいと黒板に押し寄せる群衆を制して、クラス委員は言いました。
「逆の意味でくじ引きだ!」
このクラスの特徴は、みんな一様にノリが良いところだと思います。揃って手を合わせて、祈るようにくじボックスに頭を下げる姿を見て、私は少し笑ってしまいました。
一瞬の静寂。クラスメイトの名前が記名された紙が、箱の中でがさがさと渋滞します。たっぷりと尺を使って、クラス委員が取り上げた四つ折の紙には、
「男子、真崎勇人!」
教室の一番後ろの席で、一人小説に目を落としていた男の子の名前が書いてありました。
―― 二
真崎君は、私にとっては珍しい、それまで会話をしたことのなかった男子生徒の一人でした。現在、出席番号順に並んでいる私たちのクラスの中で、「オウミ」である私と「マサキ」である彼の距離はそれなりに開いているからでしょうか。それでも、山崎君や渡辺君などとは話したことがあったのに、真崎君とはついに一度も話したことはなかったのです。
それというのも、真崎君は、休み時間にはずっと自分の椅子で、文庫本に一生懸命だからだと、私は思います。彼はクラス替え初日に私の周りに人が集まっていた時にも、三日後に親睦会と称したカラオケ大会の参加者を募っていた時も、自分の席で本を開いていたように思います。だから私は彼のことを、人付き合いの得意ではない内気な男の子だと、そう断定することにしました。
そんな一匹狼の彼と私は、全ての授業が終わったこの時間に、生物室に連れ立って座っています。それは、文化祭実行委員としての最初の会合に出席するためでした。それぞれの委員が決まったその日から、直ぐにお仕事が始まるとは、やはり面倒な役を押し付けられてしまったようです。
私たちの学校では、文化祭は九月の第一土曜日から二日間催されます。通常の、所謂文化祭シーズンという時期とは、一ヶ月近く前倒しになっているように思います。なぜそのような残暑の中の開催になるのかと言うと、詳しくは知らないけれど、どうやら学習計画上の調整らしいのです。二学期の中間考査と期末考査の間にしてしまうと都合が悪いらしく、だからといって中間考査前にしてしまうと、文化祭の準備にかまけて勉強が疎かになってしまう。だから、夏休みという十分な準備期間を設けて、そのままの流れで開催してしまえば、様々な施設の設営なども時間をかけてできるし、設営から開催までのタイムラグを減らすことで、管理の負担も減るというプラスの面も多いそうです。
だからこの七海高校は、少し早い時期に文化祭をやるのだと、ちょうど今、委員長である三年生の先輩が広角から泡を飛ばして言っていました。そんな学校側の都合を話されても、私たちにとっては、あまり意味がないように思います。
そんなわけで、私たちは一枚のプリントを渡されて、そこに五月の末までに自分たちのクラスの出し物を決めて提出せよ、との指令が下りました。そこにはできるだけ詳しい予算や準備に掛かる期間なども明記しなければならないらしく、クラスの皆と集まって、数度の会議をしなければならないような、とても面倒なものだということが一目で分かりました。
「ねぇ、真崎君、どうしよっか」
私は彼に聞きます。会合の後、二人並んで歩く道すがら、私は真崎君に、何か文化祭でやりたい出し物はないのか聞きました。すると彼は、うーんと唸って、顎に手を当てたまま、前方を見つめてしまいました。前の方に何か面白いものでもあるのでしょうか、二人の女子生徒が歩いているだけに見えます。短く折ったスカートは、男性だったら確かに目を奪われるものでしょう。
それ以降、私たちは会話らしい会話もせずに、駅へ目掛けてとことこと歩きました。四月の夕焼け空は、オレンジ色に青が薄く混ざります。つま先上がりの坂の終点には、一軒のコンビニがあります。私と真崎君がそこを通過したときに、コンビニの前で屯していた男子たちが、「おっ」とか小さい声を上げたのに、私は気が付きました。
「ねぇ、君ってもしかして、七高の青海桜子ちゃん?」
その三人は、どうやら違う学校の生徒のようでした。私は内心、「またか」と思いましたが、そこは有名税とでも言いましょうか、いつでも声を掛けてきてくれる相手のためを思って、私は笑顔で対応するのです。
「うん、そうだけど」
「まじで! 俺、生で見るの初めて!」
「すっげぇ、プリよりも生のがかわいいとか奇跡じゃね?」
「ねぇ、写メ撮らしてよ」
「うん、別にいいけど」
有名税です、有名税。
その三人は、私の進路を遮るように立って、スマホを持ち出しました。私たちは四人並んで携帯機器のデータに収まり、それで終わりかと思ったのですが、
「この後用事ある? 俺たちとカラオケいかね?」
「あっ、行きたい! 俺の十八番のアイウォンチュー聴けるの今日だけだよ!」
「私はちょっと、どうしよっかなぁ・・・・・・」
アイウォンチューとは、あのアイドルグループのヘビーなんとか的なあの曲でしょうか。
そろそろかな、と思って、私は傍らに目を泳がせます。十分相手はしてあげたし、そろそろ真崎君も嫌な顔をしていることでしょう。私は以前から、男性と二人で歩いていても、こういう風にお構いなしに話しかけられてしまうのですが、そういう時は決まって、元々一緒にいた男性を怒らせてしまうのです。だから私は色々と反省をして、自分の中で、他人の相手をする時間を区切るようにしたのです。今回も経験上、このくらいの時間で真崎君も怒っているはずで――。
「って、あれ?」
私が横を見ても、後ろを見ても、真崎君はそこにいませんでした。そんなはずはありません、だってさっきまでずっと一緒に、
「あれぇ?」
「あぁ、さっきの男? なんか、俺らのこと無視して先に行っちゃたけど」
なんということでしょう。先に行ってしまった? 私を置いて? この、ナンパされてる青海桜子を置き去りにして? 信じられない。私を見捨てて先に帰るなんて、これは前代未聞の珍事件勃発です。
「あんなダサイ奴ほっといてさ、カラオケ行こうよ、カラオケ」
「ここで待ってて!」
私は走りました、まだ真崎君の背中は見えていたのです。それに追いついて一言言ってやるまでは、私の腹の中で大欠伸をした虫が、収まりそうにありませんでした。
「ちょっと、真崎君!」
彼は、ぱったりと立ち止まって振り向きました。その顔は少し驚いた様子で、まるで自分の名前を呼ばれたことが、とても意外だったような素振りです。
「なんで、私を置いて行っちゃうわけ?」
「えっ、だって、友達だったんだろ?」
「はぁ?」
彼が何を言っているのか、私には全く理解ができませんでした。一体、初対面の人がなぜ友達ということになるのでしょうか。一度会ったら友達なのでしょうか。毎日会ったら兄弟?
「私、あの人達とは初対面だから」
「そうなの? 向こうは青海さんのこと知ってたみたいだけど」
「そりゃ、あなたにだって、会った事ない人に名前を呼ばれたことぐらいあるでしょう?」
「そんなことないよ、芸能人じゃあるまいし」
彼はその時、あたかも初めて私の顔を見たように、じっとこちらを見つめてきました。
「あぁ、青海さんって、去年のミスコンでグランプリとったあの青海さんだったのか。どっかで見た顔だと思ったら、なるほどねぇ」
「えっ! もしかして、同じクラスになってから一週間くらい経つのに、今まで私のこと気付いてなかったの?」
「うん、俺って人の名前とか顔とか、覚えるの苦手なんだ」
なんという人でしょうか、なんなのでしょうかこの男は。
「なんにせよ、そんな有名人とコンビ組めるとは光栄だよ。これからもよろしく」
彼は私の手を握って、ぎゅっと強く握手をしてきました。私は、頭に上った血が引くまで、遠ざかる彼の背中を見送り、ようやく動けるようになってから駅へと向かいました。
「桜子ちゃん、どうだった?」
知らない人に馴れ馴れしく話しかけられました、猛烈に面倒くさいです。
そうだ、さっきの三人を待たせていたのでした。
「あのさ、あなた達に聞きたいことがあるんだけど」
私は、一度確認しておこうと思いました。
「私、かわいいよね?」
三人は、私の唐突な質問に顔を見合わせましたが、すぐに「かなりかわいい」という結論を出してくれました。私はやっぱり、今日もちゃんとかわいいようです。
それきり、何事かごちゃごちゃと言っていた三人を置き去りにして、私は駅の構内へと消えてゆくのでした。
―― 三
その日は、風の強い日でした。体育の授業で校舎外へと出た私たちは、女子はテニスコート、男子はグラウンドに出て、それぞれソフトテニスと硬式野球に興じていました。薄く雲が掛かった空は、音を鳴らして吹き抜ける風と相まって、春先でも少し肌寒いです。
5点先取のミニゲームの順番が回ってくるのを待つ間、私は、真崎君に関する情報を集めることにしました。
「あたし、去年同じクラスだったよぉ」
牧村さん、ふっくらと豊満なスタイルをした、朗らかで素直な子です。少し垂れた目じりがおっとりとした雰囲気を相手に与えるのと、小さな丸い鼻が女の子らしくて、私が男子だったら彼女に惹かれるのではないでしょうか。ただ、テストの点数が平均に足りていないところが難点ですが。
「どんな人だった?」
「うぅん、静かな人ではあったよ。あと、運動が得意かなぁ。そうそう、ああ見えて、テストの順位だと、あたしとあんまり変わらないんだ」
なるほど、インテリぶった、ただの読書バカですか。
「じゃあ、何か小説の賞とか目指してるのかな。あっ、もしかして、もう連載持ってたりして」
「それはないと思うなぁ。だって、あたしが聞いた話だと、小説読み出したのは高校入ってかららしいし」
「ふぅん」
差し詰め小説家志望、といったところでしょうか。いや、本を読んでいるから小説家になりたいという考えは些か単細胞過ぎるでしょう。それを言ったら、私たちのクラスは今、みんながみんなプロのテニスプレイヤーや野球選手を目指していることになってしまいます。
「でも、趣味と授業とでは、また違うかな」
「なんのこと?」
私は眉を上げて、なんでもないという風に手を振りました。
格子状のフェンスにテニスボールが音を立ててぶつかり、小さな歓声とおざなりな拍手が鳴りました。
―――
「こんなんでいいかな」
真崎君が持ってきたノートには、喫茶店の設計図が書いてありました。
「一人で勝手に決めちゃったの!」
「うん。だって、青海さん、凄く面倒そうな顔してたから」
いつも楽しそうで有名な私が、まさか、人に興味のない真崎君にすら読める程、感情が表に出ていたとは、猛省です。
ん? ちょっと待って下さい。・・・・・・ははぁん、さてはこの人、こちらに全然興味がなさそうな振りして、実はじっくりと私のことを見つめていたのですか。
「そうじゃないんだけど・・・・・・」
「じゃあ、どうして私の考えてることがわかったの?」
「姉貴が青海さんに似てるんだよ。それで、姉貴がよく、面倒くさいって仕事押し付けてくる時と同じような顔をしているように見えたから」
ずっと不思議だった、この真崎勇人という人の、女性に対する興味のなさの正体をようやく知りました。それは、お姉さんの影響だったのです。
「女兄弟がいると、女性に幻想なくなるって言うもんね」
「女性に幻想って、男も女も同じ人間なんだし、大して変わらないでしょ」
「そう、その感じ」
「あぁ、この感じか」
真崎君の素直な反応に、私は笑ってしまいました。
「それじゃあ、もう一度、初めから考えてみましょうか」
「男が抱く女性への幻想について?」
「文化祭の出し物について、です」
「喫茶店でいいんじゃないの、無難だし」
「無難すぎるでしょう。それならせめて、服から作ってメイド喫茶にするとか、いっそコスプレ喫茶とか」
「じゃああれだ、メイド服作って、それを男が着る。新しいんじゃない?」
「どこでもよく見ます。それに、そういう内輪ウケもいいけれど、どうせやるならやっぱり一般客も引き込んで儲けないと」
「金の話かよ。学校の文化祭なんだし、記録よりも記憶に残そうぜ」
「記録に残れば、いつでも記憶を呼び起こせるでしょう?」
「・・・・・・まぁ、一理ある」
真崎君は簡単にぽっきりと折れました。決して口が上手いとは思わない私でさえも、一言二言で言い負かせるのだから、真崎君は普段から、相当お姉さんに言い負かされているのでしょう。何連敗中でしょうか、可哀想なので、それは聞かないでおいてあげましょう。
私たちは結局、机上の議論だけでは建設的な結論は出ないと判断して、近所の流行っている喫茶店を参考にすることにしました。まぁ、この案も当然、私のほうから提案したのですけれど。
その喫茶店は、さすがに流行っていると言われるだけのことはあり、下校時間の頃合に学生服姿で訪れているのは、私たちだけではありませんでした。外観はレンガ造り風、落ち着いた色合いの店内には、ジャズのポピュラーナンバーが静かにかかっています。テーブルや椅子などから、壁に掛かった柱時計、ダミーの食器棚などの調度品までアンティークで統一されていました。
私はアメリカンをホットで、彼はオレンジジュースを頼みました。真っ先にフレッシュジュースを頼むなんて、彼は全く子供なのですね。さて、お砂糖はどこかしら。
「やっぱりケーキは手作りがいいよね、家庭科室のオーブン借りてさぁ」
しっとりとしたチョコレート味のケーキを口に運んで、私は彼に言いました。
「えぇ、なんか手間じゃないか、それ」
「手間暇かけてこその文化祭でしょう? クラスで一丸となって困難に立ち向かう、その経験が記憶になるんじゃない」
「僕はもっとお手軽に、楽しかったねって言えれば、それでいいんだけど」
「うぅん、このコーヒーの香りは、インスタントでは出ないよねぇ」
真崎君は、溜め息をついて、店内に目線をやってしまいました。もう少しだけでも、真面目に考える姿勢を見せて欲しいものです。
「ん? あれ?」
その時、真崎君が何かを見つけたようで、変な鳴き声を上げました。
「名取さん、だよね?」
真崎君が見つけたのは、クラスメイトの名取奏さんでした。名取さんは、手入れのされていない長い黒髪と、無骨な作りながらも、赤い色のお陰で多少は垢抜けて見える眼鏡がトレードマークです。ちなみに教室では、真崎君の隣に座っています。だから、他人の顔も見ていないような彼でも、さすがに気がついたのでしょう。
「ま、真崎、くん」
「そんなびっくりしないでよ。一人? ここ、よく来るの?」
「う、うん。ここだと、集中できるから。コーヒーの匂いも、好きだし・・・・・・」
「そうなんだ・・・・・・」
それから二人は、お互いに立ったままフリーズしてしまったので、私はゆっくりとコーヒーカップに口をつけてから、仕方なく、名取さんに声をかけました。
「名取さんも、ここに一緒に座らない?」
「えっ!? あたしも、ですか」
「そうだよ、俺たち今、文化祭の出し物について話し合ってたんだ。名取さんの意見も聞かせてくれないかな、うん、それがいいよ」
顔を俯けたまま、目線を右に左に泳がせ、髪の毛をしきりに撫で付け、なんだか見ていて忙しい人です。
「あ、あの、あたし、邪魔になっちゃう、から」
「そんなことないって。ねぇ、青海さん」
「私も大丈夫だよ、名取さんも一緒に考えようよ」
「え、いやその、あたしの考えなんて・・・・・・」
後半はもにょもにょと何を言っているのか聞き取れませんでしたが、名取さんは観念したように、私の正面に座りました。真崎君はさらにその隣に座り、図らずも彼女の逃げ道を塞いだ形です。
それから、口の中に残るコーヒーの苦味と酸味でげんなりした、もとい、話疲れて舌の重くなった私に代わり、急に元気になった真崎君と、テーブルに開かれたノートに一心に見入る名取さんの間で、静かな議論が繰り広げられました。
どれくらいの時間でしょうか。体感的には、30分に満たない程度の議論の末、至った結論は、
「やっぱり、はじめに喫茶店にしようと言った俺は正しい!」
中身についてはまた今度、クラスの皆で話し合って決めることにしましょう。
―― 四
五月の頭になりました。四月の終わりまでに無事、計画書の提出を済ませた私と真崎君は、ゴールデンウィークの間はほとんど顔を合わせませんでした。これまでだって、委員会の仕事という強制力の下、渋々、角突き合わせていただけですから、その元凶がなくなれば会わなくなるのは当然ですよね。
私は教室の後方の席、渡辺君の席に座って、男女6人のグループになっていました。話題の中心は、ゴールデンウィークに友達と沖縄に行ってきたという、渡辺君と他3名の放浪記です。宿も決めずに三泊四日で行って来たらしいですよ、なんとも行動力のあることで。
私は少し上ずった声で話す渡辺君のその話を、麗らかな五月晴れを背中に受けながら、うとうとと聞いていました。彼の話が、マングローブの森をカヌーで進むところに入った時、私はふいに、横合いから名前を呼ばれました。
「青海さん、ちょっと」
急な指名に私は背筋をビクッと伸ばして、はいっ、と妙に畏まった返事をしてしまいました。突然の私の名乗りに、渡辺君も驚いた顔をしていましたが、それ以上にびっくりしたのは私なのです。
「話したいことがあるんだけど、今、大丈夫かな?」
なんてことのない顔をして、集団の外側から、真崎君が私にそう聞きます。この人は、遠慮という言葉を知らないのでしょうか。友人の土産話に、静かにつらつらと傾聴している人間に横槍を入れるだなんて!
「うん、大丈夫だよ」
まぁ、実際はそこまで真剣に聞いていたわけでもない私は、その場の人たちに、ジェスチャーで詫びつつ、輪を抜けました。真崎君に連れられ廊下まで出ると、彼はそこで壁に寄りかかり、眉を顰めて深刻な顔を作りました。
「どうしたの? 計画書、何か問題でもあった?」
「いや、そうじゃないんだけど・・・・・・」
「あっ、やっぱりコーヒーメーカーが予算オーバーかな。私も少しなら、お金出せるけど」
「違う違う、あれはもう大丈夫・・・・・・」
真崎君の態度はなかなか要領を得ません。腕を組み替えたり、あのやえっとの多様で、私は首を傾げてじりじりとしていました。
「つまり、何が言いたいの?」
「つまり、だなぁ。青海さん、誕生日プレゼントを貰うとしたら、何がいいですか?」
彼はようやく、観念したように口を割りました。
誕生日プレゼントですか。なるほど、確かに私の誕生日は、この月の最終日、五月三十一日ですが、なんだ、どこかからその情報を仕入れてきたのですね。それで一人で頭を絞ってみたけれど、結局名案が浮かばず、いっそ本人に聞いてしまおうと、そういうわけですか。
「実は、姉貴の誕生日がもうすぐで、何かプレゼントでも買ってやろうかと思ったんだよ」
あら、お姉さん、ですか?
「それなら、私にじゃなくて、本人に聞いた方が確実だしいいんじゃない?」
「その通りだよな、じゃなくて、姉貴の友達なんだよ! だから、直接聞くに聞けない状況で、ねぇ」
「はい? それならより一層、お姉さんに聞いた方がいいと思うけど。だって私、そのお姉さんの友達って人が、どんな人か全然知らないし」
「そりゃそうだ」
真崎君は、ちょっと待ってと言って、なにやら頭を抱えてしまいました。変な言い訳を考える必要ないのに。私は、彼のあまりに滑稽なその姿に同情して、仕方なく、私の方から話を前に進めてあげました。
「まぁいっか、参考程度なら、答えてあげられなくもないけど」
「ホントに! 参考だけでも十分だよ!」
「そうねぇ、指輪とかネックレスとか、あんまり本気のプレゼントは、付き合ってもいない人に貰うのは面倒かなぁ、好みじゃないの貰っても困るし」
「なるほど」
「あとは、お菓子とか、そういうのもあんまり気軽すぎて嫌だよね」
「上限と下限が見えてきたぞ!」
「だからやっぱり、小物類かな。ペン立てとかマグカップとか、相手の趣味にもよるけど、ぬいぐるみとかもありかもね。私もぬいぐるみ貰ったら、とりあえず飾っておくもん」
「そうか、ぬいぐるみか」
「そうそう、家に置いておく物ならいらなくっても、最悪捨てちゃえばいいし」
「おい、物騒なこと言うなよ・・・・・・」
「それか、ケータイのストラップとかはどうかな。極端に変なものじゃなければ、普通につけてくれると思うよ」
「ストラップ!」
「ストラップ」
私は、自分の携帯電話を取り出し、そこにぶら下がっている樹脂細工のラクダを見せつけました。それは、春休み頃、鳥取に旅行に行った友達が買ってきたお土産です。私は紐に吊られてプラプラしているラクダを、人差し指で突付きました。
「ありがとう、凄く参考になったよ」
「ちなみに私は、動物だったら猫が好きかなぁ」
「えっ? あぁ、そうなんだ。俺も好きだよ、猫」
真崎君はさっそくポケットから財布を出して、プレゼントを購入する算段をたてているようでした。さて、ラクダの隣に猫をぶら下げても、喧嘩はしないでしょうか。
―― 五
会議、出張、体調不良、教師側の様々な理由で、授業は自習になることがあります。それは、体育の授業でも、例外ではないですよね。私たちの学校ではそういう場合、男女が一様に体育館に集められ、体育委員主導の下、全面コートを真ん中の半分で区切って、それぞれ男子女子で好きな室内競技に興じることができます。
その日、私たちは四時限目の体育の小出先生が風邪をひいたということで、ちょうど時間のあいていたクラス担任が出席をとり、それからは自由に遊んでいいことになりました。
天井から床に擦るまで垂れ下がっていた、緑色の粗い網目をしたネットを引いて、全面のコートを半分に仕切った後、私たちは話し合いの結果、女子はバドミントン、男子はバスケットボールをやることになりました。
私は、運動と言うものは、押し並べて得意ではありませんが、このバドミントンのように、ラケットという道具を握っての競技には、多少見るところがあるようです。それというのも、友人の言うところでは、「桜子は空間認識能力に長けている」らしく、その長ったらしい特殊能力のお陰で、よいしょとラケットを差し出すと、ちょうどよくシャトルを打ち返せるらしいのです。実際、私はその日、のんべんだらりとお喋りをしながらでも、一度もシャトルを落とすことはありませんでした、思わぬ才能発見です、プロを目指すには遅すぎましたが。
男子の方では、バスケットの試合が白熱しています。女子はみんなでラケットを振りながら会話するのが中心なのに比べ、男子はやはり男の性とでも言いましょうか、互いに競って勝敗を決めるのが好きなようです。言い忘れていましたが、私たちの学校では、体育の授業は隣り合う二つのクラスの合同で行われます。そのため、私たち二年三組は、正門から見て右隣の四組の生徒と一緒に、体育の授業をうけているわけなのです。
体育シューズのゴム底が床を擦るキュッキュッというスキール音が耳に心地よく、女子のほうでも半分近くの生徒は既にラケットを床に置いて、男子の試合を観戦していました。そうなると、男子たちは俄然張り切り出し、体をぶつけ合うラフプレーも増えてきました。そして、授業終了五分前、最後のグループがコートに出たとき、両チームの得点差は、なんと我らが三組の四点リードという状態でした。
ここまできたら、もう逃げ切って勝利する以外ありません。しかし、これだけの女子の目線が集まってしまったので、ムキになった四組はなんと男子バスケ部に所属する人達を三人も揃えてきました。私たちの三組には、バスケ部は八瀬君と佐々木君の二人しかいません。しかも五人の内の一人は、読書が趣味の貧弱もやしっ子、真崎君ではないですか。得点的には形勢有利、戦力的には形勢不利、さぁどうなるのでしょう、試合の結果に注目です。
果たして、運命のホイッスルが鳴りました。泣いても笑っても最後の五分の始まりです。
試合開始早々、ジャンプボールを取られると、バスケ部所属なのに私とあまり身長差がない男子が、鋭いドリブルで切り込み、あっさりとゴールネットを揺らしました。女子の間からは歓声が上がります。できるだけ平静を装っている彼ですが、鼻の穴が少し膨らんだのを、私は見逃しませんでした。それからは、お互いの攻めをバスケ部同士で潰し合い、しばらくの間どちらも得点できずにいましたが、開始三分頃、人数差の不利を突かれて一人マークの外れた四組のバスケ部男子が、スリーポイントシュートを決めました。これによって私たち三組はとうとう逆転され、一点のビハインド。しかし、まだ一点です、どんな形でもゴールできれば再度逆転し返せます。
そのワンゴールが生まれたのは、それから三十秒後のことでした。八瀬君と佐々木君の見事なパスワークで、相手のゴール下までボールが運ばれると、示し合わせたように、真崎君を含めた残りの三人がゴールに向けて走り込みました。三組のバスケ部員は虚を突かれたように目線を泳がせましたが、それでも八瀬君と佐々木君の周りをしっかり固めていました。素人連中はどうせゴールに入れられないという判断でしょうか、しかしその油断のおかげで、完全にフリーになったプレイヤーが一人。
「こっち!」
真崎君が、ゴールの斜め下で声を上げます。八瀬君は、その声にいち早く反応して、マークについている二人の足元を通すようにパスを出しました。真崎君はそれをがっちりと掴んで腰を落とし、全くの素人である私が見る限り、それなりに綺麗なフォームでボールを放りました。その様になっているシュートは、バックボードの黒い枠に当たり、ちょうど良く跳ねてゴールネットに吸い込まれました。私は、跳ねた方向が偶々良かったマグレシュートですね、と心の眼鏡をくいっと上げましたが、彼自身は佐々木君と八瀬君とハイタッチをして楽しそうです。
それから試合は一気に動き、カウンターで点を入れられ、また取り返し、さらに逆転されました。そんなこんなで残り二十秒、おそらく最後の攻撃チャンスでしょう。
一点負けている三組としては、ここで点を取らなければなりませんが、相手も最後の攻防と決めているらしく、ゴール下でゾーンディフェンスというのでしょうか、三組の攻撃を待っているようです。なぜ私の口からそんなバスケ用語が出たのかというと、いまちょうど、『スラムダンク』という漫画にハマっているからという簡単な理由です。
三組の五人が相手の陣地に近づくと、四組のバスケ部ではない二人が、一斉にボールを持つ佐々木君に突撃しました。佐々木君はその二人にしつこく纏わり付かれ、遂にボールを八瀬君にパスしましたが、それが相手の作戦だったようです。八瀬君がボールを触った瞬間、四組のバスケ部二人が猛烈に八瀬君を取り囲み、八瀬君は身動きが取れなくなってしまいました。
刻々と過ぎる残り時間、四組のディフェンスは、無理にボールを取りに行かないで、このまま時間切れに持ち込むつもりのようです。ついに試合時間は十秒を切り、絶体絶命と思われたその時、立て付けの悪い体育教官室の扉がギギギッと音を立てて開き、この授業を代理で監視していたクラス担任が顔を出しました。
自分をマークしていた二人がそれに気を取られるのを見て、佐々木君は二人を一気に振り払い八瀬君のヘルプに回ります。それに気付いた八瀬君は、佐々木君にパスを出し、残り四秒のその時、佐々木君のパスはなんとゴール下に入っていた真崎君に渡りました。
真崎君は迷わずシュートの体勢になります、しかし、そこに立ちふさがったのは、ゴール下を一手に任されていた、バスケ部員の最後の一人でした。真崎君はそれでも構わずシュートを放ちます。エキサイトしたディフェンスの男子は、普通のバスケットの試合でよく見るような厳しいディフェンスを、真崎君にしました。お互い競技を知っている者同士なら、それは特に問題にならない程度の接触だったでしょう、しかし、全くの素人である真崎君は、その軽い押し合いに体を弾かれ、体育館の床に派手に転倒してしまいました。
響くブザー、流れる終業の鐘。真崎君の放ったシュートは、綺麗にネットを通過して、私たち三組は見事な逆転勝利を収めました。
湧き上がる歓声と、満ち溢れる拍手にその勝負は大団円を向かえましたが、どうやらコート内では少し不穏なことになっているようです。真崎君は足元を抑えて座り込んでいました。倒してしまったバスケ部の男子は、手を差し出し声をかけていましたが、それに微笑で答えた真崎君は、その手に掴まり立ち上がっても、びっこを引いて歩いていました。
体育の授業で張り切りすぎて怪我をするなんて、文化系男子にあるまじき行為です、彼はもっと自分のキャラを理解するべきでしょう。真崎君はその後、保健委員に肩を借りて、保健室へと連行されていきました。
―――
私は昼食もそこそこに、保健室の扉の前に来ていました。保健室のある職員棟の一階には、こんな所にまでお弁当を食べに来る生徒は少なくて、怒涛のような喧騒も遠く、中の会話がこちらにまで聞こえていました。
「ただの捻挫だろうけど、念のため病院で見てもらいなさい」
「でも、ただちょっと転んだだけだし、大丈夫だと思います」
「ダメ、今から車で病院に送迎です。真崎君は早退になりますって先生に言ってくるから、ちゃんと待ってないと、校内放送で呼び出しするよ」
誰かが扉に近づく音に、私は思わず女子トイレに逃げ込みました。出てきた人物の白衣の後ろ姿を見るに、どうやら真崎君は保健の先生と会話していたことで間違いないでしょう。私はもう、そのまま教室に戻ってしまおうかとも思いましたが、折角ここまで来たのだから、少し顔を出すだけでも出しておこうかと思い直し、保健室の扉を潜りました。
「あれ、青海さん、どうかしたの?」
私が入室すると、体育服のままの真崎君はとぼけた顔で私を見て言いました。どうかしたのかって、あなたのお見舞い以外に、私がこのタイミングで保健室を訪れる理由があると思っているのでしょうか。
「なんか、ちょっとお腹が痛くて、ね」
「そうなんだ。先生なら少ししたら戻ってくるだろうから、座って待ってれば?」
「うん、そうする」
私は彼の無頓着な発言が癪に障ったので、少しだけ嘘をついてやりました。そして彼から距離を取るように、彼の近くの椅子ではなく、白くてふわふわとしたベッドに腰掛けました。
昼休みの保健室は、向かいの棟から微かに級友たちの声が聞こえてくるくらいで、ほとんど無音で落ち着きません。何か話せばいいのでしょうが、そもそも同じ委員会のよしみで様子を見に来ただけの私には、彼について話すことなど特にありませんでした。
「えっと、青海さん、お腹、大丈夫?」
「えっ? あぁ、うん」
「そっか、それは、良かったね、うん・・・・・・」
真崎君は私の嘘にまんまと騙されているようです。というか、私はどういうわけかその話題を失念していました。私は彼の足の具合を見に来たのですから、普通に足の状態を訊ねれば良かったのです。別に彼を笑わせるような、陽気な話題でなくてもよかったのです。だってここは、保健室なのですから。
「真崎君のほうこそ、足はどう・・・・・・」
ガラッと扉が開いたので、私はビックリして言葉を止めてしまいました。保健の先生が戻ってきたのです。真崎君と私とで急に注目してしまったので、保健の先生は一瞬たじろいでいましたが、すぐに気を取り直して私に言いました。
「これからこの子を病院に送らないといけないんだけど、どうかした?」
「あっ、いえ、私は真崎君の様子を見に来ただけなので」
真崎君は不思議そうに私のほうを見ましたが、それはこの際無視でいいでしょう。
「そっか、真崎君の友達なんだったら、彼の荷物を教室から持ってきてくれないかな、今日はもう学校に戻ってこないから」
「分かりました、どこに持って行けばいいですか?」
「そんな、青海さんはいいよ、別のやつに持ってきてもらうから」
慌てて立ち上がろうとした真崎君は、自分が足を負傷していることを忘れていたようで、顔を顰めてすぐに椅子へと逆戻りです。
「そうだなぁ、まずは制服に着替えてもらわないとだから、全部纏めて保健室に持ってきてもらえる?」
「わかりました、すぐに持ってきます」
私は颯爽と立ち上がると、背筋を伸ばして出口へと向かいます。
「青海さん、ありがとう」
「いいえ、これも文化祭実行委員の仕事を、怪我を理由に押し付けられないための行動ですから」
「よっぽど、サボりたいんだね」
「私、面倒くさいことが嫌いなの」
私はそう捨て台詞を残して、真崎君の荷物が置いてある教室へと足を向けます。さて、面倒くさい委員会の仕事を回避するために、さっさと彼の荷物を配達してあげましょうか。
―― 六
私が日本という国の紹介文を書くとしたら、その一行目は、湿気でジメジメとした住み辛い国です、となるでしょう。特に六月になると訪れる「梅雨」という時期は、木造の日本家屋にとっても、米や食パンなどの食料品にとっても、毛先がなかなか決まらない朝の少年少女にとっても、好ましくない季節なのです。
私は、その一週間以内に晴れる見込みのないほどに、どんより暗澹と覆いかぶさる梅雨の雨雲の下、真崎君と共に、体育館裏に作られた、ただコンクリートの壁が囲ってあるだけの簡素な資材置き場に来ていました。
私たちはそこで、前年までに文化祭で使われた木材やベニヤ板などの中から、再利用できるものがないかと探索にきたのですけれど、半ば以上が野ざらしにされているこの場所では、連日の雨が染み込んで、ボロボロと腐ったものばかりとても使えそうな物はありませんでした。
「ほら、やっぱり再利用なんて無理だって、ホームセンターで買って来ようよ」
「いや、こういう所こそできるだけ低予算で仕上げて、少しでも利益を・・・・・・」
真崎君はそう言って、湿って黒々としたベニア板を踏みつつ、もう一歩奥へと進みました。
私は呆れて、彼の背中を追います。
「ねぇ、あんまり踏み入れると、危ないんじゃない?」
「そんなことないって。ていうか、できるだけ奥のほうが雨とかしのげて生存率高そうだ」
この資材置き場は、毎年各クラスから相当量出る文化祭のゴミを一手に引き受けている場所なのですが、その管理はまともにされているわけではなく、持ち込まれた物を煩雑に放り込んであるだけなので、微妙なバランスが崩れるだけですぐに崩落しそうな雰囲気です。
「あっ、ほら、こいつとか使えそう」
「あぁ、そんな引っ張るとあぶな・・・・・・」
私がそう言い掛けた時でした。真崎君が無考えに引っ張った細身の木材は、すっぽりと山から抜けて、それに支えられていたゴミの山がジェンガのように音を立てて崩れました。その崩落に巻き込まれた私たちは、それでも特に資材の下敷きになったりすることもなく、山積みになったそれらの向こう側に転がり出ただけでした。
「あ、あぶねぇ・・・・・・」
「だから言ったじゃない! 大事故になってたかもしれないよ!」
真崎君はしゅんとしてしまって、私に怪我はないか聞いてきました。私は腕組みをして肩を怒らせまし
たが、彼も反省しているようだし、それ以上の追及は勘弁してあげることにしました。
「うん、私は大丈夫」
「そっか、よかった・・・・・・その、ごめん」
その時です、私の鼻先に冷たい感覚がありました。まさか、とは思いましたが、それは次第に私の首筋、腕と続けて降りかかり、私が空を見上げる頃には、資材置き場に転がったトタンを鳴らすほどに強まっていました。
「やば、雨だ!」
「うそっ!」
私たちは二人して、大慌てで資材置き場の外へ転がり出ました。
急激に降りしきる雨の中を、私たちはずぶ濡れになりながら、なんとか近くの体育倉庫の軒下に逃げ込むことができました。上着はびしょびしょになってしまい、髪の毛からも水が滴ります。隣に立った真崎君は、急に学ランを脱いで、その下のワイシャツまでも脱ぎました。
私はギョッとして、上半身を裸にして一体何をするのかと思いましたが、彼はたった今脱いだワイシャツを私の方に差し出しました。
「こんなので悪いけど、頭とか拭きなよ」
そう言ってワイシャツは私に託して、自分はまた水をたっぷり吸って重くなった学ランを羽織りました。私は仕方なく、言われた通りにワイシャツで髪を拭いてみましたが、吸水性の悪いワイシャツでは、ほとんど効果がないようでした。
それに対して抗議をしようと真崎君のほうを見た私でしたが、彼のほうでは私の顔をまじまじと見ていて、堪えきれないという風にぷっと吹き出しました。
「何かおかしい?」
「青海さん、睫毛が長すぎて、睫毛から水が滴ってるよ」
私が呆けて目をぱちくりさせると、確かに睫毛から水玉が落ちる感覚がありました。私はかぁっ恥ずかしくなって、手に持っていたワイシャツで急いで顔を拭きました。まだほんのり暖かい彼のワイシャツからは、お姉さんと兼用のボディソープの所為でしょうか、女の子みたいな甘い匂いがしました。私はその匂いにくらくらとして、顔を覆ったまま、内側から体温が上昇してくるのを感じました。今、彼のほうを見ることはできません。だって顔を上げてしまったら、私の顔が牡丹の花のようになっていることがバレてしまいます。もしそのことが知れてしまえば、私はおそらく、もう二度と彼の前に平常心で立てなくなってしまうでしょう。
幸い、真崎君にそれ以上会話を続ける気はなかったみたいで、私たちはそれから雨脚が弱まるまで、隣り合う姿勢でぼーっと鈍色の雨雲を見上げていました。
しばらく経って、顔の火照りが治まってきてから、私は一つ気になっていたことを真崎君に聞きます。
「ねぇ、そういえば、先月言っていた誕生日プレゼント、喜んでもらえた?」
「あぁ、あれ」
先月の初め頃、真崎君が私に相談してきた誕生日プレゼント。あれは本当に、私のためではなかったようです。それは、私の誕生日を過ぎた今でも、彼は私に何かを渡す素振りを一切見せないことと、クラスの人達が開いてくれた誕生会にも参加していなかったところをみるに、どうやら私の誕生日が五月三十一日だったということさえも、彼は知らないようなのです。
従って、彼は本当に、五月中に誕生日を迎えた別の女性に、私の提案した誕生日プレゼントを渡したはずなのです。その相手を、私は知りませんでした。
「うん、まぁ、割と喜んでくれた、のかな」
「結局、なにをあげたの?」
「ストラップは、つけてくれなかったら怖いから、無難にマグカップにした」
無難に、ねぇ。直接口を付ける物ですよ、あまり仲良くない人からは貰いたくないですね。
「でも、喜んでくれたなら、よかったね」
「うん、青海さんのお陰だよ」
真崎君は、折角相談に乗ってあげた私に何のお礼返しもしていないのに、それを終わったことのように話ました。私はよっぽど、ついこの間が私の誕生日だったということを教えてやろうかとも思いましたが、その少し意地悪な感情は、しとしとと降りしきる雨中に溶かしてしまいました。体育倉庫の軒下で彼の隣に座る私は、できる限りに弱みのない、綺麗な心でいようと思っていました。
―― 七
七月七日の日は、その由来は詳しく知りませんが、一つのイベントが定められた日になっています。
七夕、短冊に願いをしたため笹に吊るす日、宇宙の彼方で一組の男女が唯一出会える日。
私はその日、友達数人に誘われて、学校から直接カラオケボックスに来ていました。私はこうやってカラオケにきた時、ほとんどの場合は一曲も歌わずに、皆が楽しんでいるところに手拍子で合わせ、盛り上がる曲では声を合わせてコールを挟んだりしている程度なのですが、今日も相変わらずの楽しみ方で壁に並んだ椅子の一角に座っていました。
「桜子、つぎ、歌いなよ」
「えぇ、私はいいよ、上手すぎてみんなを引かせちゃうから」
「なにそれ、むしろ興味出ちゃうんだけど」
私は隣に座った親友のマキに歌って欲しい曲のリクエストをして、その場をいつも通りにはぐらかします。マキはとても歌が上手くて、カラオケチャンピオンとしてテレビ番組に出たこともある人です。その模様は、もちろん録画してDVDに保存しました。
曲が切り替わり、エレキギターの歪み音が響きました。その星に関する幼い頃の記憶を歌ったロックバンドの曲は、定番のポピュラーソングです。私はそれに半ばぼーっと聞き入っていましたが、その時ふと、カラオケの大音量に紛れて、自分の鞄から携帯電話の着信音が聞こえました。
私は学生鞄の中から携帯電話を引っ張り出し、ディスプレイに浮かぶ名前を確認します。
『真崎勇人』
その表示を見たとき、私は比喩表現ではなく、椅子から数センチ飛び上がりました。隣で分厚い収録曲の一覧表を捲っていたマキも、思わずその手を止めて私を見ます。
「どしたの、桜子?」
「い、いや、ちょっと電話。すぐ戻ってくるから」
私は並んで座るみんなの膝を掻き分け、そそくさと個室を抜け出しました。
「もしもし!」
「あっ、もしもし、青海さん?」
「うん、そうだけど」
「なんか、電波悪い? というか、色んな音が混じって聞こえる」
「あぁ、いま私、カラオケにいるから。ちょっと待ってて、いま外に出るね」
私は電話を耳に当てたまま、小走りでエレベーターへと向かいました。
「カラオケかぁ、俺、ほとんど行った事ないなぁ」
「そうなの? 私は結構いくよ?」
ほとんど置き物になっていますけれど。
「へぇ、俺は中学以来行ってないな、青海さんは歌うまいの?」
「いや、全く全然からっきしなもので」
「えっ? 結構カラオケいってるのに?」
「カラオケに通っていれば、誰でも上手くなるっていうものではないと思う」
ていうか、歌ってないですし。
エレベーターの『下』の表示を押すと、運良く、箱がちょうど上がってきたところでした。チンッという音がすぐに聞こえ、私は降りる人を待ってからそれに乗り込みました。
「もうエレベーターに乗ったから、少しは聞こえやすくなった?」
「うん、カラオケで鳴らした青海さんの美声が直接聞こえる」
「だから、歌下手なんだって」
「そうだっけ?」
一階に着くと、私は制服のスカートを揺らして駅前の喧騒に巻き込まれます。このままではまた雑音が混じってしまいそうだったので、私は路地を一本入って、違法駐輪された自転車の間に挟まれました。
「それで、どうして電話してきたの?」
「あぁ、そうそう。委員会のことなんだけどさぁ、夏休み中の行動計画書を二十日までに出さないとだから、もし青海さんが面倒なら、俺が適当に決めちゃうけど、いいかな」
「そっか、あれもう出さないとだね」
「うん、あれは別に工程ごとに一週間くらいで区切って考えれば大丈夫だろうから、俺一人でも出来るけど」
「そうだね、頼んじゃっていいかな」
「わかった、来週の月曜までにはやっておくよ」
それから私たちは少し黙って、沈黙の中に彼の息遣いが微かに聞こえました。
地平線の端を夕暮れのオレンジ色で化粧をした濃藍色の空に、一番星が光っていました。
「今日って、何の日か知ってる?」
「七夕、じゃなくて?」
「そう七夕。夜空に浮かぶ一組のカップルが、年に一度だけ出会うことを許される日」
「なんか、詩的だね」
「真崎君はさ、織姫様と彦星様って、不幸だと思う?」
「どうだろう、愛し合ってるんだから、年に一回しか会えないのは、やっぱり不幸なんじゃないかな」
「私は、そうは思わないな」
「そうなんだ」
「私は、たとえ年に一回しか出会えなくても、お互いに愛し合っていれば、それだけで何よりも幸せなことだと思う」
「ふぅん・・・・・・」
「例えば、毎日顔を合わせていても、毎日面と向かって会話をしていても、お互い心が通じ合っていなければ、それはとっても味気のない不幸なことだと思わない?」
「まぁ、そうかな」
「例えば、片方からは心を伝えていても、もう一方が気付かなければ、それを受け取らなければ、そのほうがよっぽど不幸な関係だと思う」
私はーー
「だから、どんなに遠く離れていても、永遠に心を通わせている織姫様と彦星様が、私は羨ましい」
私は、なんてことをつらつらと語っているのでしょう。夕暮れのセンチメンタリズムがそうさせたのでしょうか。私は真崎君に、とんでもないことを話してしまっているような気がしていました。しかし、頭の芯は沸騰してジンジンと痺れ、どこか奥のほうで「やめて!」と叫んでいる自分に気付きながら、私は言葉を紡ぐことを止められなかったのです。
真崎君は案の定、私の意味不明な自己陶酔に無言でしたが、十秒ほど経ってからでしょうか、彼はようやく声を出しました。
「・・・・・・青海さん、ごめん。俺、明日から一週間くらい、学校休む」
「えっ? あぁ、そう・・・・・・」
「俺が学校に出てきたら、見て欲しい物があるから、その時はよろしくお願いします」
「うん、待ってる」
プツリと電話は切れました。真崎君の、何かを覚悟したような声は、私の耳の奥に反響していつまでも残ります。
私は右腕を持ち上げて、目を塞ぎました。
帰宅時の駅前には、人の作りだす音が、溺れてしまうほどに溢れていました。
―― 八
一週間後、真崎君は約束通り学校に出てきました。
屋上のフェンスに寄りかかり、私は真崎君に渡されたその小説を読んでいました。その小説に書かれた『彼女』は、期待なんてしていなかったけれど、当たり前のように私とは全然違う人で、小説の中の真崎君が嬉しい、楽しい気持ちを語る度に、私の心はギュッと締め付けられました。
その文章からは、真崎君の彼女を想う気持ちが痛いほどに伝わってきて、夏祭りの日、彼女と付き合うことになり、そして大輪の花火の下で抱きしめあった時、私は頬に熱いものが伝っていることに気が付きました。
「青海さん、大丈夫?」
「うん、とっても、とってもいいと思うよ、私は」
慌ててハンカチを差し出す彼に、私は素直な気持ちを伝えました。書かれていたのは私のことではなかったけれど、それ以上に、その小説に心を打たれたのです。
「今まで私が読んだどの小説よりも、面白かった」
「それは言いすぎでしょう。自分で読み直してもまだまだ甘いし、これじゃどんな賞に出しても、上手くいって一時選考突破くらいだろ」
「これを大賞にできない賞なんて、全部潰れるべきだね」
真崎君は笑って、ありがとう、と言いました。それだけで私は、とても満たされた気持ちになりました。それと同時に、私は気付いてしまったのです。私は、まだ失恋できていないということに。私はまだ、真崎君のことが好きで、その気持ちを否定されるのが怖くて、綺麗なままで、心の中にしまっておこうしている自分がいることに。・・・・・・
だから私は、その時に決めました、この恋を終わらせようと。私の初恋を、半分だけの綺麗なままのお話にしないで、最後の1ページまで描ききろうと。
「ねぇ、真崎君」
自分勝手な都合で、自分勝手なタイミングで、傲慢な私は、彼の気持ちも考えないで言いました。
「私、あなたのことが好き。たぶん、ずっと前から、好きでした」
夏休みの少し前、からりと晴れた青空には、白い雲が一人きりで、ぽっかりと浮かんでいました。
―― 九
私の住む地域では、七月の最後の土曜日に、毎年決まって夏祭りが開かれます。それは、それなりに盛大なもので、神社を中心に大通りを露天が埋め尽くし、地元の有志が練習した鼓笛などを披露したり、組まれた櫓の周囲で盆踊りを踊ったりするのですが、その中でも特に派手で主役扱いなのが、夜が更けたピークの頃合になると、十分か二十分ほどの時間をかけて打ちあがる花火でした。それは、この辺りでは唯一打ちあがる花火なので、地元の人達のみならず、周辺住民一同がそれなりに楽しみにしている行事なのです。
私はその日、高校の友人や、中学の頃の友人に「一緒に行こう」と、いくらか誘われましたが、それらを全て断って、一人、祭りの中心から距離を置いたうら寂しい通りを歩いていました。
他の子たちはカラフルな浴衣を着こんで、華やかな花緒の下駄をカランコロンと鳴らしているのでしょう。私はそれから遠ざかるように、Tシャツにスキニージーンズという洒落っ気のない格好で、暗くなりだした裏通りを行きます。
目的地は、他の人にはなんてことのない、私とあの人だけの思い出の場所。
学校の校門は夏休みだというのに開いていました。職員室に明かりが点いているので、先生方が長期休暇中にも関わらず何か作業をしているのでしょう。
私は視線を巡らせて、誰にも見られていないことを軽く確認してから、校内へと入りました。いつもと違う、人の声がしない静かな校内は、不思議と心が洗われるような、胸がスッとするような感覚がありました。
私がその目的の場所、体育倉庫の軒下にたどり着いたのは、空一面に瞬く星が出始める頃合でした。私は少し左気味に、そこにそっと腰を下ろし、空を見上げます。空には雲ひとつ浮かんでおらず、まるであのどんよりと私たちの上に掛かっていた雨雲は幻か何かだったかのように思われました。あの突然の雨さえも、そして、あの日の私たちさえも。・・・・・・
それから私は、その時がくるのを、ふわふわと地に足の着かない心持ちで、夢見心地の気分で、一人、待望していたのです。
どれくらいの時間そうしていたのでしょうか。果たしてヒューンという甲高い音が夜の静寂を破り、まだ少しだけ光の残る紺色の夜空に花火が打ちあがりました。
夏の夜空にさんざめく色とりどりの火の粉は、淡々と満了していき、それを見上げる人々の網膜に、十色の煌きを焼き付けていきます。それは、彼の小説に書かれていたラストシーンと同じで、しかしそこには、彼でも、彼女でもない、ただの友人である「青海さん」が一人でいるだけでした。
その時、私の初恋はようやく終わりを告げました。成就しなかった、真崎君の恋愛小説のワンシーンをもって、この物語を終わらせることができました。三ヶ月ほど前に始まった、私の心の眠っていた部分を輝かせた綺麗な物語は、この時になってやっと、エンディングを迎えることができたのです。全ての思い出は、途上ではなく、道程として記憶の箱にしまわれ、私の心には、新しい物語を詰め込むための空白が用意されたのです。
しかし、今は。その記憶に刻まれた物語を、卒業アルバムを捲るように、少しだけ見返させて下さい。せめて、この花火が全て夜空に消えてしまうまでは――。
初対面で私に気付かなかった真崎君。
喫茶店の設計図面を一人で勝手に作ってきてしまった真崎君。
口論にはめっぽう弱い真崎君。
誕生日プレゼントを一人で決められない真崎君。
授業のバスケットで張り切りすぎて足を捻ってしまう真崎君。
資材置き場で無考えに木材を引っこ抜く危険な真崎君。
雨に濡れた私にワイシャツを貸してくれた真崎君。
私じゃない誰かに誕生日プレゼントをあげた真崎君。
私のセンチメンタルな話に茶々を入れずに聞いてくれた真崎君。
私じゃない誰かとの恋愛を赤裸々に綴った真崎君。
真崎君――。
真崎君――。
私は、あなたのことを、初めて心の底から――。
「青海さん?」
それは紛れもなく、真崎君の声でした。えぇ、この私が聞き間違うはずないじゃないですか。この三ヶ月間、ずっと彼の声を聞いていた、この青海桜子が。
「ま、さき、く」
私は、しゃくり上げながら、歪む視界で彼を探します。おそらく幻聴でしょう、だって彼のほうには、こんな夏休み真っ只中の、お祭り会場から数キロ離れた学校なんかに来る意味はないのですから。
しかし、私のその考えは直ぐに否定されました。だってそこには彼が、真崎君が、本当に立っていたのですから。
私は、こんな情けない状態のまま彼と相対することはできないと思いました。だから、背筋を伸ばして気丈に立ち上がって、凛と彼を見つめるのです。
「あれぇ、どうしてぇ」
・・・・・・そうしようと思ったのですよ、本当に。しかし私は、ものの見事に、無様な顔を彼に向けて、泣きはらした瞳を必死に擦るのでした。
「いや、こっちのほうがどうして、なんだけど。それに、青海さん、泣いてるし」
「泣いてない、もうそれ終わったから」
私はなんとか立ち直って、やっと真崎君と正面から向き合えました。真崎君は、頭の後ろのほうを掻いて目線を逸らしていましたが、私の隣までぎこちなく歩いてくると、夜空に顔を向けました。
「青海さんは、絶対にここには来ないと思ってた」
「・・・・・・どうして?」
「だって、青海さんは人気者だし、きっと色んな人にお祭りに誘われるだろうし、それに・・・・・・」
「それに?」
「なんていうか、うん、彼氏とか、いるんでしょ?」
「いないよ、そんなの」
「えっ、でも、あんなにモテるのに?」
「言ったでしょ、私が好きなのは、・・・・・・真崎君だけ」
「あれも、男をたらし込む技術の一つだと思ってたよ」
「なにそれ、ひどい!」
私は眉を寄せて抗議の表情で真崎君を見ましたが、彼のほうでは口元を緩めて笑っていました。
「じゃあ、本当だったんだ、俺のこと・・・・・・って話」
「うん、悪いですか?」
「いや、悪くない、ていうか、素直に嬉しいっていうか・・・・・・」
「でも、真崎君は、別に好きな人がいるんでしょう? 小説に出てきたヒロインが、その人に、誕生日プレゼントもあげたんでしょう?」
「誕生日? あぁ、あれは別に、そういうのじゃないよ。ただ、昔から仲良かった、幼馴染っていうのかな、そいつが今年こそなんか寄越せって言ってきたから、困り果てて青海さんに相談しただけだよ」
「えっ? じゃあ、私への誕生日プレゼントは?」
「青海さんの誕生日がいつかなんて、俺は知らないよ」
「あっ、ふぅん」
「それにさぁ、小説のことなんだけど、その、あんまり直接的に書いちゃうと、恥ずかしかったというか、さぁ・・・・・・」
「うん」
「だからあれは、本当は青海さんとの願望を書いたものというか、そういうことになっておりまして・・・・・・」
「・・・・・・うん」
「だから、その、今のこの状況っていうのは、少し前に俺が望んだそのままの状況といいますか・・・・・・」
「・・・・・・だから?」
「・・・・・・青海さん、こっち向いて」
私はその言葉に、逆らう術を知りませんでした。私は彼に言われるまま、彼のほうを向いて、
「青海桜子さん、僕と、付き合って下さい」
ただ一つ、私はこくりと頷きました。
すると真崎君は、「じゃあ、失礼します」と言って、真崎君の願望と言った、あの小説のラストシーンと同じように、私のことをそっと抱きしめたのです。
私には、その状況が現実なのか幻想なのか上手く理解できずに、温かい夢の中に漂っているような感覚で、ただ呆然と、彼の背中越しに見える、夜空に閃く大輪の花に、ぼんやりと見惚れていたのでした。
―― 十
その後の話を、少しだけしましょうか。
八月も一週間が過ぎようとしている頃、私と真崎君は、文化祭の準備のために学校へと向かっていました。年に三回しかない長期休暇中だというのに、学校指定の制服を着ていかなければならないのは、少し面倒くさい決まりでした。
真崎君は、ワイシャツの第二ボタンまでを開けて、燦々と降り注ぐ真夏の太陽を憎々しげに見上げていました。私たちは、いちおう「お付き合いしている」という状況なのですが、これまでの二週間ほど、それらしいことは特にしていなくて、変わったことといえば、毎日かける電話の時間が少し長くなったくらいのことでしょうか。それについて、特に不満ということはないのですが、それでももうちょっと、何か目に見える変化があってもいいとは思います。
「青海さんって肌白いよね、よく日焼けしないなぁ」
「ちゃんと日焼け止めを塗ってるからね」
「毎日?」
「うん、毎日」
「へぇ、やっぱり青海さんってしっかりしてるな」
「それだ!」
「えっ?」
私は、なぜこんなにも二人の関係性に変化がないのか、その原因に気付きました。
「その、「青海さん」っていう呼び方、禁止にしましょう」
「禁止って、えっ?」
当然、真崎君は当惑してしまって、私を見ます。
「だから、これからは私のことを「桜子」って呼んでね」
「さく、えぇ!? 嫌だよ、そんなの恥ずかしいじゃん!」
「恥ずかしい? 付き合っているのに? あんなリビドーに満ち溢れた私小説を曝したのに?」
「あれは、もう勘弁して下さい・・・・・・」
「はい、じゃあ声に出してみましょう、桜子さん」
「さ、桜子、さん」
「じゃあ次、さんも取っちゃおう! 桜子」
「そ、そんな急にハードル高くない?」
「はい、桜子」
「さ、桜子・・・・・・」
私は満足しました。ようやく私たちは、少し進んだ関係になったという実感が湧いてきたから。
「ねぇ、真崎君、今度二人で、どこか遊びに行こうよ」
「桜子は、勇人君って呼んでくれないのかよ」
「どこがいいかなぁ、ディズニーランドとか、八景島シーパラダイスとか」
「八景島シーパラダイスって、言いたかっただけでしょ」
夏の日差しを浴びて、長い年月眠っていた蝉たちが、ようやく地上に這い出て、その命を声高に歌い上げていました。時雨のようなその音に包まれて、私は足取り軽く、真崎君の隣を歩いていました。
お読み頂きありがとうございます。