心、奪われて
この作品はオリジナル電子同人誌企画【でんしょでしょ!】に提出した作品の原文になります。
泣くな。
「ごめんなさい」
泣くな、あたし。緩みそうになる涙腺を、必死で押さえた。
「あたしは貴方と共に歩めないわ」
笑え、笑うのよ。唇の端を持ち上げて、しっかり彼の目を見て、笑うのよ。
大衆が待ちわびている城の前に、あたしも混じっていた。空は今日のために誂えたように雲ひとつすらない天気で、民衆の歓喜がさらに高まった。これから起こることがどれだけ皆の待ち望んだことなのか、よくわかる。それぞれが期待に満ちた表情で天を仰いでいた。
あたしだって、少し前まで皆と同じだった。素敵な話だと微笑して、夢のある想像ではしゃぎ、彼や客にその想像を語って聞かせた。あたしの稚拙な想像を、彼はいつも幸せなことのように微笑んで聞いてくれた。それが嬉しかった。あたしの心にやわらかな炎を灯した。けれども、現実はどうだろう。あたしは今、その想像の時と同じように城の前に立っているけれど、他の皆のように明るい表情なんて出来そうにない。ただチクチクと痛む胸を押さえて、彼の姿を見ようと空を仰ぐことしか出来ない。
観衆のざわめきが大気を揺らし、いよいよだと両手を胸の前で組んだ。それはまるで祈るような格好で、自分で何を祈ることがあるのだと哀しくなった。それでも視線は目当ての場所から外せない。
少しずつ階を登ってくる様に現れる栗色の髪とやさしげな微笑。やさしげなんじゃなくて、彼は本当にやさしかった。その彼の手と繋がっているのは、あたしには到底持ち得ない美貌の女の子。綺麗というよりは可愛くて、彼にエスコートされてはにかむ姿は微笑ましすぎて涙が出そうだ。隣国から嫁いで来た本物のお姫様の彼女は、まるで童話からそのまま飛び出してきたかのようなハニーブロンド。唇は朝露のような潤いを保ち、頬はさくらんぼのように仄かに染まっている。あたしよりも七歳も若くて、彼よりも三歳幼いお姫様。
彼が彼女の手を取って、大衆に向かって手を振る。穏やかに笑う彼が眩しい。群衆に埋もれたあたしに気付くことはないだろう。一人だけ哀しい顔をしているあたしなんて見つけられない方がいい。もう、どんなに願っても、あたしと彼の人生が交わることはないのだから。
城下の食堂で働いていたあたしと彼が出会ったのは、二年も前のことだ。その時の彼はまだ、本当に少年だった。身長もあたしにまだ少し足りなくて、あどけない、幼い顔を精一杯大人に見せていた少年だった。
「名前を教えてよ」
それが彼のあたしに掛けられた第一声。それまで彼は女将さんや友人とばかり話をしていた。彼はあたしの顔を知っていたし、あたしも彼の顔を知っていた。だから初めて声を掛けられた時は嬉しかった。緊張しているのを押し隠そうとしている声が微笑ましかった。
「どうしてこの店で働いてるの?」
彼はあたしに質問をたくさんした。一人で暮らしているのか、趣味は何か、花は何が好きか、と。その中で一番印象に残っているのがこの質問だった。
「あたし、母親と一緒に隣国から越してきたの。ほら、今は何処も戦争で大変じゃない。あたしがいたのは小さな村で、他国の兵隊がやってきたらすぐになくなっちゃうようなところだった。今はもう、やっぱり跡しか残ってないらしいんだけど、あたしと母はその前に村を出て、あっちよりも落ち着いてるこの国に、街にやってきたの。王都だったら職もすぐに見付かるかも知れないって、来たんだけどなかなか母を雇ってくれる人も、住む所も見付からなくってね。あ、街に来たのは春先だったんだけど、春でもまだ夜は冷えるでしょう。路地で母と蹲ってたら、女将さんが見つけてくれて、宿と食事をくれたの。あの時、女将さんに会ったから今のあたしはいるの。此処を宿にしたのは少しだけだったけど、雇ってくれる所も見付かってね。あたしはいつか恩返しがしたいと思って、機会を窺ってた。そうしたら給仕を捜してるって聞いて雇ってもらったの。あたしのことも覚えてくれてたのよ。嬉しいじゃない」
あたしは別に不幸自慢をしたわけではなかったけれど、彼はあたしに複雑な表情で返した。
「隣国はそんなに荒れている?」
「あたしが見てきた限りはね。争いが起きないならそれに越したことないわよ。今度もまたこの国は攻め込むんでしょう。あたしの故郷に。回避できるものならどんな形であれ回避して欲しいと、あたしは願うわ」
そう答えたあたしの顔を彼は暫く見つめた後、僅かに目を伏せた。その行動の意味をあの時はわからなかったけれど、今ならわかる。
親しくなると彼はあたしに街を歩こうと何度も誘った。尻尾を振る忠犬のように、そうあたしは捉えていた。しかし誘いに乗って遊ぶようになった時には自覚し始めていた。年下だからと弟のように思っていたけれど、あたしが彼に持つ感情は少し異なることを意識し始めていた。街中に噂が出歩きだしたのも、思えばこの頃だったと今更ながら思い出した。
付き合うにつれて、彼のことも少しずつ見えてきていた。初めて会った時からまるで紳士のような立ち居振る舞いをした少年。普通の少年のように立ち回りながらも、どこか気品を窺わせる態度や仕草。金銭感覚の齟齬。屈託のない笑みの中に時折表れる、真剣な男の顔。皮肉を口にすることも稀にあった。その理由をあたしは最悪の形で知ることとなった。
よく晴れた日だった。今日も仕事を頑張ろう。そんな風に朝から考えたくなるような天気だった。あたしは店への道程を軽い足取りで向かっていた。その途中で見知らぬ男に呼び止められた。身形がいい。一目で貴族だとわかるような格好だった。栗色の髪と顔立ちが何処か彼に似ていた。だからかもしれない、男に何の疑問も持たず付いて行ってしまったのは。
「別れてくれないか」
格式高い料亭の階上で男は開口一番言った。青の瞳は彼と同じなのに、違った。ナイフのように鋭い言葉にあたしは意味がわからず聞き返した。
「王子と別れてくれ。あんたもこの国の人間なら今がどれだけ重要な時期かわかる筈だ」
王子と言われて思い当たる人物は一人しかいなかった。彼しか、頭に浮かばなかった。
「隣国は疲弊しきって戦う余力すらない。今こそ、我々が彼の国の実権を握れる時期でもあるんだ。邪魔しないでくれ」
どうして邪魔なんて出来ようか。あたしは男の言葉に淡く微笑を浮かべた。
どうして邪魔なんて出来ようか。あたしは願っていたのだから、如何なる形であれ戦の回避されることを、ずっと。その方法が例え、隣国の姫と王子の結婚で形になるとしても。気分よく迎えた朝はもう翳ってしまっていた。あたしはその日、仕事中にお皿を三枚も割ってしまった。
彼があたしに大事な話をしたいと言ってきたのは男に会ってから五日も後のことだった。あたしは表面上、何事もないように振舞ってその夜に約束をした。普段より沈んだ彼の表情が話の内容を物語っていた。何を言われてもあたしは答を決めて、彼に会いに行った。
「急に呼び出してしまって、すまない」
突然会いたいと言った事をまず詫びるとこが普段と変わりなくて、あたしは苦笑した。初めて会った時と違って大人びた顔。身長もいつも間にか追い越されてしまった。それがいい事なのかの判断はあたしにはつかなかった。
「聞いて欲しい」
真正面からあたしを見つめてくる瞳に吸い込まれそうになる。綺麗なサファイア。一泊の間を置いて、彼はあたしの両手を彼自身の手で包み込んだ。
「隠していて申し訳ない。わたしはこの国の第一王子だ」
ああ、やはり。まるで遠くからこの光景を眺めているような感覚になる。
「しかしわたしは、貴方を愛している」
期待と不安が入り混じったサファイアから、あたしは知らず視線を外す。わかっていた。彼があたしに好意を持ってくれていることなんて、とっくに気付いていた。胸のうちにじわじわと広がるのは喜び。嬉しい。ありがとう、あたしも貴方が好きよ。そう言ってしまえればどんなによかったのだろう。
「隣国の姫との婚約は……」
もう街中、いや国中の端々で婚約話が浮かんでいる。あたしだって、その噂を最初聞いた時はどんなに素敵なことだと舞い上がった。その婚約によってあたしの故国も、あたしの住むこの国も、争わなくて住むのだと喜んだ。戦で亡くした父のように死に行く人間がいなくなる。人々が生きていられる国になるのだと無条件で歓待した。
「その話は白紙にするよう、わたしが説得する。いざとなったら、弟に婚約してもらえばいい」
涙が、出そうになった。
「わたしの伴侶になってくれないか」
嬉しくて、胸がいっぱいで、そして哀しくて、涙が出そうになった。
「あたしが貴方の妻になったら戦争はどうなるの? 隣国とまた争いになるの?」
「それは……それはまた別の方法がある。だから貴方が悩むことではない」
彼の握るあたしの手に力が入った。あたしはその手をそっと押しやって、反対に包み込んだ。
「だめよ。それが最良の方法だと王様がお決めになったのでしょう。だったらそれに従わなくては。あたしのような小娘に貴方が煩わされてはいけないのよ」
「そんなことは! わたしは……」
「聞いて。あたしの幸せを願うのなら、お姫様と一緒になって、争いを止めて。それがあたしの一番の願いよ」
「それが貴方の願いなのか」
「ええ。もう戦争はいやよ」
あたしの手は小刻みに震えていた。彼は気付いただろうか。
「それでは、わたしへの返事は」
……泣くな。
「ごめんなさい」
泣くな、あたし。緩みそうになる涙腺を、必死で押さえ込む。彼の手を離して、あたしは自分の胸の前で両手を握り締める。
「あたしは貴方と共に歩めないわ」
笑え、笑うのよ。唇の端を持ち上げて、しっかり彼の目を見て、笑うのよ。
「さよなら」
告げた瞬間に涙が零れそうになる。けれど零れたのはあたしではなく、彼の涙だった。頬を伝う水滴を綺麗だと思った。彼はあたしの肩をやさしく抱いた。額にやわらかな彼の唇が落とされる。
「それでも、わたしは貴方を愛している」
やさしい言葉に見え隠れする強い意思。
「わたしの傍に誰がいようとも、心は貴方に奪われたままだ。永遠に、わたしは貴方を愛し続けます」
あたしはどんな顔をしているだろう。微笑むことが出来ているだろうか。あたしは彼の体温に安堵しながら、彼に告げるための最後となる言葉を零した。
「ありがとう」
仲睦まじい様子の王子とお姫様は誰から見ても似合いの二人だった。城ではこの後盛大な式が行われるのだという。周囲にひしめく歓喜の声が耳に痛い。
笑顔で観衆に向かう彼に一片の曇りも見当たらない。どうしてだろう。視界がぼやけてきた。手を顔に当てたら、知らずに涙を流していた。皆は城を向いている。あたしは両手で顔を覆った。見ていられない。
恍惚の表情で城を見上げる集団が滑稽に思えた。でも本当に滑稽なのはあたしだ。まるで道化。選ばせたのはあたしなのだから、どうしてこんな場所にまで来ているのよ。未練なんかみせてはいけないというのに、あたしは何を期待していたんだろう。人の波に逆らって、あたしは城から離れようと身体を捻る。あたしの居場所はもう彼の隣りにはない。仲睦まじい二人からあたしは背を向けた。
せめて、せめてもし今のあたしに気付いてくれたら嬉しい。そんなことありはしないのに、あたしは醜くも願ってしまう。一人だけ背を向けている女があたしだと気付いてくれたら、と。それを見て、彼が一瞬でも笑顔を曇らせてくれたら――
せめて、心奪われた女のことを忘れずにいてくれるだろうか。
前書きにも書きましたが、この作品は オリジナル電子同人誌企画【でんしょでしょ!】に提出した作品の原文になります。大まかな内容は同じですが、かなーり企画作と違っておりまして、是非読み比べて欲しいなあと思ってこちらへも投稿させて頂きました。私の作品だけでなく、他の参加者様の作品もご一緒に是非読んでいただけると嬉しいです。企画サイトはこちら→http://densyo.sblo.jp/article/78198004.html です。