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Super Apple  作者: 饗庭淵
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4章

4.



 誰が予測できたろう。

 この状況の詳細を知るのは俺と瀬川だけなので、その「誰か」はそもそも二人しか該当しないわけではあるが。しかし、もし同じ状況におかれた人間がたとえ100万人いたとして、こんなことになるなど到底予想はつかなかったに違いない。

「どうぞ、乗ってください」

 彼女の前でうっかり口走ってしまったのが発端だった。もともと口の軽い俺だったが、よりによってこんなことになるとは。口は災いの元、身をもって実感する。いや、それともこれは好都合と喜ぶべきなのか。


 話は、ふと俺が車の免許でも取ろうかとぼやいたときだった。

「なんで免許が必要なんです?」

「行きたいところがある」

「どこですか」

「とある廃墟」

「いいですね、私も興味あります」

「まさかいっしょに行きたいとか言い出さないよな?」

「えっと、だめですか?」

「いくらなんでもな。一人で行かせてくれ」

「いえ、ですけど私……」


「どうしたんです? 早くどうぞ」

 初心者マークが誇らしげに輝く彼女の車。

 彼女がすでに免許を持っていて、そして自分の車を持っていて、しかも廃墟探訪に興味あり、と。彼女は本気だ。長い髪を結び、長袖で動きやすい格好をしている。

「なんで車なんか持ってるんだよ」

「親から譲り受けました。ちょうど新しいのが欲しかったとか」

「免許もだ。いつとったんだ?」

「ええっと、記憶を辿るとですね、私はどうやら推薦で受かったみたいなんです。そのせいで受験が早く終わって、暇だったのでそのときに」

「へえ」

 瀬川が実は免許を持っていて、しかも自由に使える車がある。一年後に計画していた旅行が明日にでも行ける。予想だにしない飛躍。

 目的地である廃墟は、とある田舎の島にある。電車は通っていない。船は出ているが、橋が架かっているため車で行くのが一番便利だ。橋は有料だが、軽自動車の通行料はわずか250円にすぎない。値段的にも最安値であり、加えて現地で機動力が確保できる。さらに宿にもなる。これほどまでに揃った好条件を断れるはずもなかった。

 夏休みに彼女と二人でハイキング。そういうと聞こえはいいが……まあいい。そういうことにしよう。

 それにしても、まさか同学年の彼女が自家用車を持っていようとは。宇宙人云々にとらわれすぎて瀬川縫子本人の経歴については考えもしなかった。

「……大丈夫なのか?」

「なにがです?」

「お前宇宙人だろ」

「ええ、まあ……」

「その免許は瀬川縫子のものだ。お前のじゃない」

「一応、何度か慣らし運転はしましたよ」

「……ホントに大丈夫なのか?」

「大丈夫です」

「信用していいな?」

「任せてください」

 重々に確認をとった上で彼女の車に乗り込む。

「ところで道は大丈夫です?」

「なんだ? 知ってるんじゃないのか?」

「ナビゲーションは完全にお任せします」

「国道沿いに行けばいいだけだから問題はないが」

「とりあえずどっちです?」

「左だ。あとはとりあえず真っ直ぐ。交差点が近づいたら指示出すから、なにも言わないときは真っ直ぐな。まあ、国道に入ってしまえばほとんど真っ直ぐだから」

 出発した。


「雨が降りそうだな……予報では40くらいだったが」

「祈ればなんとかなるレベルです」

 宇宙人云々というのもあり、どうも彼女の運転に信用がおけない。そのうえ今回のような長い運転は初めてだという。しかし、やることはただ車の運転だ。自動車は移動手段であり殺しの道具ではない。瀬川も俺を殺そうってわけじゃないし、瀬川自身もそれは困るわけだ。別になにか起こるわけでもないだろう。

「ちょ! ブレーキ遅い!」

「え? でもちゃんと止まりますよ」

 決して荒っぽい運転というわけではない。だが稚拙だ。いちいち危なっかしく恐ろしい。事故多発の看板を見るたびにビクビクする。

 学校でもついて回り、家にまで住み着き、こうして旅行までいっしょに行っている。まるで犬か猫……あるいは、迷子を怖れる子どもか。しかしそれも、いつまでもというわけにはいかない。

「この旅行終わったら実家に帰ろうと思うが、まさかそこまでついてくるなんていわないよな?」

「いけませんか?」

「お前はなにをいってるんだ」

「えっと、でもですね……」

「でもじゃない。いい加減自立しろ」

 いつか的場が俺を保護者といった。事情を知らぬのになんと的確な表現だろう。

 先を進む。そろそろ分岐点だった。

「この軽、煙はかないよな?」

 ルートとして峠を越えるのが最短のようだった。頂上付近まで登ると料金所を通る。そのまま何事もなければいいのだが、途中に工事中の看板。狭い迂回路を通ることになった。

「これ……狭すぎじゃないですか」

 初心者マークの手放せない瀬川には厳しいようだ。

「落ち着けばなんとかなる。なんとかなる、はず」

「なんとかしますよ!」

「カーブが急だからスピード落とせよ」

「わかってますよ。これでも安全運転第一です」

 と、言ってるそばでガリッ! ガードレールにこすった。

「あ~あ~あ~」

「こすってませんよ」

「まだなにも言ってない」

 そして無事(?)国道に到着した。あとはそのまま真っ直ぐだ。時計は12時を指そうとしていた。

「そろそろメシにするか」

 左手に見えた店に駐車する。運転技術がいちいち不安だ。さっそく気になっていた側面に回ってみる。壮観なほど泥がはね……いや、こべりついていた。

「大丈夫ですよ。雨で流れ落ちます」

「塗装が剥がれてるように見えるんだが」

「いえ、あくまで白いのがついてるだけです」

 変なところで譲らないのだった。

「とりあえず乾パンがあれば死にはしないだろう」

 観光というよりは探検だ。生存に特化した食糧としては間違いなく乾パンが最強だろう。軍隊でも採用されているほどだ。しかし、いくら探しても見つからなかった。

「おかしいな。この店、乾パンは売ってないのか」

「これでいいんじゃないですか?」

 彼女が手にしたのはコーンフレーク290グラム。

「仕方ないな。あまり気は進まないが」

「あ、こっちの方が多いですよ」

 次に彼女が手に取ったのはコーンフレーク370グラム、期間限定増量。値段を計算する。少し安い。

「まあ、これで生存確率が上がったな」

 俺の中ではコッペパン最強神話もあるのでこれも購入した。100円で500キロカロリーを超える食料はそうそうないと思う。加えておやつ程度の意味で柿ピー、飲料水としてミネラルウォーター2リットルを買った。

 昼食は簡単にファーストフードで済ませた。100円のハンバーガーを三つ。そこで重大な問題に気づく。

 島に入るにあたり予測しなければならなかったこと。人間の生存活動において不可欠なこと。それでいて無視されがちであり忘れられがちなこと。食糧と睡眠はすぐにでも思いつく。できればお風呂にも入りたいな、なんてことを考える余裕もある。しかし着替えや歯磨きなどとは比べものにならぬほど重要なこと。持ってくればよかった。買おうと思えばセットでしか売ってない。

 瀬川に相談。考え得る手段はやはり一つしかなかった。


 良心の呵責を乗り越え、余計に二つも手に入ってしまった。まあいい。出発した。

 あとは国道を一直線に進む。それが数時間続くはずだ。制限速度は時速五〇キロ。安全運転を自称する瀬川はその前後で速度をキープしている。とはいえ決して遅くはない。しかしそれを何台もの車が追い越していく。

「いったい何キロだしてるんだか」

 日本の交通マナーの悪さは世界トップクラスだったことを思い出す。ちょっと不安になる。

 ハンドルを握っていない俺は少々退屈してきた。うっかり「暇だからトランプでもしようぜ」などと口にするところだった。なんとか退屈をしのがなければ。とりあえず柿ピーをいただくことにした。しかし、それだけでもつまらない。なにか話でもしたいところだ。だが特に話題も見当たらない。というより、彼女の運転熟練度からして話しながらの運転は大丈夫だろうかという気もする。

「あの、すみません。突然なんですが」

 と、思っていると彼女の方から話を切りだしてきた。

「なんだ」

「私……もしかしたら、実は人間なんじゃないかって」

「え?」不意をつかれた。「実は全部妄想だったって?」

「そうではなくてです。いえ、つまりはそういうことなのかも知れません。仮にです、瀬川縫子に宇宙空間から飛来してきた地球外生命体が寄生した、これは事実とします。確認も証明もできませんが、とりあえずそれを事実ということにします。そして、その宇宙人は人間の知性を乗っ取った気でいるんです。ですけど、本当は全然そんなことできていない。知的活動の拠り所は瀬川縫子の持っていた能力にあるわけですから。つまり、なにをもって心の在処とするかという問題なんです。乗っ取ったといっても、瀬川縫子の記憶も知識も消滅していませんし、彼女の築き上げた社会的地位もまだ有効です。宇宙人である彼には、一からそれを築き上げるだけの力がない。心というのは身体と別個のものではあり得ませんし、外部との関係も無視できません。であるならば、宇宙人の心は、宇宙人のアイデンティティはいったいどこにあるというのでしょう。宇宙人も結局は彼女の持っていたものを利用せざるを得ない。瀬川縫子には間違いなく宇宙人が寄生している。そして、彼女はそれを乗っ取られたと表現している。だけど、実質的には乗っ取りはまったく成功していない。つまりそれは、宇宙人に乗っ取られた妄想していることとなにも変わらないんじゃないかって……」

「なるほど。それは俺が最初に抱いた印象と同じだ。だけど、奇妙だな。たしかに俺からすればお前はそんな感じに見える。しかし、お前には確かにあるわけだろう? 宇宙人としての記憶というか、知識が」

「たしかに、そうあるとは認識しています。それを根拠に私は自らを宇宙人と主張しているわけですから……」

「なら、なんでそういう発想をする?」

「認識しえないものは存在しない、といいますか。いえ、私は認識しているんですが……」

「心の問題と同じか。他人に自分と同じように心があり感情があるのか、客観的に確かめる術はない。哲学的ゾンビってやつか」

「そうなりますね……」

「この議論には続きがある。たとえば、そうだな。この柿ピーに心や感覚はあるのかと考える。もしそういったものがあるのなら、俺に噛まれ、咀嚼され、飲み込まれ、さぞかし痛いだろう。だが、俺はそうみなさない。いくら耳を澄ましても柿ピーの悲鳴は聞こえない。しかし、もしこれがお前の指なら、間違いなく泣き叫ぶだろう。つまり、心とはみなされるものなんだ。もしお前がお前を宇宙人とみなすなら、お前はお前にとって宇宙人なんだろう」

「私が宇宙人であることを保証してくれるのは私だけ、ですか?」

「現状ではな」

「ですが、今はそれすらも怪しんです」

「そうだったな。変な言い方だが、自分が宇宙人であることに自信が持てない?」

「たとえば、人間に寄生している生物といえばミトコンドリアが有名です。人間はミトコンドリアなしには生きられない。その意味で、人間はミトコンドリアに乗っ取られてるといえなくもありませんが、彼にはその自覚もなく、彼も人体のシステムなしには生きられません。乗っ取っているというのが事実でも、結局そのようなものではないかと……」

「まあ、乗っ取っているという表現は早とちりだったんだろうな。とすると、宇宙人とはお前ではなくお前に寄生している生物、って表現になるのか?」

「そうなるとは思うんですが……私は瀬川縫子ではなく、やはり瀬川縫子に寄生した宇宙人なんです。あくまで私は瀬川縫子の知識を参照にしながら瀬川縫子を演じているにすぎないんです」

「ややこしいな」

「あとは、こういうことも考えるんです。私のやったこと、瀬川縫子への乗っ取りは、いわゆる殺人になるのでしょうか?」

「瀬川は、そのことに対して罪悪感でもあるのか?」

「いえ、罪悪感にしても、そういった感情の起源は瀬川縫子にあるんです。ですから……奇妙な感覚です」

「ふうむ。つまりは、俺も混乱しているが、瀬川はそれ以上に混乱しているってことか。人間と宇宙人がダイレクトに接触したのはまさに瀬川自身だから」

「申し訳ないです。私自身でもよくわかってないことを。瀬川縫子であり宇宙人でもあり、瀬川縫子でなく宇宙人でもない……出来合いの言葉で表現しようと努めていましたが、もしかしたら新しい言葉が必要だったのかも知れません」

「いや、それほど混乱する話でもないかも知れない。バタイユでも似たような話があった。たとえば、俺が突然二人に分裂したとする。今まで一人だった元木が二人になる。これは増殖であり誕生だが、同時に死でもある。つまり旧い元木が死んだってわけだ。なぜなら、新しく生まれた二人の元木には彼らを区別するため新しい名前が必要になるからだ。すなわち元木Aと元木B。元木という一つの名で呼ぶことはできない。元木という名で呼ばれた男はもうこの世にいないってわけだ」

「えっと、それが、私の場合は分裂ではなく融合?」

「そうなる。この俺が分裂したって話はあくまで仮の話だが、実際にはこういうことは日常的に起きてる。たとえば、瀬川に会う前の俺と会った後の俺。瀬川に会った時点で瀬川に会ったことのない俺は死んだ、そう言えるわけだ」

「私に起こったことはそれほど特別なことではない、と?」

「なんていうのかな、人の性質は一瞬一瞬で変化し続けているんだ。旧い自分が死に、新しい自分が生まれる。そんな不連続性。その度に名前を変える必要があるってんなら、混乱どころの騒ぎじゃない」

「で、結局私は誰になるんです?」

「瀬川縫子であり宇宙人。俺が元木和晃であり大学生であるようにだ」

「あ、なるほど」

「おい信号赤だぞ」

 あいかわらず急ブレーキ。今回は一段とひどい。話に熱中していたのもあり停止線を超えたようだ。

「……話しながらは、やっぱり危ないんじゃないのか?」

「とはいえ、どこかで基準があると思うんです」

 聞いちゃいない。当たり前のように話を続ける。

「基準だって?」

「たとえば、カズ君も、私に会ったことで会う以前のカズ君が死んだ……という言い方をしましたけど、もちろんその程度の変化でいちいち新しい名前は必要ありません。でも、たとえばカズ君が二人に分裂した場合。このときには必要になりますよね、二人分の名前が。そういう意味での基準です」

「たしかに、俺が二人になったとき二人を区別するには元木Aと元木B、そういう新しい名前が必要になるが、しかしその新しい名前も元木という名前を残している。あるいは、二人合わせて元木という一つの系だと考えるなら、この非日常的な変化も、大学生としての身分を手に入れるという変化と大して変わらない。分裂ではないが、大学生という身分が俺の性質に追加される。だが、それによって元木という名前が消滅するわけではなく、大学生という肩書きを取り込んだ系に変化する。このとき死ぬのはあくまで限定的な、たとえば高校生だった元木和晃だ」

「でも、です。大学生になるというくらいの変化があれば、大学生という新しい名前を得ますけど、私に会ったくらいでその変化はありませんよね?」

「カズ君という名を得たよ。そんな風に呼ばれたことはなかった」

「あ……」瀬川は少し黙り込んだ。

「さっきからなにを悩んでいるんだ? よく話が見えない」

「ええっと、なんていいますか、なんだかもうすでに答えられてしまったような気もするんですが……」

「最初はなんだったかな。たしか、自分は人間かも知れない、宇宙人というのは全部ウソかも知れない、って感じだったか」

「はい。それについて、なんだか同じことの繰り返しになりそうなんですが、もう一度問い直さないといけないことがあると思うんです」

「聞きたいな」

「私はなぜ地球にやって来たのかということです」

「ほう」それを自分で問うのか、と呆れかえる。「生き残るため、じゃなかったのか?」

「そう考えるといろいろ不明な点がある……という話はしましたよね?」

「確かにしたな」

「リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』。部屋にあったので読ませてもらいましたけど」

「あれ読んだのか? あの厚いのを。いつの間に……って、ひきこもってるときか」

「あれを読んで考えたんです。私が運んできたのは遺伝子だけなんじゃないかと」

「遺伝子だけ? ともすると、繁殖して次へ繋げなければ一世代で終わりだ。それじゃあせっかくの長旅も無意味じゃないか」

「はい、つまりそういうことかもしれないんです」

「しかし、ミトコンドリアだって次世代へ残るだろ。細胞核の外だから女系限定にはなるが」

「それでいえば、うっかり男性にやって来てしまったミトコンドリアみたいなものですね。男性に寄生しているミトコンドリアは脱出手段を持たないのでその代で終わりです」

「ふうむ。本当に繁殖能力はないのか?」

 実際にやってみればわかるだろうが……と言いかけて口をつぐんだ。

「あるいは、模倣子を運ぶつもりだったかもしれません。いえ、きっとそう。私はもともとそういう生き物だったと思うんです。宇宙のどこかで、なにかしらの知的活動をしていて、その記録が彼のアイデンティティで、そしてできることならそれを残したい。なんとしてでも、別の星へ移ったとしても……。でも、それは失敗した。なにせ出力ができないわけですから。できることはただ、自分が宇宙人だと主張するだけ。でも、それではなんの意味もない。カズ君一人ですら私を宇宙人だと納得させることもできない」

「できないな、たしかに」

「それでは宇宙人である意味がない。つまり実質的に、宇宙人の生き残り作戦は失敗したということ。私はその残骸のようなもの。一世代で終わる夢。つまり、宇宙人は地球にやって来なかった……」

「俺がいくらお前に宇宙人であることを期待しても、本当はなにもなく、そしてなにも出てこないかもしれない、ってことか」

「一応、あるにはあるんです。記憶というか、記録というか、宇宙人としての意識といいますか……でも、それが本当にそうなのか。あるという気だけするんですが、どうも漠然としていて、曖昧として、言語化できないでいる。もしかしたら、そんなものは思い込みなんじゃないかって」

「それでも、宇宙人が寄生した、乗っ取った、宇宙人としての記憶がある……それらがすべて思い込みにすぎなかったとしてもだ。それをきっかけに、それを明らかにしようと瀬川は知識をつけた。学習した。もしこんなことがなければ俺の部屋にひきこもることもなく、ドーキンスを読む機会もなかっただろう。それは宇宙人の力、宇宙人としての自我というか、こういった形でそれは現れているんじゃないのか?」

「ですが、人間でなければ、瀬川縫子でなければできなかったことです。もし私が猫に寄生していたら同じ結果にはなりません」

「人間だって地球に寄生しているようなものだ。人間が他の宇宙人を圧倒する高度な文明を築き上げたとしてだ、それは地球という天体の持つ性質のおかげなんだよ。多くの偶然が重ならなければこの地球に生命は発生せず、人類は誕生しなかった。晴れた空がなければ天文学はあり得なかった。石炭や石油がなければ産業の発展はあり得なかった。国別に比較すれば分かる。人間の知性だって結局は環境に大きく影響されているんだ」

「えっと、それどういうことです?」

「ん? それこそどういう意味だ」

「つまり、それは私が優れているのか、それとも人間がそれほど優れているわけではない、と言いたいのか……」

「それはさっきも話したろ。どっちもだ」

「はあ」だが瀬川はどこか納得していないようだった。「なんだか、うまく言いくるめられてるだけのような気がします……」

「なにか間違ったこといったけ」

「いえ、なんといいますか、私は……」少し間を空けた。「そういった理屈ではなく、宇宙人である確かな証が欲しいんだと思います。論ではなく、証拠が」

「宇宙人である証、か」

 議論が堂々巡りしている気がした。

 反論はすぐに思いついた。「なら俺が人間であることを証明してくれ」。そういえば瀬川はきっと困るだろう。それは瀬川の望んでいる答えではない。それでは議論が収束しない。話が噛み合わない。そんなことを頭で捏ね回しながら考えていると、沈黙の時間が話題をフェードアウトさせた。


「燃料足りますかねえ」

 話題はいつの間にか逸れ、瀬川はガソリンのことを気にしていた。

「そうだな、島に入る前に入れておくか。まあ、島にも道路は通っている以上スタンドはあると思うが」

 左手にガソリンスタンドが見えた。瀬川はそこに入る。

「実は、ガソリンスタンドに入るのはじめてなんですよ」

「はあ? 自分の車だろ?」

「もとは親の車ですからね」

「譲り受けてから燃料使い切ったこともなかったのかよ!」

「いえいえ、この車が親のものだったときからちょくちょく乗ってはいましたよ。ただ、給油のタイミングに乗っていなかったというだけで」

 いちいち不安要素が多い。

 セルフサービスのスタンドだった。ここでならのんびりとはしていられるか。

「給油口は右だろうから……そこ、そこに停めて」

 停める。降りる。確認する。

「給油口、左でした」

 他に客もいないのが幸いだった。

「転回だな。向こう側に停めよう。大きく円を描くように」

「いえ、それよりも困りました。給油口の開け方がわかりません」

「つくづくセルフでよかったな」

 適当にそれらしいレバーをいじるとボンネットが開いた。あたふたしていると店員が駆けつけ助けてくれた。セルフだったはずなのに。

 ガリッ。またなにかこすった。もう慣れた。


 だんだんと目的地が近づいてくる。看板にそれらしい名前も見えた。その看板に従い、有料道路を通れば島に入ることができる。見知らぬ別世界へ迷い込んでいる感覚が快い。別の看板も目に入った。

「鍾乳洞だってよ。ここらへんにあるらしい」

「いいですね。帰りに寄りましょう」

「なぜいちいち俺と趣味が合う」

 いくらか迷いながらも看板の導くままに橋までたどり着く。通行料の250円を支払い真っ直ぐ島へと入っていく。思わず感嘆を漏らした。

「ええっと、で、この先からはどうなるんでしょう?」

「この本に書いてある」

 俺を廃墟好きに染めた写真集だ。芸術と呼んで差し支えのない、幻想的で美しい写真の惹かれ、衝動的に購入した。ただ、添えられている気取ったふうの詩的な文章が痛々しい。ただ、目的地の場所を時系列に合わせて「実際にどう行ったのか」を書いてあるのは心強い。文章表現が信用ならないがアクセスについては確かだろう。

「とりあえず左を見ていれば見つかるようだ」

 この島、車通りなど全くない廃墟のような島を想定していたが、コンビニも一応あるようなそれなりの町だった。団地もあり、役所もあり、人の住んでいる気配が確かにある。少し意外だった。

「見つからないな」

 一つ目の目的地はこの島にあるという旧診療所。結核患者の隔離施設だったそうだ。道成に左手の方向をずっと眺めていれば見つかるらしいが、それらしいものはなかなか見当たらない。かなり興味深かったが、意外と車が多かったためにあんまりノロノロはしていられない。後ろからやたらと速い車が迫ってくる。しかも追い越し禁止区間となればなおさらだ。

「仕方がない。もう一つの方へ行くか。あっちならすぐに見つかるだろう。もう島そのものが廃墟といってもいいくらいだからな」

 真っ直ぐ先へ向かった。さらに橋を渡り、その奥の島へと向かう。もう一つの目的地は、診療所に収容する結核患者を生産していた炭坑跡だ。

 橋を渡ると、人の気配は途端に薄れた。田舎というより、そもそも人が住んでいるのか、生きている人間が存在するのか怪しく思える。一応、電線が通ってたり、自販機があったりと生活できる環境はあるらしい。生命維持装置に繋がれかろうじて呼吸しているようだった。

「おお!」

 なにかが見えた。遠目から目的地である鉱山の団地の影。たまらない形状のシルエットだ。二人して興奮する。

 近づいているはずが行き止まり。迷宮入りとなってしまった。転回して緊急脱出。道を間違えたのかも知れない。地図を見ても写真集を読んでもよくわからない。人に道を尋ねることにした。困ったときのおばあちゃん。

「ええっとですね、ここは」

 入り口に突っ立ってる村人Aのごとく延々と同じことを繰り返す。話し方もやたらのんびりしている。どうにも要領をえない。こんな島に住んでるんだから時間感覚などいろいろズレてるのかも知れない。おばあちゃんは分からないというので他の人に聞きにいくという。それに俺も連れられていく。どうやら、炭鉱が閉鎖され、以降は関連の道も閉鎖されて島の構造が多少複雑になっているらしい。

 待ちくたびれた瀬川は路上から駐車場へ移動していた。やたらと危なっかしい位置に駐車している。おばあさんとおじいさんに誘導されながら出発するがバキッ。サイドミラーが……

「どうも、ありがとうございます」

 教えてもらった道を行き、島唯一の信号を左に曲がる。いよいよシルエットに近づいていく。

「どこら辺になるのでしょうか」

 右にも見え、左にも見えた。

 左の方が近い。適当なところで入ってもらう。なにやら狭い道がある。

「とりあえずその道登ってみよう」

「えー狭いですよ。きっとまた行き止まりですよ」

「そんときはバックで」

 行き止まりだった。予想通りといえばそうなのだが。転回できるスペースもなくそのままバックでの脱出となった。瀬川がへとへとだった。


 いったん車を停め、歩いてそれらしい道を上る。

 落ちていた木の棒を装備し、蜘蛛の巣を巻き取りながら奥へ進んでいく。

 そしてついに中へ。清潔な空気だ。

 一階は床がすべて抜けていた。木製だった。こうしてみると素材の耐久力が分かる。木造がどれだけ脆いかが一目瞭然だ。

 階段に足を踏み入れる。階段は鉄骨入ったコンクリートでできている。木造と違い、そうそう崩れ落ちることはない。だが、こんな廃墟だ。「もしかしたら」という緊張感がある。その緊張感も最初かぎりのわずかなものではあったが、心臓の撫でられるような感覚はずっと続いた。

 階段を上りつつ、両脇の部屋を一つ一つ観察する。どの部屋も構造は同じだ。だが、崩れ方というか、散乱している物品がそれぞれ異なるため飽きなかった。

 そのまま屋上に出る。見ると、下へ降りるための階段が他にも二つあった。階段は三つある。今上ってきた階段に隣接していた部屋は左右に二つだけ。どうやら一フロアに六部屋あるようだ。さらに隣の部屋に行くには、わざわざ屋上に上るか一階まで降りる必要があるようだ。つまり廊下がない。面倒な構造をしている。

 だが、それが面倒だというのはこうして廃墟となった団地を探訪するものの論理だ。ある特定の部屋で生活する当時の人間からすれば、別に問題はなかったのだろう。

 人を収容することだけを考えた設計。壁を隔てた部屋同士での、いわゆるお隣さんの交流なんてものはなかったに違いない。それともベランダ越しなら話くらいできるだろうか? どちらにせよそういったことができるようには設計されていない。人間を歯車として構成されるシステムがここにはあったのだろう。

 こういう、「今は亡き過去」といったようなことを考えると、胸がすーっとなる感覚がある。肺いっぱいに清涼は空気が満たされる。常に現在時を圧し潰そうと迫る過去。ここにいるときだけは、過去はただこうして眺められるだけの存在になる。それがなんともいえず心地よい。

 鉱山の閉鎖された今、島そのものが廃墟となる日もそう遠くないように思えた。鉱山だけで成り立っていた島なのだろう。現役の工場のようなものもあったにはあったが、そもそも人の住んでいる気配がない。商店があまりに見あたらないのだ。人が生活している以上あるはずなのだが、しかしこの島のいったいどこで食料品を得るのか。旅行者である俺には想像がつかない。「島そのものが廃墟」というのは、まだ住んでいる人がいるというのに失礼ではあるが、探訪者の視点からすれば的を射ていた。

 ともかくも、屋上からの眺めは気分が良かった。ドラマで犯人が追いつめられるような崖も見えた。

「いやあ。いいですねえ……」

 瀬川も心底楽しんでいるようだった。

「さて、次はどこ行くかね」

「そうですね、写真集にあった鉱山そのものが見たいです。ここはその鉱山で働いていた人が住んでいたところですよね」

「俺も見たいな。しかしどこにあるんだろ」

「あの煙突とかじゃないですか?」

「たしかに他にそれらしいのもないしな」

 空気をいっぱいに吸って、車へと戻った。そのまま煙突の見えた場所へ向かう。


 車を停めてここから先は徒歩で。道など用意されていない。出エジプト記のモーセのように無理矢理草木を踏みつぶして道をを切り開く。なかなかハードだ。しかし面白い。ふと後ろの瀬川のことが気になる。俺としては特に問題はないが、女にこの道を行けるのか。後ろをついてきてはいるがいくらなんでもきつくはないか。などと心配していたが……。

「これ、新しいスポーツとして開拓できませんかね?」

 などと口走っていた。なかなか野性味あふれている。

 TV放映の際はどうなるのだろう。上空から撮影できるだろうか? 身長と同じくらいの雑草を蹴飛ばし、さらに進む。

「ホント深いですね……」

「ここまで来たら負けられない」

 煙突に到達。が、探していた「鉱山そのもの」は見つからなかった。ただ、煙突が一本。用途はわからない。

「よし、上るか」

「ええ?! 上るんですかここを」

「せっかく来たし。上らなきゃ」

「危ないですよ! 錆びた梯子が折れて落ちてあわわわ」

 忠告を無視して上る。「バカとなんとかは高いところが好き」を実証した。ちなみに俺は「なんとか」の方だ。

 それからしばらく探し回ったが、「鉱山そのもの」は依然として見つからなかった。日も暮れてきた。


 そろそろ疲れたので温泉へ向かうことにした。別に、この島に温泉があるという確証はなかった。ただ、なんとなくあるような気がしただけだ。途中で見つけた看板に従いホテルを目指す。温泉があるならそこだろう。

 ホテルへ続く坂は長い一本道だった。

「だれがこんな道を通って」

「後ろ」

 めったに車はないとはいっても、ゼロではない。

「まあ、後ろから来てるっても焦らずにな」

「わかってますよ」

 だが、やはり少し慌てているように見えた。

 頂上にホテルは建っていた。見た目はわりときれいだった。

 とりあえず中に入って見る。誰もいない。まるで廃墟だ。トイレだけ借りて立ち去る。

 少し歩くと、ホテルの隣の建物が温泉だったことがわかった。用があるのはこっちだ。中にはいるがこちらも誰もいない。マッサージチェアはあるがその部屋の照明は暗く、本当に使えるのかといった風情。

 カウンターの前に券売機がある。そのとなりに「券はこちらへ」と箱がある。券売機の意味がわからない。無料で入ることもできそうだった。

 そして男湯と女湯で別れる。

 あまり広くはない。先客もいない。効用について解説があった。どうもうさんくさい。敬体と常体が入り混じっている不自由な日本語、加えて湯はカルキ臭い。やはり温泉ではなかったか。はじめから予想はしていたが、疲れがとれるのであればどうでもよかった。

 それから時を忘れてゆったりしていると、だんだんのぼせてきて、指もしわしわになったきたので離脱した。

「いい湯でしたね」

「温泉じゃなかったけどな」

「え? あれ?」

「いや気づけ」

 ホテル前の駐車場に停めた車の中で夕食をとる。コーンフレークだ。

 ひたすら喰う。バリバリ喰う。しかし一向になくならない。というか減らない。腹膨れない。一回に掴める量、口に含める量が少ない。あんまり一気に喰おうとするとこぼれる。暗い上に車の中だ。気にしないわけにはいかない。これは無理だ。

「失敗したな」

「失敗しましたね……」

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

「飽きたな」

「飽きましたね……」

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

「乾パン探せばよかったな」

「そうですね……」

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

 バリバリ、カリカリ。バリバリ、カリカリ。

 すごく虚しかった。

 飽きたが、腹は膨れない。コッペパンを買っていたのがせめてもの救いだった。

 そのとき、山の向こうに赤い月が見えた。風車に巻き取られるような早い動きで山陰からその顔を現す。リアルに人の顔のように見えて怖かった。古代や中世の魔術的な絵画では月や太陽に顔が描かれていることがある。その気持ちがわかる気がした。

 空はきれいで、星がよく見えた。

 その後、さすがにこのままホテルの駐車場に停めたまま寝るわけにもいかないため、もう少しの探索も兼ねて寝床を探すことにした。「鉱山そのもの」が見たかったのだ。

 例によって写真集の記述をを頼りに車を動かしてもらう。

 ところどころで行き止まりがあり、その度に転回する。何回繰り返したことやら。

 いいスペースがあったので駐車する。様子見ということで歩き出す。

 道を下っていくと、一応民家らしきものがあった。村というより民家群。車もあるし、一応、人は住んでるはいるのだろう。逆にいえば、そういった状況証拠による判断でしか人の気配はしなかった。

 もうしばらく下っていくと、海の音が聞こえて来た。夜の静けさもあり不気味なまでに綺麗に響く。

「グゲィー……グルルル」

 道の右側の雑木林から、奇妙な鳴き声がした。鳥の声だろうか。大型の獣のようでもある。

「ひいっ!」

 瀬川がビビりまくって逃げだす。俺の方はその脅威を認識できない。

「そんなに怖いか?」

「怖いですよ……」

 そのまま進んでもよかったが、こういった場合は恐れを知らず突っ込む方が死亡フラグというものだ。

 死亡フラグとは死の前兆。たとえば回想シーン、たとえば突然いい人になる、たとえばこの戦争が終わったら結婚するんだ。あるいは勇敢に敵に突っ込んだり、俺に構わず先に行かせたり。つまりその演出意図は、そのキャラクターに好感を持たせたり、「こいつが死ぬはずがない」と読者に思わせることで死んだときのショックを大きくしようというわけだ。ネタとしてリストアップされ、かなり読者の間にも広まって陳腐化しているにもかかわらず、いまだにそれを利用する作家は多い。それほどまでに逃れがたいものなのだ。

 現代に生まれ、死亡フラグという危機を回避するための知恵を身につけた人類がむざむざそれに飛び込むなど愚の骨頂だ。

 俺も引き返すことにした。

 若干怖かったのもあったのだが。


 いろいろ歩き回ったが大した収穫はなかった。足が疲れてきたのもあり、もう休むこととした。宿泊は当然カーホームレス。ホテルなどリッチすぎる。

「さすがに閉め切ると暑いか?」

 窓を開けると蚊が入ってきた。

「やっぱダメですね。閉めましょう」

 蚊を入れないためにと閉めたが、その結果、何匹か閉じ込めてしまった。瀬川がが一生懸命蚊を退治する。俺の方は特に気にならなかった。

「これで最後、かな」

 よくもまあ華麗に蚊を倒すものだ。ついに蚊の羽音は消え、車に再び平和が訪れた。

「これで快適に眠れますね」

「それにしてもなんでそんなに必死なんだ?」

「なっなんでって、見てくださいよこれ! こんな大きいの! 刺されると痒いどころか痛いくらいです」

「刺されないからわかんね」

 瀬川はO型らしい。血液型性格診断は信用ならないが、蚊がO型を好むというのは本当のようだ。俺は刺されたあとの皮膚の膨張が心地よかったくらいだった。

「なんか蒸さないか?」

 せっかく退治が完了したというのに、今度は湿度がやばいことになってきた。俺としてはもう窓を開けてもいい気はしたが、瀬川にとって蚊の存在は死活問題。虫除けスプレーを駆使しつつ窓を少し開けることになった。しかしその作戦も虚しくやはり何匹か入ってきた。

「中途半端に開けるから出口なくなるんじゃね?」

 と、最終的には全開になった。

「ふう」とため息。

 そんな、瀬川の様子を見ていると、「なんでお前宇宙人なんだ?」そんなことを、ふと、口に出していた。

「え、えっと、なんでといわれましても……」

「すまん。そりゃそうだな。まあ、別に宇宙人でもいいとは思う。しかし宇宙人でなければいけない理由はあるのか? 正直、お前が宇宙人だってことを何度か忘れかけたことがある」

「昼に話した内容の続きですか?」

「続きというかな。話をして、今日一日過ごして、そして考えたことがある。運転が下手くそだったり、自分が何者なのかと悩んだり、謎の獣を怖れたり、蚊に刺されるのを嫌がったり、廃墟や鍾乳洞に興味があったり……」

「運転は下手じゃありません」

 こんな風に、彼女は人間だ。どこからどう見ても。

「つまりだ、瀬川は人間以外のなにものでもないんじゃないのか?」

「私を宇宙人でもありうる、っていったのはカズ君じゃないですか?」

「その俺は死んだ」

「はあ」瀬川は呆れていた。

「冗談だ」口に出てしまった不完全な形の疑問を、より確かな形に構築し直す。「お前は宇宙人と名乗ったが、それは宇宙人である必要はあったのか、って話だが……いや、お前もそういうこといってたが、それとは違ってな。お前にとって重要なのは宇宙人ということじゃなくて異邦人ということじゃなかったのか、ってことだ」

「なんですかそれ?」

「ううむ。まあ、たとえば、たとえばの話だが。異邦人というならたとえば異世界からやって来た魔女っ娘とか、そういう設定でもよかったんじゃないかって」

「なんですかそれ」

「だから、たとえばの話だ」

「でもその場合、魔法が使えないと魔女っ娘とはいえませんよね」

「なんらかの事情で魔法が使えないとか」

「でも、異世界について詳細な知識は持ってますよね?」

「記憶喪失だったら?」

「それなら自分を魔女っ娘と名乗ることはないはずです」

「それもそうか。それじゃあ、古代から蘇ったとか、未来からタイムマシンでやって来たとか」

「古代人なら多分会話が出来ないと思います。未来人なら少なくとも未来の知識を持ってるはずです」

「空の向こうから、じゃなくて海の向こうからじゃダメだったのかな」

「私は日本語しかしゃべれません」

「ふうむ。やっぱり宇宙人しかないのか」

「私がどれだけ人間的とはいっても、きっと、宇宙人でなくなることは、できないんだと思います」

 だが、それでも彼女が宇宙人であるという証拠は今度とも出てこないし、宇宙人らしい特徴も見られないに違いない。秋山のいうよう、期待はずれではあるがそれが現実なのだ。

 フロントガラス越しに夜空を覗く。満天の星空とまではいかなくとも、町で見るよりははるかに輝く。あの空の向こうから彼女は来た。

「お前はいったい、あの空のどのあたりから来たんだ?」

 返答はわかっている。どうせ「わからない」。

「さあ……どうなんでしょう。それなりに近いところじゃないと来られなかったとは思いますが」

「一番近いのがアルファ・ケンタウリ、4.3光年だ。探査機ですら、そこまではたどり着いていない。だというのに、お前はどうやって地球まで来られたんだ?」

 沈黙する。どうせ「わからない」としか答えられないからだ。いまだに彼女を宇宙人と断定する事実はない。しかし、彼女をなんと呼ぶのかについてあらゆる可能性を考え……消去法で、宇宙人というのが最も妥当であるのは事実だった。

「矛盾するようだが」瀬川の反応を見て、続ける。「俺は、お前は人間でもいいと思うと同時に、宇宙人でもいいとも思ってる」

「えっと……バタイユでしたっけ?」

「バタイユじゃない。俺の言葉だ」決まった、と思ったが少し不安になり付け加える。「正確にはバタイユを参考に導き出された俺の言葉、かな。異なる状態が同時にあり得るという言い方は量子力学っぽい気もするが」

「量子力学ですか。あれ結局よくわからなかったんですけど」

 などと瀬川が言い出すので話題がいつの間にか量子力学の解説になる。俺自身それほど正確に理解しているわけでもないし、というより最先端の宇宙学者ですら誰も理解していないともいわれている。そして、瀬川にとってもやはりそれは簡単に理解できるものではなかったようだった。

「あれ? なんの話してたんだっけ?」

「えっと、異なる状態が同時に……私が人間であり宇宙人でもあり得る、っていう話じゃありませんでした?」

「それだ」なにを話すつもりだったのか思い出す。「俺がお前をどう思っていて、どう思っているのか。それから話すか」

「気になります。それはつまり、私がいったいなにものなのかという評価なんですよね?」

「お前の期待に添うかはわからないが、俺もかなり手広く調べたんだよ。持ちうるかぎりの知識を総動員した。それで出た結論だ」

 深呼吸をする。

「はじめは冗談だと思った。冗談でないとわかると詐欺師を疑った。しかし、それも妥当性がないから次は妄想だ。かといって、妄想だとしても奇妙なんだ。妄想を引き起こす病気といえば、たとえば統合失調症や妄想性人格障害。だけどその場合は、普通だったら被害妄想だとか誇大妄想になる。監視されているだとか、悪口を言われているだとか、自分が特別優れているだとか。お前の場合は……そうだな、実験動物にされるかも知れないというのが被害妄想に当たるかも知れないが。しかし、だとして宇宙人がどうとかという背景設定の意味がわからない。ともかく統合失調症の症状とは思えない。妄想性人格障害の症状とも合致しない。過剰に疑り深いとか、怒りっぽいとか、普通だったらそういう症状も併せてあらわれる。病気だからな。わけのわからないものでも、なにかしら理由がある。遺伝だったり、心因だったり、外傷だったり。お前が自分を宇宙人と名乗るなら、やはりなにかしら理由があるんだろう。病気というほど重度ではない健康的な妄想……くらいがちょうどいいんだが、それでいてかなり深刻に悩んでいる。お前がただのバカならそれでもいいんだが、お前はそれに対しかなり懐疑的に、それでいて確信をもって考察している。俺はそういう例を知らない。ともすると、それらをすべて合理的に説明するには、本当に宇宙人か、あるいは新種の病気か。新種の病気の場合呼び名がない。とすれば、宇宙人と呼ぶしかないだろう」

「はい……それは正しいと思います。でも、そうではなくて私は……もっと正確な、具体的な知識として、言葉として……」

 やはり俺の言葉は瀬川の期待には添わなかったようだ。

「それはわからないとお前が言ったんじゃなかったか? もとのお前には目がなかったんだろ? だから、かつての自分の姿を描写することは原理的に不可能だって」

「それはそうです、そうですけど、私は一応持っているんです。かつての記憶や知識を」

「それを人間の言葉にしたい?」

「そうです、そういうことです。今の私は宇宙人であり人間でもあるわけですから……」

「多分、それは無理だ」追い打ちのようにもう一言。「人間の言葉には限界がある。そういうことだろ」

 瀬川は膨れているように見えた。

「俺も興味がないわけじゃないんだよ。お前がホントのところどういう生き物なのか。そうだな、とりあえず今、できうるかぎりの言葉で表現してくれ。不完全でいい。モヤモヤしているというなら、その感覚を言葉で表現してくれ」

 瀬川は顎に指を添え、しばらく考え込む。

「点、光……? かなりの情報量ですが、どうにも解釈ができません。幾何学的な解釈が可能だと思うのですが、なにかきっかけが見つからないような……。数学の問題を解くときのような、意味不明な記号の羅列が、実はなんでもないことの記述であるような。それがわかる以前の感覚といえばいいのでしょうか」

「ふうむ。あまり言いたくはないが、結局、なにもわからないんだよ。お前も、人類も。限界があるんだ。全人類が総力をあげてお前を調査すればなにかわかるかも知れない。しかし、その協力を要請するためお前が全人類に対し『私は宇宙人です』と叫んでみても、だれも信じない。数人は興味を抱くかも知れないが、宇宙規模の調査となればそれじゃ力不足だ。信じたものがいても証明できない。お前はどう見ても人間だからな。たとえば、CTスキャンで異常が発見されてもそれが宇宙由来のものかまではわからないだろう」

「私は……いつかわかると信じてます」

「いつだ?」

「それはわかりませんが……ですけど、たとえば数学の話をすれば、かつての人類は小数の存在や無理数の存在を認めなかったといいますよね? でも、今は公然と認められている。それが認められなかった時代よりはるかに計算は効率化され、進歩しています」

「科学が進歩し続ける時代はもう終わったんだよ。19世紀の科学と20世紀の科学は違う。科学がすべてを解明すると信じられた科学万能主義時代もあった。だが、それを突き詰めてみると、たとえば特殊相対性理論。光の速度は超えられないという限界を発見してしまった。そして量子力学についても、誰も理解できない想像を超えた形でしか記述できないものになってしまった」

 また瀬川は沈黙した。知識の及ばない分野の話をされたからだろう。


 尿意を催し少し外へ出る。

 虫の声、蛙の声、そして月の声?

 静かではあるが無音ではない。夜風を浴び、車に戻る。

「それにしても予想以上に暗いな。人工の照明がないとこれほどか」

「いい夜じゃないですか」

「それはそうだが……たとえば、今から歩いて家に帰ろう、って気分にはならないよな。こうも暗いと」

「もし夜が明けなかったら、なんて考えると少し怖いですね」

「はは。それ面白いな」


 そして、その夜は明けなかった。


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