9 早朝の唇戦争勃発
まどろんだ意識の中、ザワザワと木々の凪ぐ音が微かに聞こえる。
続けて頬に感じる心地良い風。
あれ、私窓開けて寝たっけか? まあいいや。
それにしても妙な夢を見た。
恭平と一緒に図書室にいたら変な本が突然光って、気付いたら夜の森にいてそこは別世界で、金髪野郎に殺され掛けて魔物に襲われてファーストキスで魔王を復活させて……うん、とてつもなく、妙な夢を見た。早速今日学校で恭平や友達に話そう。
大体異世界トリップなんてこのご時世、ある訳がないじゃないか。漫画や小説じゃぁあるまいし。
にしては、随分リアルな夢だった気もするけど。
森なんか今みたいにキャンプ場のような青っぽい匂いがして、魔王も人間に似てはいたけれど、何処か浮世離れした容貌だった。
真紅の瞳に尖がった耳、平凡女子高生である私なんて簡単に気圧されてしまう整った顔のパーツ。そう、丁度今私を見下ろしている彼のような――――って
「ぎゃああぁぁぁああッ!? チカン! 変態! お巡りさーん!!」
「いだッ、いでェ! てめっ、突然殴んなこらっ」
その距離約10センチ程。そんなあと少しでキス出来そうな距離に、目を開けた瞬間夢の中で出てきた超絶美形の顔があったものだから。
驚いた私は取り敢えず貞操を守るために、某北斗七星的格闘漫画並みのパンチを発動した。
ポカポカポカ。手に衝撃が伝わる。目の前の男が声を上げる。あれ?
夢じゃ、ない?
絶えず美夜流スペシャルコンボをお見舞いしつつも、私は目の前の男を見上げた。
確かに彼は今、私の目の前に存在している。人間に見えるが絶対に人間ではない、記憶の上層部に存在する魔王が。私に殴られてくぐもった声を上げている。
続けて周囲を見回すが、そこにはデスクもタンスも窓も見当たらず、ただ高く聳え立つ木々があるだけだった。
ようやく私の寝ぼけた脳が覚醒する。
夢じゃ、なかったんだ……。
しおしおと体中の熱が冷めていくのを感じる。
異世界、セリナージャ。私が昨日ここへ迷い込んだのは夢でも何でもない、現実だったのだ。
軽く眩暈を覚えそうになるのを必死に堪えていると、両腕に強い引力を感じる。
正面に視線を戻すと両手首は魔王に掴まれ、私の攻撃は完全に封じられていた。
「起きて早々何しやがんだ、並み顔暴力女」
「そ、それはこっちのセリフ! さっき私に何しようとしてたのさ色欲魔王ッ!」
改めて先程の至近距離にあった彼の顔を思い出し、思わず顔が熱くなりながらも負けじと捲し立てる。
だが魔王はしれっとした顔で、
「何って、食事に決まってんだろーが」
「うああやっぱり。っていうか、寝込みを襲うって人としてどーなの!」
「俺ヒトじゃねーし」
「た、確かにそうだけど……って違う! そういうことじゃなくて――」
「じゃあ起きていたらいいのか?」
「へ?」
思わず間抜けな声を漏らした次の瞬間。ずずい、と突然魔王の顔が近付いた。
ちょっと待て。近い、近いぞ。美形が近い。が、私は素直に喜べない理由がある。
本日二度目の我が唇のピンチッ!!
この体勢は間違いなくキス発動前体勢。畜生、そんな易々とされてたまるか。私はそんな安い女じゃないぞコラァ!
両手首は掴まれたままの為、私は半ば格闘家の臨戦態勢のようなポーズで、上半身を後方へ精一杯反らして顔を遠ざける。だが大の男の、しかも人外である魔王の力に敵う筈がない。呼応するように、魔王は再び私の方へと顔を近付けてくる。
「このッ……さっさと大人しく食われろ並み顔!」
「いーーーーやーーーーッ」
とは言ったものの。
い、いかん。足腰がそろそろ限界だ。今にもグキッと音を立てそう。異世界に来てまでギックリ腰とか、間抜けすぎる。
けどこの変態ケダモノ色欲魔王から逃れる術が思い浮かばない。何せ両腕は彼によって塞がれているのだから。
けどこのまま黙って唇を奪われてたまるかッ!
「ふんッ!!」
「おぐぅッ!?」
脚に伝わる嫌な感触と衝撃と同時に、目を見開く魔王。その様子にぎょっとしつつも拘束する手の力が緩んだため、私は慌てて後方へと後ずさる。
次の瞬間にはへなへなと、魔王は股間を押さえながらその場にへたり込むのだった。
* * *
「てんめェ……ほんと、何しやがんだ」
「無理矢理キスしようとするあんたが悪いんでしょー」
地面に座りながらも未だ悶絶している魔王に、私はそっぽを向いたまま言い放った。
勢いに任せて蹴っちゃったけど……
なるほど。魔物の男でも急所は同じなのか。すんごく痛そう。
効果は抜群のようだけど、男性の股間を蹴り上げるなんて、清純派乙女としてはあるまじき行為! 出来れば今後は使うことがないことを願いたい。
まぁこれに懲りて、魔王も強引にキスをせがんだりはしなくなるだろう。まったく、朝っぱらからハードな運動をしてしまったよ。
「ん? ねぇ、なにあれ?」
呻き声を上げている魔王が居た堪れなくて(私がやったのだけれど)、視線を外していると、木の枝に引っ掛かっている洋服のようなものが目に入った。ひらひらと微風に靡いている。
「……」
しかし私の問いに魔王は答えない。
何ていうか、不貞腐れた子供みたいな顔をしてそっぽを向いている。
「……おーい」
「……」
「もしかしなくても、まだ怒ってる?」
股間キックをしたことに。
案の定、魔王は剣呑な表情で私へ視線を向けてきた。
「ごめんって。つい咄嗟に体が動いちゃったっていうかさ」
「お前さ」
漸く声を発した魔王に、私は両手を合わせながら、下げていた頭を上げる。
もう魔王は痛みに顔を歪めていなかった。
「そんなに俺様と口付けするのがイヤか?」
「……え!?」
まさかの問い掛けに我が耳を疑う。
……ええと、つまり魔王は今、全力で彼のキスを拒否した私の態度に、少なからず傷付いている……ということなのだろうか?
意外だ。この高慢な魔王がそんな感情を持ち合わせているなんて。
きっとこれまでの人生で” 食事 ”と称して喰らってきた女性達にも、あれほどの拒否反応を示されたことがなかったのだろう。ましてやパンチや股間キックなんて……えげつないもんだ。
嗚呼、そう考えると何だか目の前の魔王が、何だかしょげた子犬のように見えてきたよ。
「嫌っていうか……」
「イヤじゃないのか?」
そう言うや否や、ずずいっと四つん這いになって私へ接近して来る魔王。
うおお一気に距離を詰められたぁ! 美形が近いPart2!
息が掛かりそうな距離に迫る魔王の顔。冷静になって見るあまりに整った顔立ちに、私の顔にはぼっと火が灯る。
そ、そんな懇願するような、甘えるような目で私を見ないでくれぇぇぇ!
「嫌じゃない……っていうか、経験が乏しいからびっくりするっていうか、」
ああああああ何言ってるんだ私いいいい!
キッパリと物を言えない日本人の気質が恨めしい。
「ッ!?」
するりと色素の薄い私の髪を梳き、魔王はそのまま白く長い指を私の頬へ這わせてきた。背筋に何とも言えない悪寒が走る。
な、なんだこのアダルティな雰囲気は。実力行使から一歩引いた手段に出たか魔王めっ!
もう一度キックをお見舞いするか!? いやさっきの一件のせいで私の中に罪悪感が生まれてしまった。
そうこう思考を巡らせている間にも、魔王の顔が接近してくる。
う、うおおおおおおおおっ!
――ゴンッ
――バサッ
…………あれ? 魔王どこ行った?
咄嗟に仰け反って背後の木に後頭部が激突した途端、突然目の前の魔王の顔が視界から消えて、代わりに草色の布を被った頭部が現れた。
頭上の木の枝を確認し、再び目の前の頭部に視線を戻す。
なるほど。
さっきのぶつかった衝撃で、木の枝に吊るされてた洋服らしきものが落ちてきたのか。
私が納得する傍らで、目の前の洋服らしきものを被った魔王は何かを堪えるかのように、小刻みに震えていた。
* * *
「……ったく、なんだって言うんだ!」
さっきの出来事で気分が萎えたのか、魔王は私に何をすることもなく、苛立った様子で頭部に被さった洋服らしきものをひっぺがし、立ち上がった。
二度も食事を妨害されては、憤慨するのも当然だろう。私は日本人お得意の愛想笑いを浮かべ、極めて相手の神経を刺激しない言葉を選ぶ。
「災難だったネ☆」
「!」
ん? 魔王のこめかみに青筋が走った気がしたけど……気にしなーい。
まぁ何ていうか、うん。結果オーライだったね! さっきは危うく甘い雰囲気の魔王に流されるとこだったよ。
「……あ、そう言えばさっきも聞いたけどさ。その手に持ってる服、何なの?」
「………………このまま半裸ってわけにもいかねーからな。今朝お前がぐーすか寝てる間に調達してきたんだ」
相も変わらず憤懣が鬱積している様子だが、数秒の間の後、魔王は私の問いに答えてくれた。
っていうか、さっきのしおらしい彼は演技だったのか! 随分今と様子が違うじゃないか。
まったく、すっかり騙されたわ。これからは気を付けないと。
「……このままこうしていても仕方ねーし、……そろそろ行くか」
「? 行くってどこへ?」
手に持った質素な草色の上着を羽織りながら突然言い出す魔王に、最もな疑問を投げ掛ける。
何せ彼は魔物。行き先なんて予想が付くはずもない。あ、ここは異世界なのだから例え人間でも同じか。
「俺様の腹心のいる地だ。ヤツなら封印されていた間の情報を余す事無く伝えられるだろうし、何より今の俺様だけの” エリオラ ”じゃあ心許ない」
「えりおら?」
「エネジアを基に作られる精神エネルギーのことだ。ニンゲンの奴らなんかが魔術を使う時、決まって使う」
おおうさすが異世界。魔術とな。
つまりエリオラは元の世界の本やゲームで言う、魔力のようなものなのだろう。
「どういうワケか封印される前と比べて、エネジアから上手くエリオラを練れなくなったんだ。これじゃ俺様の本来の力の半分も出せやしねー」
「だから昔のお仲間に助けを求めに行くんだ」
「俺が腑抜けのような言い方をするな」
「でも間違ってはないんでしょ?」
尋ねると、魔王は整った顔を歪ませ、ぐっと押し黙った。
しかし昨夜の魔物の倒しっぷりを見る限り、今の状態でも彼は十分強いと思うけど……。
あれで半分の力も出ていないとなると、本来の彼はどのくらい強いのだろう。考えると、少しだけぞっとする。
私、ほんとにこの男に付いて行っても平気なのかな。
ふとそんなことを思う。
一応相手は仮にも魔王。今更取って喰われるなんてことはないだろうけど、他の魔物は分からない。ひょっとしたら彼の仲間の中には、人間を食べる種がいるかもしれない。
まぁ、命の危険に晒されてるのは、この世界にいる時点で同じことか。
現に金髪野郎という人間に、私は昨夜殺され掛けてるしね。
簡単に結論付けると私は立ち上がり、歩き出す魔王の後を追う。
ほんと、私なんでこの世界にいるんだろ。
切なる疑問が、頭の中で浮かんで沈んだ。