雨細工
1.
トンボ玉の簪やブローチに紛れて、雨粒を連ねたようなガラス細工が並んでいた。何に使うのかはわからない。ただ綺麗だった。
「何それ」
ブレスレットの棚を物色していた貴子が寄って来て、木のテーブルから雨細工をぞんざいに摘み上げた。ちりり、と、怖いくらい繊細な音がした。
「窓際にかけるんですよ」
カウンターから出てきて、女性の店員が説明した。年齢は、おそらく我々と同じ二十代半ば。不思議と懐かしい感じのする人だった。リネンの白いフレアワンピースを着た彼女は、柔らかな仕草で貴子から雨細工を受け取ると、蛍光灯の横から垂れていたワイヤーの一本にそれを引っ掛けて見せた。ガラス玉の一粒一粒が、複雑に光を反射していた。なるほど、と僕は思わず呟いた。貴子は口をへの字にして、僕と店員の顔を交互に睨んだ。
「どういうこと? 風鈴?」
「音も、少しは鳴りますね」
静かに答えると、店員はまたカウンターの方に引っ込んでしまった。貴子は外出先で急にその日のファッションが気に食わなくなった時に見せる独特の表情を作り、キョロキョロと忙しなく店内を見回し始めた。一つでも多く難癖を付けてやろうという意気込みが、その機敏な挙動から感じられた。事態が深刻にならないうちに店を出たいところだったが、外は生憎の夕立だ。もう暫くは、この小さなアクセサリー屋にいるしかない。
見ると、店内には他にもたくさんワイヤーが降りていて、その先には、雫の形をしたメッセージカードがぶら下がっていた。
「このカードはなんですか?」
訊ねると、店員は、ああ、と小さく笑み、手近な引き出しを開けながら僕を手招きした。
「雨はお好きですか?」
「はぁ、まぁ」
頷く僕に、店員は雫のカードと細いサインペンを差し出した。
「雨の好きな人に、雨の日の素敵なところを書いてもらってるんです。梅雨だから、少しでも楽しく過ごせないかって。まとめてブログにあげたりもしてるんですけど、良かったら一枚お願いします」
お願いされてしまったからには、何か気の利いたことを書きたい。けれどいざ考えてみると、どうして自分が雨を好きだと思うのか、僕は上手く言葉にできなかった。
不意に外の匂いが気になって、窓の方を見た。さっきより少しだけ、夕立は弱まってきていた。
「良樹、そろそろ」
貴子の苛立った声を背後に、僕はペンを置いた。結局何も書けなかったカードを返しながら、言い訳を呟く。
「偏頭痛持ちなので、連れは雨が苦手なんです。せっかくですが、今日はこのへんで」
「大丈夫ですか? なんだか、お引き止めしてごめんなさい。ご縁があれば、またの機会に」
店員の気遣わしげな視線を受け取ることもせず、木製の床を踏み抜かんばかりに貴子は店を出て行った。小さく一度会釈を残し、彼女の後を追う。
「安っぽい店だったわね」
道路に出た貴子は、キャスキッドソンの折り畳み傘を開きながらそう吐きすてた。規模の立派な店ではないことは事実だった。けれど僕は、鞄から傘を探すフリをして、彼女の言葉を聞えなかったことにした。
2.
「忘れ物ですか?」
すっかりデートに意欲を失くした貴子を駅に送り届けてから、僕は再びさっきの店に引き返した。店員は目を丸くして、カウンター越しにこちらを見つめた。
「いや、えっと、さっきはカードを書きそびれたので」
本当のところを言えば、僕だって、自分が今どうしてここにいるのかよくわかってはいなかった。ただ、貴子を宥め賺しながら歩いた道すがらも、頭の中ではずっとあの雨細工のことを考えていたし、一人になってからは、足が自然に動いていた。
「綺麗な字ですね」
店員の社交辞令に、僕は曖昧な笑顔を返した。結局カードには、「紫陽花」とだけ書いた。あの小さく慎ましい雨花を、好んでいるのは嘘ではない。一度書いてしまえば、それが答えのような気もしてくる。
「紫陽花なら、矢田寺が有名ですけれど。今年は御覧になりました?」
「いえ、初めて聞きました。奈良ですか?」
「郡山です。地元なんです、私」
良かったらどうぞ、と言って、彼女は若草色の可愛らしい名刺をくれた。桐島真弓。雑貨・アクセサリーショップ「雫」の販売・広報担当。「店舗」とされている住所は今この場所、奈良町のものだったが、「工房」は郡山となっていた。
「ガラス工芸がお好きですか?」
レジを開いたりして、店仕舞の準備らしき作業をしながら、桐島真弓はにっこりした。手持ち無沙汰になった僕は、けれどまだ帰りたくはなくて、ぶら下がった雨細工をぼんやり眺めていたのだった。
「昔、その」
恥ずかしくなり、途中で口を噤んだ。桐島真弓は特に追求することもせず、真意の読めない万能な微笑を浮かべていた。僕はそっと深呼吸をしてから、努めて静かな声で言った。
「あのガラス細工は、おいくらですか」
「あの、吊ってるやつですか? 実はあれ、売り物じゃないんです」
そう答えて彼女は、困り顔で雨細工を見つめた。
「姉の個人的な作品で、店に置くと見栄えがいいから借りてきたんです。狐のなんとやらってタイトルのオブジェで、実用品じゃないんですよ」
そこで僕はハッとして、財布からさっき貰った名刺を取り出す。
「作品の制作は、お姉様が?」
「そうです、私はただの売り子で。あの、ちょうど、もうすぐ姉がこちらに納品に来ることになってるので、良かったら、お譲りできないか相談してみますが」
僕は何も答えず、黙って手元の名刺を睨んでいた。販売・広報担当、桐島真弓。工房は郡山。
数分後現れた女性は、アイボリーのチュニックにブルージーンズを合わせ、ぺたんこのサンダルを履いていた。化粧は薄く、くせ毛がかった髪は無造作に後ろで結われている。やたらしゅっと伸びた背筋と、気の強そうな瞳は相変わらずだった。
「良樹君?」
こちらに気付いた桐島弓子先生は、戸惑いがちにそっと、僕の名前を呼んだ。
3.
高校生の頃、僕は毎日雨を待っていた。中学からの惰性で入ったテニス部が妙に体育会系で、今ひとつ性に合っていなかったのだ。天候が悪ければ、練習は各自雨を避けながらの基礎トレーニングになる。僕はいつも、トレーニング場所を探すフリをして、一人美術室に逃げ込んでいた。
「またサボりに来たの? いっそ美術部に入る? ん?」
窓際にイスを置き、手元で何かをこね回しながら、弓子先生はニヒルに笑った。彼女は白いブラウスの上に、薄碧いエプロンを着けていた。
「それも良いかもしれません」
軽く肩をすくめて見せ、手近なイスに腰掛けた。先生は小さく鼻で笑い、窓の外を見遣る。六月の義務的な雨が、青葉の初夏を濡らしていた。
「今日、部活ないんですか?」
「あるよ。でも、雨の日は君しか来ない」
「晴れの日はみんな来るんですか?」
「晴れの日は誰も来ない」
ふっと、尖らせた口から息を吐く先生。どうやら、何かを布で磨いているらしかった。
桐島弓子先生は美術担当の若い講師だった。無造作に結い上げた黒髪がトレードマーク。美人だけれど、授業もファッションもあまりやる気がないと評判だ。存在意義すら疑われている美術部の顧問として、放課後は毎日美術室にいる。先生は大体いつも、何か書類の処理をしていた。僕は専ら、部屋の隅に積まれている『世界の美術』とか『マリー・ローランサンの生涯』とかを読みふけっていた。
「今日は、お仕事されないんですね」
「ん、たまにはね」
俯き、膝の上でゆっくり手を動かす先生の姿は、姿勢の良さに、窓から差す薄い光の加減が相まって、まるで百合のようだった。
「気になる?」
僕の視線に気付いた先生は、微笑とともにこちらを流し見た。まさか見蕩れていたとも言えず、誤摩化すための相づちを小さく一つ。
「おいで」
幼子が遊びに誘うときのような、妙に無邪気な顔で手招きする先生。歩み寄った僕は、一度、わざわざ窓の外の雨を確認しなければならなかった。先生の手の中に、桜花が落ちているように見えたからだ。
「ビー玉ですか?」
「トンボ玉っていうの。お里の名産でね」
どこか誇らしげに先生は言う。小さな無色のガラス玉の中に、薄紅色した桜の花びらが閉じ込められていた。
「これ、花は本物ですか?」
「まさか。私が造ったのよ」
すごい、と、ほとんど無意識のうちに呟いていた。こんなに露に、何の躊躇いも慎みもなく本心を洩らすのは、とても久しぶりのことに思われた。先生は目を丸くし、頬をさっと桜色に染めた。僕はとんでもない過失を犯した気がして、反射的に彼女から顔をそらした。
「よかったら、良樹君も磨く?」
先生はエプロンのポケットから新しいトンボ玉を取り出すと、伏し目がちに首を傾げてみせた。今度はガラス自体が紅く、中の桜花がさっきよりも少し白かった。
「こっちの方が、艶っぽいですね」
受け取ったトンボ玉を手の中で転がしながら僕は言った。
「そっちの透明の方は、まだ初心です」
先生はきょとんとした表情で、二つのトンボ玉を見比べると、十歳は若返ったようなあどけない表情で僕を見つめた。
「随分、洒落た物言いをするのね」
僕はすぐ、自分の顔が赤くなったことを自覚した。先生が急に目をそらしたからだ。
それから先生は、幼い頃から奈良のガラス工芸が好きだったこと、工芸職人になりたくて関東の美大に来たこと、その後教師になったこと、先日久しぶりに大学の工房でトンボ玉を造ったこと、などをぽつぽつと話した。僕は少し遠くに座り、手元に集中しているフリをしていた。
「不思議だよね。大学出る頃には、工芸を仕事にしようだなんて、全然思わなくなってた」
気の聞いた言葉一つ出て来ない自分を、僕は恥じた。けれど、それは仕方のないことだと思った。もし今、先生の独白に何か、答えみたいなものを返せるのだとしたら、僕はこんな風に美術室に通ったりしていない。
「多分、それがカッコいいと思ってたんだよね。安定した職に就くことが大人な選択だって。芸術で食べていこうって息巻く同輩たちを、私、心のどこかで笑ってた」
それっきり、先生は黙りこくってしまった。雨の音が強くなり、ひどく哀婉な時間が、ゆっくりと流れていった。
「他にないんですか、トンボ玉」
なるべくそっけない口調で、僕は沈黙を破った。哀憐からではなかった。胸にあったのはきっと、もっと幼稚で、等身大で、どうしようもない動機だ。
先生は面食らったように何度か瞬きをした後、薄く微笑み頷いた。
「続きは、また、雨の日に」
4.
次の雨は一週間後のことだった。先生は、沢山のガラス細工を机に並べて僕のことを待っていた。素直な人だと思った。大人に対して、そんな風に感じたのは初めてだった。彼女が待っていてくれたことが、僕は嬉しかった。
「これは一輪挿しで、そっちは小さいけどランプシェード」
「この、まるっこいのは?」
「金魚鉢。私の故郷ね、金魚すくいが有名な町なの」
風流でしょ、と、先生は胸を張る。素敵ですねと、僕は応えた。多分、そこが弓子先生の地元でなければ、ただ奇妙な町だと思ったに違いない。
金魚鉢はガラス自体に気泡がたくさん入っていて、とても涼しげだった。赤や黒の金魚が、さぞ映えることだろう。
「やっぱり、なんだか変わってるね、君」
作品一つ一つを矯めつ眇めつする僕に、先生は言った。
「普通、男子高校生ってさ、綺麗なものとか、風流な物とかって、あんまり興味ないものじゃない?」
「そうでもないですよ」
「嘘だ。照れ隠しでしょ」
嘘で照れ隠しだった。本当は、僕以外誰も、工芸や芸術に興味を持つ男子なんていなかった。大事なのは、面白いかどうかと、格好いいかどうかだけ。綺麗とか上品とか、そんな価値観にこだわる男は軟弱者だ。
「私、よく憶えてるのよ。高校生の時、芸大に行くんだって男友達に話したら、笑われたの。ちょっと気になってた子だったんだけど、一瞬で大嫌いになったわ」
「激情家ですね」
「また、そうやってすぐ誤摩化す」
逃がさないぞと言わんばかりに、先生はこちらを睨んだ。相手にばかり打ち明けた話をさせて、狡いのは承知していた。
きっかけは、国語の教科書に載っていた、漱石の『夢十夜』だったろう。愚かな僕に、その深い意味は理解できなかったけれど。百年越しの待ち合わせとして白百合が姿を現した瞬間、こんなに美しいことはないと感じた。興奮して、授業そっちのけで何度も読み返した。「すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が花の先で骨に徹えるほど匂った」。今でも空で言える。それくらい感動した。
周りの友人たちは、違った感想だった。クラスの皆が、漱石を笑っていた。なんだよ百合って、なんだよ百年って、ありえねー、意味わからねー。
なぜ、あり得なければ笑うのか、意味がわからなければ笑うのか。それこそ僕には理解できなかった。今、彼らに向かって自分の本心を口にしたら、きっと馬鹿にされる。ただそれだけはハッキリとわかった。
「文学が、好きなんです。漱石とか、鏡花とか、谷崎とか。美術とか工芸とかは、あんまり詳しくないんですけど。雑誌とか、美術に関する本を読むのは好きで、それで」
それ以上は、上手く言葉が続かなかった。恥じらいから、誤摩化しの台詞がこみ上げてきていて、でも、それを口にしてしまうのは悔しくて。黙るだけで精一杯だった。
「そっか、カッコいいね」
穏やかな声で先生は言った。言ったあと、少し目を細めた。瞳が淡く揺らいでいた。
いたたまれなくなって、僕は逃げるように美術室を出た。後ろ手にドアを閉めた後、情けなさに唇を噛んだ。次の日から関東は梅雨明けだった。弓子先生と学校で顔を合わせる事は、もう二度となかった。
5.
「久しぶりだから、最初、誰だかわからなかった。大人びたね。当たり前か」
レモネードのグラスをマドラーでからから鳴らしながら、先生は薄く微笑んだ。
「先生は、お変わりないですね」
「世辞が達者になったのね」
本心からの言葉だったけれど、僕は肩をすくめた。事実、先生は昔と変わらず綺麗だった。ただ、少し疲れた顔をしていた。
真弓さんの熱烈な勧めによって、僕たちは「雫」のすぐ隣にあるカフェに入っていた。二人とも言葉少なで、BGMのムーンリバーがやけに大きく聴こえた。ただの古い知り合い、ただの教師と生徒なら、もっと気さくな再会であるべきだった。思い上がった感傷が膨らむのを自覚し、内心苦笑する。
「今日は、どうして奈良に?」
先生は何気ない調子で問うた。真っ先に思い浮かんだ素直な返答を隠し、少し的外れに答える。
「就職したんです、この春から、こっちで」
「そうなの? だったら」
そこで言葉を切り、弓子先生は真っ直ぐこちらを見つめた。その視線に仄かな甘えを読み取り、僕はぞっとした。
「国語の教師になったんです。今は、橿原高校に務めています」
先生は釈然としない顔をした。当然だ。生まれも育ちも大学も関東だった僕が、奈良で採用試験を受ける理由が無い。
「そっか」
暫しの黙考の後、小さく頷いた先生は、いつかのように目を細めて言った。穏やかな声だった。逃げるように目を逸らした先、先生の指に、僕は白いリングを見つけた。
「結婚されたんですね」
口にした後、すぐに後悔した。先生くらいの年齢の女性にとって、それは当たり前のことだった。何を今更と、笑われることだろう。僕たちは不連続だった。沢山の変化が、与り知らぬうちに積み重ねられている。
「まあね。でも、もうすぐ離婚するの」
伏し目で笑う先生に、何故と問うことはできなかった。謝るタイミングも既に逸しており、気まずい沈黙しか、選択肢は残っていなかった。
「ごめん。なんか、良くないね。こういうの」
静かな、妙に艶のある声で、先生は呟いた。
6.
離任式もせずに一学期限りでひっそりと学校を去った弓子先生から、突如手紙が届いたのは、夏休みも半ば頃のことだった。それは味も素っ気もない白葉書で、簡単な挨拶と、日帰り旅行の誘いが記されていた。
「今週末 朝の九時に新宿駅で待ち合わせましょう。色々と忙しいでしょうから、無理強いはしません」
指定された日は部活があったけれど、誘いを受けることに迷いは無かった。そのせいで後にどんな責を負ったとしても、悔いはないだろうと思われた。とにかくただ、もう一度先生に会いたかった。
約束の日、先生は小さめの丸衿が愛らしいネイビードットの白いブラウスにブルースカートという出で立ちで現れた。おろした髪も妙にお洒落で、声をかけられるまで、僕は目の前の女性を弓子先生と認識できなかった。
行き先は箱根だった。小田急線で一時間半。小田原についてからは、箱根登山鉄道のオモチャみたいな車両で山を登る。
「ガラスの森っていう、美術館があってね」
スイッチバックのために列車が停車した隙に、先生は説明した。
「ヴェネツィアングラスっていう、ガラス工芸の中でも一番格式の高いヤツが、いっぱいあるの。あと、現代ガラスアートもいくつか」
あれは面白いよ、と無邪気な笑顔。 曖昧に笑みを返しながら、僕はどうして先生が自分を呼んだのか考えていた。恥ずかしさに堪えかねて逃げ出したあの日を、最後の別れなんかにしたくなかったこちらには、会いたいと望むだけの理由がある。しかし先生からすれば、あんなの大した出来事ではなかったはずだ。思春期ゆえの自意識過剰は、ある程度自覚しているつもりだった。
「どうして自分はこんなとこにいるんだろうって、考えてる」
断定口調で言い当てる先生。工芸の話をしている時とは違う、ニヒルで大人な表情をしていた。
「驚いた? 突然呼び出されて」
「それは、まぁ」
「道連れみたいなものよ」
呟いて、先生は少し苦い顔をした。運転を再開した列車の錆び付いた駆動音が、真意を問う機会を僕から奪った。
途中からはバスに乗り換え、山間を縫う様に走った。先に進むに連れて民家や商店の数が少なくなり、いよいよ自然ばかりとなったところで、ガラスの森美術館に到着した。石造りの洋館で、中庭には水路。およそ日本の風景とは思えない、不思議な空間だった。
展示品はどれも息を飲むほど素晴らしく、僕はしばし、完全に雑念を失った。とりわけ美しいのは、ガラスを飾るレースの意匠と、ワインが弾けたような気品ある紅色だった。
「中々冴えた目の付け所だね」
一通り展示を観終わった後、館内のレストランで先生は説明した。
「レースグラスとヴェネツィアンレッドこそ、まさにヴェネツィアングラスの醍醐味なの」
にっこりして、香草たっぷりの白身魚のソテーを口に運ぶ。店の真ん中では、彫りの深い白人男性が、熱くカンツォーネを歌い上げていた。良い鑑賞者でいられたらしく、僕は安心した。それこそが自分に求められているものだと、勝手に解釈していたからだ。
遅めの昼食を終えてからは、中庭を歩いた。青々とした緑と、高地特有の爽やかな空気が心地よかった。春に来たかったねと、先生は少し残念そうにした。そうすれば、薔薇がたくさん咲いて綺麗だったのに、と。
「あ、でも、今も紫陽花が綺麗ですよ」
フォローした僕の言葉に、先生はきょとんとした。見つけられないのかと思い、指をさして示すと、先生は吹き出して笑った。
「やだ。あれ、造花だよ。よく見てごらん。紫陽花だって、こんな真夏には咲かないよ」
近づいてみると、確かにそれは本物の花ではなかった。造花の中に、ブルーやピンクのガラス粒が散りばめられており、それがまるで、露を光らす紫陽花みたいに見えたのだ。
「でも、綺麗です」
照れ隠しで意地になった僕に、先生は目を細めた。花の前でしゃがみ込み、慈しむように、ガラスの粒をそっと弾く。
「紫陽花だったら、実家の近くに、名所があるの。気が向いたらおいで。いつでも案内してあげる」
「ガラスと金魚と紫陽花が有名なんですか?」
「そう。雅な街でしょ?」
おどける先生に、僕は笑顔を返さなかった。彼女の言葉が意味するところを、少し遅れて理解したからだ。そんな僕を見て、先生も真剣な顔をした。
「実家に帰ることにしたの。ガラス工房、開いてみたいと思って。突然決めたことだから、学校には、迷惑かけちゃった」
結構怒られたんだよね、と頬を掻く先生。なんとなく、先生が離任式も無しにいなくなった理由が察せられる気がした。
「引っ越す前に、もう一度ここに来たくて。それに、君にだけは報告したかったし」
そう言って先生は、許しを乞うように首を傾げた。迷惑だなんて思わなかった。むしろ、今日先生に会えて良かったと、心底感じた。彼女の決断が変えたのは、彼女の人生だけではないと、はっきり予感することができた。
「カッコいいです、先生」
告げた後、僕は先生の顔から目を逸らさなければならなかった。
「ありがとう」
しゃがみこんだまま、先生は僕の手を握った。
7.
結局ろくに話も弾まぬまま、僕たちはカフェを出た。真弓さんは、いとまを告げる僕を随分と惜しみ、また来てくださいね、と何度も念を押した。頷きながら僕は、自分が「雫」を訪れることは二度とないだろうと確信していた。
「嬉しかったです。先生の作品、また見れて」
それだけは伝えておこうと思い、言った。駅まで送るという申し出に従い、僕は弓子先生と並んで夜道を歩いていた。雨はすっかり弱まっていたけれど、先生は藍色の傘を差していた。おかげで、彼女の表情はよく見えなかった。
「店をね、もうやめろって言われたの」
僕の言葉には応えず、先生は呟いた。
「もともと、旦那の援助がなければ回らない程度の売り上げだったから、文句を言えた筋合いじゃないんだけど。なんだかカッとなっちゃって、つい」
「それで、離婚?」
「うん」
返す言葉がなくて、僕は黙っていた。先生もそれきり静かだった。興福寺の近く、猿沢池の前まで来て、ようやく会話は再開された。
「ごめん。これから結婚しようかって若者に、辛気臭いこと言っちゃダメだね」
「結婚? 僕がですか?」
大きな誤解の匂いがして、僕は思わず足を止めた。すぐ、貴子のことが頭に浮かんだけれど、明日別れても不思議がないような彼女との関係を、結婚などという重い言葉に結びつけることは困難だった。
「だって、恋人が奈良にいるから、こっちで採用試験を受けたんでしょう?」
当たり前のように問われ、合点がいった。確かに、縁もゆかりも無い土地で教師を目指す理由としては、それが一番有力なパターンだった。採用試験に合格したらすぐ結婚、というのも、教師にはよくある話である。でも、僕の場合はそうじゃない。
「先生がいたからですよ」
口にした後、目のやり場に困って池の水面を見つめた。五重塔と月が映り、小雨に合わせて揺らいでいた。昔の自分なら、こんなことは口に出来なかっただろう。そう気付いて、思わず眉を寄せた。
「文学を読み続けたのも、国語の教師を目指したのも、奈良に来たのも、全部、先生がいたからです」
会うつもりなんてなかった。遠い日の花火みたいなものだと思っていた。とっくの昔に消え失せて、ただ、記憶の淵に僅か残るばかりの。それで良かった。それだけで、ちゃんと頑張ってこれた。
「僕は、いい道連れになれましたか?」
遠い場所で、同じように、憧れを追っている人がいる。そう信じるだけで、他の誰に笑われたって平気だった。
「あのガラス細工」
質問に答えず、先生は囁いた。震える声を隠すような、密やかな息遣いだった。結局無償で譲って貰えた、例の雨細工の話だということは、すぐに理解できた。
「窓際に飾ってね。晴れの日は、日差しを反射して天気雨みたいになるから。そしたら、きっと、思い出すから」
何を、と問おうとして、先生の顔を見た。僕は言葉を失った。
「私も、思い出したから。何度も、何度も」
先生は傘を持たない方の手で僕の手を握り、顔をくしゃくしゃにして泣いた。子供のような、拙い泣き方だった。
「だから、ごめんね」
8.
紫陽花園を抜けると、つづら折りの下り坂があった。下りた先には、ガラス製の大きな鐘があり、異国のチャペルを思わせた。
「ね、こっちこっち」
手を引かれるまま、鐘の正面に立つ。ガラスのアーチ越しに、今しがた通った坂が見える。道沿いに植えられた無数のガラス造花が、七色に光を反射していた。
「ここで結婚式もやってるんだって。ロマンチックだよね」
共感する気持ちを、言葉にできるだけの余裕が僕にはなかった。繋いだままの手に急に冷たい感触がして、空を見上げた。
「天気雨だ」
先生が、どこか懐かしむように呟く。きっと同じ気持ちだと、僕は思った。先生に会うからには、今日はきっと雨になるだろうと信じていた。
「狐の嫁入りって言うらしいですよ、こういう雨のこと。洒落てますよね」
同意を求めて、僕は先生の顔を見た。
「物知りね」
先生はちらりとこちらを窺い、すぐに目を逸らした。僕もまた、それ以上、彼女を直視することができなかった。青空から降り注ぐ小さな雨粒が、ガラス細工のように美しく輝いていた。