9話:夢現
ザパンッと波の音がかすかに聴こえる。この独特の波の音は間違いなく海だ。遠くから聴こえる気がするが潮の香りがするのでたぶんそれほど遠くないことが予想できた。風は肌を切り裂くかのように冷たい。凍えてしまいそうな程冷たいが、その風によって揺らされる森の木々の声はアルバの耳に心地よかった。
その世界は鮮明だった。
五感はしっかりと機能していて、現実そのものと全く変わらない。しかし、アルバはここが夢の世界であることを初めから理解していた。
気付いたらアルバはそこに立っていた。ぐるりと周囲を確認すれば木々が生い茂る森がある。森の奥は暗くて視界が悪い。今すぐにでも何か獣が飛び出してきそうな不気味さがあった。
アルバは周囲を取り囲む森から視線を目の前にある湖へと移動させる。湖はアルバたちの世界では珍しいとても透き通っていて美しい。透明だが淡くエメラルドグリーンにも見えるその水は、そのまま飲んでも問題はなさそうに見える。
アルバはゆったりとした足取りで湖へと近づく。まるでその湖に引き寄せられるように。
実際、アルバは引き寄せられた。それは、湖に、ではなくまた別のものが原因だった。
「魔力?」
ぼんやりとアルバを包み込むような何か。とても、親近感の湧くそれ。魔力だ。しかも、自分とよく似た魔力。
魔力とは、元々魔法使いや魔女だけが持っているものではない。命あるものはどんな形状をしていたとしても微力ながら魔力を持っている。ないに等しい魔力を持っているものたちには魔法は使えないが、アルバのような魔女や、自然界に溢れる膨大な魔力を持ったものには魔法を使うことができるのだ。
アルバは眉根を寄せ、ジッと湖を見据える。それから、真っ黒のパンプスを脱ぎもせず、湖を進む。
カツンとヒールを響かせながらアルバは水の上を歩く。アルバが足を付けた場所から波紋が広がった。
アルバが湖の中心当たりに来ると足を止めた。
アルバは自分の足下に広がる光景に息を飲んだ。
そこには、この世のものとは思えない程に美しい容姿をした女がまるで安らかに死んだように眠っていた。とても、神秘的な光景だった。
鼻の奥がつんとする。感情に疎いアルバだが、感情がないわけではない。それはアルバ自身が一番よく知っていることだが、自分が泣きそうなことに彼女は心底驚いた。
アルバはたまらずその場に膝をつく。湖の上を歩くために、自身に水避けの魔法をかけたため、濡れることはなかった。
ポタリと切れ長の黒い瞳から一粒涙が零れる。それは重力に従い、水面へ落ち、波紋を広がせた。
ゆっくりと水面に指先を滑らせながらアルバは泣いた。声も上げることなく、静かに泣いた。
湖に閉じ込められた女は何も知らぬままただ眠る。
「あなた、魔女なのね…?」
特徴的な真っ赤な唇からこぼれた言葉は見事に震えていた。
親近感を覚える魔力。しかも膨大な。それはアルバと同じ魔女の証。目の前で眠る魔女はきっと何者かの手によってこの湖の底に眠らされてしまったのだろう。…または、自ら。
そこまで考えてアルバはぞっとした。
夢の世界で湖に閉じ込められた魔女。ここは夢の世界であることは理解しているが、それでもどこか現実味を帯びている。アルバはどこか魔女と自分を重ねてしまったのだ。
その時、森がざわりと動く気配をアルバは感じた。
ハッと振り返ればそこには一人の女が立っていた。とても悲痛な表情をしながら湖を見つめている。アルバの存在には気付いていない…というよりも見えていないようだ。
「アリア…」
今にも泣きそうな声音で女は呟く。アリアとは湖の底で眠る魔女の名だろうか、とアルバは推測する。
湖の底で眠っている魔女もとても美しい容姿をしているが、現れた女も美しい美しい容姿をしていた。青みがかった黒い色をした髪はゆるりとウェーブがかり背に流れている。中性的な容姿をした儚げで美しい人だった。
一つ、気付く。その女も魔力を持っていた。彼女も魔女なのだ。しかし、その魔力はどこか自分と違った何かが混ざり込んでいるように感じる。湖の底に眠る魔女とも違う、何か。
女は涙をこらえながら、湖に背を向け、森の中へと歩を進めていった。
呆然とそれを見ていたアルバだが、頬を濡らす涙を拭い、慌てて彼女の背を追った。自分でもよくわからないが、女を追わなければと思ったのだ。
ガサガサと道なき道を歩いて行くと、視界が開ける。森の中はずっと暗く、突然明るい場所にきたため目が眩む。目が慣れてきたところでようやくアルバは目の前の景色を認識した。
海だ。太陽の光を受け、キラキラと波は踊る。風は相変わらず冷たい。強い潮の香りをかぎながらアルバは追って来た女をきょろきょろと探す。
「(…え?)」
アルバは怪訝な表情をする。女はすぐ側にある崖の上に立っていたのだ。
海から森へと吹き込まれる風が女の髪をさらう。女は相変わらず苦しそうな表情をしていた。だが、その瞳は真剣で、何かを決意した目だった。
「ま、さか…!」
女の元へアルバは駆け出した。ヒールの高いパンプスはごつごつとした岩の上では走りにくい。アルバはパンプスを脱ぎ捨て走った。不安と恐怖に後ろから追われているような気分だった。
女は胸元をキツく握りしめ、涙をこぼした。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ…!」
絞り出すかのようで女は叫ぶ。それから、ふとやさしい表情へと変え、アルバの方へと振り返った。しかし、彼女はアルバなど見てはいなかった。
アルバは手を伸ばす。
「また、巡り会えなかったわね。…愛しい人。」
女は背中から海へと身を投げ出した。アルバの手は空を掴む。
一際大きく、波の音がアルバの耳に聞こえた気がした。




