エーリヒ
「で、一体何に悩んでいるんですか?」
久しぶりにあったケインにそう問われ、内心驚いた。
たまたまなのか、呼ばれたのかは知らないが、俺は城へ訪れていた彼をみつけ、息抜きを兼ねた食事に誘った。
連日、勇者に同行した際に知った様々なことを文献として残す作業に、大分うんざりしていたところだった。ずっと書面と向かい、会話を交わさない日々に飽いていたのもある。
ヴィクトール達が外遊に出かけ、他の仲間もそれぞれ己の居場所へと戻っていた以上、首都に俺が他愛もない会話を交わせる相手が居なかったのだ。
仲間以外の知人友人は、どうしたって好奇心から勇者の旅について聞きたがる。生憎と俺には、英雄譚を望む彼らに応えられるだけの話術など無かった。
ただでさえ、通常の業務と並行して行う文献化作業に疲れていたのだ。神殿の古老たちを相手に何度も語ることを強いられている以上、いくら飽いていようともそんな相手を選ぶ気にはなれなかった。
だから、偶然そこにいたケインは、実に都合のいい相手であって、別に何かを相談しようなどという気はなかった。
なかったのだが。
「そう、見えるか?」
俺の問いかけに、彼は苦笑して頷いた。
ここ数日、仕事以外のことに思考を割く時間が増えた。
何を考える必要があるのか。
自分でもよくわからないモヤモヤに、ただ心が乱れるだけの無駄な時間だ。
「左手の親指の爪、形が歪ですよ。また、無意識に噛んだりしたんでしょう?」
言われてみれば、親指の爪だけ短く、先がガタガタになっていた。血が出ていないことが不思議なほどの深爪。
幼い頃の癖。すでに矯正できたものと思っていたのに。
いや、旅の間も何回かこれを指摘されたことがあったな。
平和になり今や医者の道を進む彼は、旅の間もこうして皆の様子を伺い、体調を慮ってくれていた。些細な怪我でさえ、彼の目を逃れられなかったな。
その時と同じように、彼の目は俺の心をやさしく覗く。
「それで、何を……いえ、誰をそんなに気にしているんです?」
その言葉に、今まで明確な形を持たなかったモヤモヤがひとつの姿へと転じた。
誰を?
彼女を。
イレーヌ・バダンテール。
俺よりも年下でありながら、その身はすでに俺よりも上位にたつ存在。
バダンテール侯爵令嬢たる彼女と、表向きにはなかったこととなった事件を契機に、俺の家での立場は微妙なものとなった。
それでも一時期は勘当という声があったほどなのだから、今の状況はまだマシなのだろう。
それもこれも俺が一年に渡る戦いの場に身を置きすぎて、思考が単純になりすぎていたせいだ。魔族との戦いと、貴族のそれとは違うというのにだ。
本来、俺が学園以後もヴィクトールの側に付き従う立場なのは、彼の感情に流されやすい面を補佐するためだ。それが、俺も一緒になって感情に流された。
いくら彼女の手に、テオの形見であり、警告を発するブローチがあったとしても、だ。冷静で居なければいけない立場な俺が、それではいけなかった。
表向きにはなかったこと。
勇者一行という英雄的立場故、ヴィクトールだけでなく、何かと目立つ立場の俺が直接謝罪に行く事もできず、ただ自身の未熟さを反省しながら家から与えられた職務にはげむことしかできなかった。
それにしても、と俺はあの時のことを振り返る。
イレーヌという女性は、俺の知る貴族の子女とは違った。
普通、怒りをあらわにしたヴィクトールを前に、彼に慣れぬ者、特に女性ならば恐怖にしろ、反発にしろ、冷静では居られない。
彼の怒気には、何故かこちらを冷静では居させられなくする力がある。
守銭奴などと悪評の立つような人物なのだから、これぐらいは気にしないのかも知れないが。
彼女とは、元々隣接する領地、それぞれの領主を務める家同士という関係ではあるが、両家の関係は限りなく希薄だ。山々を挟むという地理的要素もあるが、一番大きな要素は人間関係のこじれからだ。
向こうの先代、現当主夫人の父親たる人と俺の祖父はどうも若かりし頃、私的な事情から折り合いが悪く公務以外の付き合いがなかった。
現在、俺の父が当主となった頃にはバダンテールの家ではちょっとした問題が起き、侯爵と夫人は別居、実質的な権限は夫人に移り、引きこもってしまった。
そして、俺は最近まで知らなかったことだが、夫人が引きこもって以後、社交的な場に出席するのは娘たるイレーヌだったという。
当時の俺は、第二王子たるヴィクトールの学友を兼ねた小姓として城に上がり、彼に振り回される日々。
ただでさえ天性の才でさして苦労もなく何事も身に着けていく彼は生気に溢れ、一箇所に留まることをしない。そんな彼に、色々な意味でついていくのが精一杯だった俺には、そんな社交界の情報など届くことがなかった。
ましてや、首都と領地との距離もある。家との手紙のやり取りはあれど、親が子にかく手紙にそのような事情など記されることもなく、また俺からも尋ねるようなことはなかった。
同年代、将来の婚約候補として、名前以外に彼女について知ることはなかった。
ヴィクトールが13歳になり、彼とともに学園に入学しても、生徒の数が多くて接点のない俺と彼女は、たぶん碌に会話を交わしたこともないだろう。
将来的には隣接する領地を治める者同士。仲良くなっておくに越したことはなかった。が、やはりその時の俺は、城よりも監視の目が緩い場に来て自由に振る舞うヴィクトールと、彼に何かと擦り寄ってくる輩への対処で忙しく、自分から人脈を広げる努力を怠っていた。
アンジェリカとだって、ちょっとしたアクシデントがなければ、言葉を交わそうともしなかっただろう。彼女の当時の俺の人を突き放す態度を咎められなければ、俺はきっとヴィクトールの付属として過ごし、世界を広げられなかった。
そして、アンジェリカが勇者に選ばれ、誘われるまま同行した。ヴィクトールが行くからと、建前を用意してまで。
魔王を討伐するのだ。生きて帰れるなど、楽観などできぬ旅だ。
そして、恋をし、失恋をした。
様々な別れを告げられた。
そんな旅によって、ヴィクトールが変わったように俺も成長したと思えた。が、それもどうやら勘違いだったようだ。
バダンテールの領内が戦前と変わらぬ、いやそれ以上の活気で満ちているというのに、我が領内はどうだ。改修されたバダンテールに続く街道沿いを除けば、少しも復興は進んでいない。街道沿いの活気だって、向こう側からやってくる商人たちのおこぼれでしか無い。
今や城内で、イレーヌ・バダンテールは時の人である。王太子妃や妹姫のお気に入りであり、まだ幼き王子の子守役として、彼へと強い影響力を持つ人物だ。加えて、神童と名高いヨハンとも弟を通じ親しい交流があり、騎士団には期待の若手たる異母弟のリオネルがいる。
また、活気づく領によって得た財を多くの貴族へと貸し与えており、バダンテールに頭が上がらない者も多い。我が家も今やその一員へと加わっている。
今後の城内での影響力はよっぽどのことがない限り、増していく一方だろう。
また、婚約もまだである彼女には国内外を問わず、縁談も持ち込まれており、相手によってはより一層の発展もあり得る。
イレーヌ・バダンテール。
俺より年下であり、女性である彼女。
俺を見る目は常に冷たく、見下すかのようで、出来れば関わり合いたくない。が、そういうわけにもいかないだろう。
いつか己が失態を許され、家を継ぐ日が来るかもしれない。このまま、ヴィクトールについて宮廷で働き続けるかもしれない。
だからこそ、悩ましかったのだ。
だからこそ……
「俺は……」
目をそらしていた感情に気付かされた。
ケインの眼差しから、自分を隠したく、せめてと手で目を覆った。
「嫉妬、していたんですか。その人に。」
「そうだな。している。今、気づいた。」
指の隙間から、ケインを伺えば、彼は常の穏やかな顔でこちらを見ていた。
ヴィクトールに抱いた羨望でも、アンジェリカに抱いた恋情でもない。常に急かされているような息苦しさ。嫉妬といいきるにはまだ淡い、でもぐちゃぐちゃと複雑な思いを彼女に向けていたのか。そして、それを俺は認めたくなかったのか。
同じ城勤め。
いくら言い訳しようとも、作ろうと思えば顔を合わす機会などたやすく作れた筈。家での立場は微妙でも、ここでは俺は未だそれなりの立場を持つ。それに会ってしまえば、他人に知られぬ内に会話を交わすことも、かの件を再度謝ることだって出来たのだ。うるさ型の神殿の者も人の目に触れぬのならば、文句を言わなかったのに。
「エーリヒ。貴方は、自分の気持ちを少し無視しすぎですよ。そのままだと、いつか後悔しますよ。」
「そうかな?」
「ええ。抑え役を期待されているのは分かりますが、偶には素直になったほうがいいですよ。」
素直。
そう言われても、今までそれほど無理をしていたつもりはない。
だが、そうだな。まずは彼女ともう一度話してみよう。その結果、嫉妬だとしてもこの胸のモヤモヤは晴れるだろう。
ケインとの会話以来、俺は機会を伺っている。
その日の内に行動できればよかったのだろうが、運悪く新たに仕事が舞い込んでしまい机から離れられなくなった。
勇者の功績を残すことに固執する神殿は、よくもまあ飽きもせずに色々なことを思いつくものだ。
それでも何とか仕事に一段落をつけ、空いた時間で城内を歩く。
城でのイレーヌは、大体が王太子妃か王子の側にいる。王太子妃のサロンに居たらさすがに会うことは出来ないが、王子の側についているのなら会うことも出来る。
最近では剣に興味を持ち始めた王子と共に、勉学の時間の後、騎士団の修練所を見学することが多いと聞いた。
何くれと、仕事中に世話を焼いてくれる侍女たちから聞いた話だ。
騎士団は、城でも特に若い男が集まる場所だ。それも身分は騎士階級以上が保証された者の集まりだ。
政務に関わるものは大抵地方で経験を積んだ者か、自領を嫡子に継がせその手腕を請われて来た者など年配の者が多い。若いのは、最初から王の手足として働くことが期待され、幼い頃から城へと召し上げられた俺に似た境遇の者位だろう。
彼らの話題が、年頃の女性である侍女たちの口に上ることが多くて当然といったところか。侍女として城に上がる女性の中には、結婚相手との出会いを求めている者も多いからだ。そして、そこを訪れる彼女もまた噂の的となる。
例え彼女が相手にしなくても、侍女たちにとって潜在的な恋のライバルだ。
身分も侯爵家令嬢と申し分なく、容姿も印象的な目元でキツかろう悪かろうと見てしまいがちだが、決して悪いという程ではない。
だからこそか、侍女たちは彼女のことを話題にしながらも俺の興味が向かわないように無意識からか貶すような言葉を混ぜる。
城で上手くやっていくために身につけた話法なのだろうが、一度気づけば正直言葉を紡ぐ女性の魅力が削がれていく。
アンジェリカのような女性というのは、きっと貴族社会では珍しいのだろうな。
そんな俺には決して良い噂が届くことがない彼女を探して、騎士団の修練所へと足を向ける。
表向けには、政務で訛った腕を久しぶりに鍛えるためと、言い訳用の剣を携えて。
俺もイレーヌも互いに未だ婚約者を持たぬ身。謝罪のために会うというのに、下手に噂などを立てられ、相手の縁談に支障が出ることがあってはいけない。
また、そのような噂がたって困るのはこちらも同じ事。覚えのない傷をその名につけて、取り入っていろうと思っていると取られても困る。
それに、何に対する謝罪なのかと探られても、無いことになったことが露見するのも困る。
故に慎重に。
偶然の遭遇による他愛もない会話だと、周囲には思わせなければ。
その為の会話の糸口を探しながら歩いていれば、ほどなく修練所へと着いた。
城内の待機人員による修練中なのだろう。活気のある声が聞こえてくる。
その中に交じる子供の声。
王子のものだろう。
ならば運の良いことに、彼女もここに居るだろう。
逸る心を隠し、ペースを崩さぬように歩みを進める。
視界の隅に、修練所に置くには似合わぬ豪奢な飾りの、噂通りに用意されていた椅子に座る彼女が見えた。
何気なさを装って声をかけよう。
軽く拳を握り、足をそちらに向ける。
彼女の許しが得られるかは分からないが、幾つか考えた謝罪の言葉を頭の中で反芻する。
だが、俺の決意も彼女の傍らに立つ男がこちらを向いたことで霧散した。
冬の湖面のように冴え冴えとした瞳。
銀の守護者、リオネル。
学園では、剣術指南くらいでしか授業を共にしたことはない。存在は知っていても、碌に会話を交わした覚えがない。好かれているとは思えないが、嫌われるようなことをした覚えもない。
なのに、俺を見るその目は決して好意的なものではない。
足が止まる。
視線はすでに俺から離れ、再びイレーヌの方を向いている。なのに、足を再び動かす気になれない。
「こんなところで、ぼうっと立って……どうかしたのか?」
背後から声。
振り返れば、そこに立っていたのは見知った人物。
「レオナルド先生。」
「君にそう呼ばれるのは久しぶりだな。どうした?剣を持っているということは、鍛錬に来たのだろう。丁度いい。良かったら手合わせしないか?」
未だ人員の足りぬ騎士団を先頭に立って動かす、レオナルド隊長がそこに居た。学園時代の剣の講師だ。
彼ならば、剣の相手として願ってもない相手だ。
だが、今日は鍛錬は表向きで実際の用はイレーヌにある。
ここは断らなければ。
だが、俺の判断は少しばかり遅かった。
レオナルドの言葉を聞いた見習いを含めた同年代の騎士たちが集まり、俺を囲む。
そして、口々に勇者の旅の話が聞きたいだの、腕前を見せて欲しいだのとやかましくなる。
憧憬が含まれた視線を邪険には出来ずに居る内、いつの間にかイレーヌは修練所から去っていた。
久しぶりの運動に、すっきりとはしたものの目的を果たせなかったことは残念でならなかった。
結局、その後も彼女と接触する機会欲しさに修練所に足を向けることはあったが、そのたびに騎士に囲まれてしまい挨拶以上の会話を交わすことは出来なかった。
共通の交友がある貴族の夜会にて、ようやくきちんと会話をすることは出来たが、その頃には謝罪の言葉はすでに素直には舌に載せることは出来ずにいた。
結局、俺は完全には素直に行動することが出来なかった。ああだこうだと言い訳をつけなければ、動けない人間だったのだ。
彼女のことも抱いた嫉妬は消せず、会話を交わせる機会の度に、話題は嫌味を含んだものとなり、溝を埋められないままだ。
だけど、最近はそれでもいいと思うようになった。
俺の嫌味混じりの言葉に、イレーヌも嫌味を混じらせ言葉を返す。男女の関係でもないし、友人でもない。親しさなど、周囲の目を気にした見せかけでしか無い。
それなのに、会話を通じて見せられる彼女の考えが、心地よく感じられるのだ。
貴族たらんとする彼女の姿勢が、自身がそうでありたいものに近いのだと。だからこそ、嫉妬をするのだと、気づいた。
出来れば少しは親しく距離を縮めたい気もするが、彼女との関係はこのままでいいとそう思った。
「ミス・バダンテール。一曲、お願いできますか。」
今夜もこうして、互いに笑顔を張り付かせながら過ごす一時。
「ええ。上手くリードしてくださいね、エーリヒ様。」
決して自分には靡かぬ彼女と、踊るのも悪くはない。
同族嫌悪?なエーリヒ視点です。