水墨の白百合
よいの過ぎて、願わくば、色情の花に溺れたく、結い髪解き、戯れを、いと愛しきを諸国万感の憂いとす。銀嶺山の袖たもと、はる早すぎて媚と為す、ちぎり袖につづらんは、逝く川もとの虫の息、指からめるに芳情し、紅顔あられの恥と流れて、ほたる恋しや月詠みの、風立ち狂い容貌深し。死しなお瓦あばら家とどみ、深草え描き水墨の、業平在りやと墓地廻る、ことわざ返し閉じるのに、流水逝く手の垢ちりを、夜帰りびとの星あくた、よのなかなかの沈みに乞いて、おんな泣かせの詠み人しらず、十四ゆびおり明いたのも、散り花よしの契りとて、かえる波にぞ、文声を託さむ。夢。夢であった。
このごろ、毎夜見る夢の話で、数えてみると何何夜夜、おかしな話だが昼間見るうたかたにも情然としてその心、やまず、胸のあせ舐み、春にこそ逝けと言われたような気もする。午後五時のまくら、灰皿にはガムのこびり付き、昨日の客は今どき、緑茶味の、いやゆうまいが、待ち合わせまでに五分、今こうして部屋の片隅で書生の役割をこなし、湯汲みの世話を買い陰で野次るのも、この毎夜の夢に、眠りを邪魔されるのを酷く、忌むのに、客人のこころもとの酒材を待ち侘び、二日酔いの舌の呂律を筆に遊ばせている。
大正生まれの祖父の遺言は、「感謝と謂うものを常日頃の口癖に雇わせ、いつかその心と謂うものを得るので在れ」、である。だので間借りするのにも、ご近所のタバコ屋のオバちゃんの親切にも、田舎からの文であれ、頭を垂れ、くわえ楊枝の先で空を切り、ぽぽんと腹を擦るのだ。
客さんはビールを六本ほど、此方は洗い立ての灰皿卓に胡瓜の漬け物、
「粗末ですが、何かの足しにはなるかと想いまして。昨夜には雨音の五月蠅く眠れませんで、女性の方に興味のある、なかなか乙なテレビ番組を部屋に濁しておりました。」
客さんは座布団に腰掛けながら
「奇遇ですね、その番組のくだらなさを雨音のせいにしておりましたのよ、乾杯は早めに、頭痛にはこの泡立ちのほうがよう効くんらしいですのよ。」
この女史は芸術大学の同志で写真の学びを嗜み、運動としては或る学閥の火炎瓶の回収、リサイクル活動を推進、山手線の雑ランや地下ライブの空騒ぎを印画紙に落とし込めると言った様なもんだ。来月には作壇をJR新宿駅の東側のビルにて展覧、その作品に付けるタイトルやらキャプションやら、文章一般の責任をこの三文小説家の小生に押し付けようなんて申し出にあり。一週間前からこの下宿に通い詰め、小生の云を待ち望んでいる。酒の一杯にご機嫌を窺われ、すぐに、即座に、とは求められてはいないが、今日に至ってはこれまでの通いを思い出させるような話ばかりをするので、自分の本文もあると申し出、〆切にはもう追いかけられていなかったが、他に急がねばならぬ用事でもあるように唐突に口をまごつかせた。
「『夢』、とは如何でしょう、夢を見ない人なぞ居りましょうか。」
「どうとでも受け取れる玉虫色の言葉ですね、貴方はいつもそう、此方の慕いや頼りを、いつもの如く肩透かすのですね。」
胡瓜を摘まんで奥の歯で噛み切り、言葉を十分に喉に詰まらせてから
「いえ、今晩は昨夜の世迷いも含め、一緒に夢なぞを、と思った次第です。」
女史は戸惑いを隠し身を正し、
「構いませんが、この三年の月日の廉作を形の在る物とさせて頂ける、連日の伺いも懇意の果てとさせる、と言うことでしょうか。」
飲み込んだ後で
「その様にお考えになれば、小生の、この度の告白の由も、きっと脳裏にピンと来てらっしゃられよう、惚れた方が弱いのも、相の思の相の愛も、芸術の糧となったれば、昔こんな歌人がいたものですと、今の事のように酒の肴の、写真一枚に収まる、身売りの良い話になりましょう。」
女史さんはテーブル上の缶に目を逸らしながら
「ええ、接吻というものをご存知でしょうか。」
貰い煙草を揉み消して目を泳がせ
「勿論、酒臭くはありますが、その為の歯磨きなぞも欠かしたことはありゃあせんです。」
「その先の絡み合いの果てを思したことは御座いますか。」
「ええ、貴女あっての枕にござります。」
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「アテには塩っぱいですわね、キュウリ」
「噛み砕いては飲み込んで、胃の中の水分、喉が渇くに春早く、次の一本と、酒造会社の
画策ですかな」
「ふむふむ」
「・・・冗談ですよ」
「キュウリには罪がないとでも?」
「海の水を飲んだことは御座いますか?」
「行きはすれ、味を、と、茹だる夏の海に恋慕の栞は挟みませんの。ご教育ですよ」
「じゃあ、今度お連れしやしょう。酔っぱらいは砂に塗れた足でラブ・レターを書くので
す」
「波打ち際じゃ切りなしですね」
「何度でも書くざんしょ」
「書けば書くだけ日が暮れて、飽くれば夜献の迷い枕、貴方の地図に方位磁針の意味なき
こと、覚えていますわ」
「・・・それは面白くない冗談ですね。胃が痛いのは祖父譲りです。形だけの真似事です
が、祖父は酒なら何でも呑めると豪語して、祖母のヘソクリを彼方此方の酒場で見せびらかしたそうです。」
「ふむふむ」
頭痛の止むのには五分と掛からず、石つぶて、玄関の突っ掛けには下町ならではの悪戯が施してあるのに、この下宿の下賎さを再認識し、稼げない散文家の崇高なる思想学をこの地に落ち着かせ、染み込ませるのに意味がある、別の起因の頭痛、尻切れトンボの空想学を、水素の危険性からヘリウム、いやそれでも危険だが、自己同一性障害、日常の糧に米や麦を主の食とする、民族の卑しさ謙虚さ、厳かさを「日常の惰性」と、其処からの脱却心を身に摘ませる必要があった。
はるか遠く虚空を眺めながら、そしてそれら農耕民族の雨ニモ負ケズの殊勝、不便と便利、抑制された自由と際限ない自堕落の中、目の前の女史の屹立とした克己心を確認する必要に迫られた。作家何たら、地に足付けちゃあ名折れもいいとこ、先ほどの頭痛を思い返し眉を二、三掻き、温くなったビール、もどかしく座り直して、
「こちら手前には酒を買う金なぞありやせまぬぞ。」
女史は襟を正し三つ指ついて
「女御を買うのに働かない間男の生活の卑猥さなぞなければ何ぞでも構いませぬの。」
頭を掻き毟り、
「桃色電気の目に痛むのに貴女の影が起因とも、そう申すのに恥ずかしげや在りやせぬが、それ以上の眩しさをと言うのに多少の気照らいを感じ申す。」
女史は灰皿に両手を沿えて右に寄せて、
「接吻は如何なさいましょう。」
「それは九時に取って置きましょう、枕のかわきはまだ早いと申し出、昨夜のことはりの、
貴女ゆえの恥じろぎを、胸摘ませて献の回数を増やし増やさざる、身じろぎにも感じられましょうが。」
女史はシャツのボタンを一つ外し、手で胸元を扇ぎ、
「さして想いは在りましょうか。」
小生は手探りで積み上げてある本の山から一冊取り出し埃を払い、
「在りますとも、古今、エインシュタイネの相対性理論なぞ読んでおりまして、時間感覚
には殊に鋭敏に、この機その機あの機の由来を探し求めている次第です。」
「無化学エネルギーや0エネルギーにはどういうお考えをお持ちでしょう。」
本を投げて大仰に背中を無理に掻こうとして下手な欠伸、
「貴女、小生には愚問の際で、ムズガユかしさから裏で尻を掻くようなもんでしょう、若
さ故の至り至らなさを貴女に押し付けようのもんです。」
卓袱台が邪魔で寄せて、座り位置の距離から、どう考えてもエチルが足りないが、買って来させるのもどうか、女史がぴちゃぴちゃ缶を振ったので、コンビニ袋をぶら下げ、ポケットの御釣りの小銭をチャラチャラ鳴らす自分を想像してから、部屋を買い出た。意外に悪くはない、駄賃にも嫌味はなかった。夜道に濡れ行く中、そう言えば今日はBSテレビでF1の放送があるな、足裏とサンダルに挟まった小砂利の痛いが、脚が急くのに、まだ女史の言葉が足りないな、と気持ちが逸るのを打ち消した。
コンコンとノックすると女史が、いや、その意味も分からないが、ケータイ電話で話をするのに小声になるのを、今日にしては珍しいなと思った。古風な女が好きだ。子どもの頃から変わらず、家事の忙しなさを貞淑にこなす女性に、敬愛の念を自ずと伺う。部屋のゴミは片付けられ、窓が開かれて清々しい夜気が鼻に懐かしく、ちゃぶ台は買ったばかりの清潔さを盤面の反射光に漂わせていた。これは、好意の、それとも性分手物なのだろうか。思わせ振りな態度、アイコンタクト、昨今の若者たちの間では、それこそ流行語大賞の冠に輪を利かせ、慰労会で足や手が思わず触れてしまうのに、相手と懇意との錯覚を思す輩も少なくない。
女史が「じゃあ、またあとで」、そそくさ電話を切ったので、身を正して咳払いを一つ挟み、
「今日の諺で、米泥棒味知らず、というのが御座いまして、その胸中を窺うのに、いささ
か失敬かとは思いましたが大福饅頭を買ってきました、貴女のお金です。」
「アラ、あら、私の緑茶好きをよくお判りですのね。」
「いえ、ただ、ソウ、何となく気が向いただけの話ですから。」
ト惚けるのにも上手い下手があった。女史さんは
「トっ散らかってるのは原稿の上だけにしといてくださいな。昨日までのふしだらさは後
の片もないでございます。」
「はあ、申し訳も秋茄子もござんせん。お不躾なお教育のせえでござんす。」
饅頭の甘さに甘えた。
隣の家のテレビの音が聞こえる。野球中継で一喜一憂、旦那の歓声やら罵声やらが、女史さんは戸を閉めて、気付かれぬよう口紅を舐めた。振り返り、
「さして接吻は何時なさいますの、もう頃合かと思いますが。」
「では、今すぐにでも、不慣れなもので、鼻の骨のぶつかるのを気にはしております
が。」
「ようござんしょ、ぶちからないように上手くさして差し上げます。」
女史が首をもたげたので、くいっと、茶饅頭の苦甘が、言わずと知れた、接吻の繰り返し回数を、日ごろ年月の数えを怠るように、何もかも忘れさせた。女史は、
「お慕いはお慕いなのよ。」
「朝までは寝ますまい、まろびの果てに崖の淵の立ちはだかんとも。」
夢はしっぽりと通り過ぎた。そしてうつつの朝に怯えた。
四季なる言葉のあや故に、諸行無常の言葉なし、巡りて繋ぐ朝なれど、変わらぬ夢果て夏媚びる。待てども来ない蛍やら、いつしか帰らぬ雪化粧、さくら杯こいごころ、吹く風落ち葉ともう過ぎた。神出で鬼死ぬ恋まごい、今日の明日も手に取らず、月明かずして陽に閉じる、歌合せには三文銭、茶の立つ午後に縁側の、こおろぎ跳ねるを手に取らず、夕暮れ間近に目が覚めて、震えたままに瞼の乾く。そして目覚めた。
一番鶏より早く啼く鳥が居た。かんかんストーブがもう季節の忘れ物となった。草春はまた来るが、鎮座のわきまえるべきを知ってか知らずか、横になりながら煙草を吸い始めた。その煙のスジにその一刹那が縦横に引き伸ばされてるよう気がして、陽光のウザったくて、逝去しろ、こちとらもう過ぎとる、浅黄色の、毛布から陰が立体を為し得なかったなら。前髪が揺れるのを摘まんで直しながら、
「今日のご予定をお尋ねするのにもし、差し障りがないようでしたら、どうゆう御案件の
ほどか、耳に入れとう存じます。」
女史は毛布の中の口から
「貴方在っての土曜日となり、そちらの意味で興味を持たれるのでしたら、御不安には応
えない、と申します。」
昨夜の星の数を思い出して
「よくお覚えで御ありようでございましたら、書学の侯、星に地を暗くするのに墨汁の要
らぬのに、態々お金を払ってプラネタリウムを見上げましたね。」
「そのようなことがございました。一等星の温度、に関しまして貴方は、こころもとける
熱帯夜とか、今もご多忙で御座いましょう。」
「いえ、貴女にその意味を履き違えていたこと、昨晩にはここ、念入りな求愛是愛の贅を
託し賜った所存に御座います。」
枕のしわに頭髪と香水の匂いが入り混じり、毛布の中は混雑していて、どれが誰のそうで何なのか、女史は毛布の隙間から薄く散れた昭和の埃窓や、一まい葉の名残りを鼻にだけぎゅうと嗅ぐわせていた。十二時のサイレン、寝返りのきわ、腕が首にまとわりついたので、いや、しばし待たれよ、つっかけの先立ちに世界の終わりを、筆先を舐めて、俳諧の散流を来るべくして来る次世代に残そうと、韻文小説の沙汰を自分の膝の上に振りかざした。塀の上を近所の猫が通り振り返り、素知らぬ顔で続いて行った。退屈と透過光の裏寒さを肌に考え、女史の欠伸が全てを包み込んだ。真実に言葉が全て盗まれる、そんな昼下がり、
「あーそーぼー。」
近所の子ども達が水あめ片手に戸を叩いたが、
「いーないよー。」
つれなくした。
口紅で汚れた毛布にハンカチーフを当てがい拭きながら
「ようござんすの?」
女史さんのタバコを一本貰い、
「土曜日には紙芝居や活動写真、TVゲームやインターネットゲームなぞも御座いますか
ら。」
女史さんはコンパクトミラーを覗き込んで耳飾りを着けながら
「不憫ですのね、旅回りに航空機なぞ、旅情も何もあったもんじゃない、話に聞く分には
貴方のお故郷ほど山河海雲の彩色の施された町並みは他に類も浮かびませんの。」
「いいところですよ、今度お連れしましょう、キヲスクに美味い蕎麦があるんです。」
小雀のチュンチュン、犬の欠伸がアウン、こちとら昨夜の湯ぼったりを解けず裸で居るのに、冷えるのに、昼下がりの散歩に出ようと、部屋を伽藍じた。羽織った半纏の糸くず、この、裏路地の砂利道、そのように言えば地元の人は皆分かる、散らかった小汚い畝と畝の間を、小石を蹴飛ばし行き進んだ。突に意もせずうしろから、
「おにいやん、その人たれぞ。」
見つかってしまったが、隠れ道でもないので、
「うんにゃ、恋人だ。」
「あたしのことさほっといて、違う女とおうたんかい。」
「そうや。」
少女は卑しき者への蔑視の感克ち、立ち尽くしてふるふる震えた後、にいやんにだまされたー、と、おはじきをあられぶつけ小道を駆け抜けて行った。
女史さんは急に不機嫌になり、花を摘んでは投げ捨て、ぐるりと輪廻因果の手振りを交えて、
「お判り?罪というものには罰ですのよ。卵と鶏ですのよ。うってつけで御座いましょう
よ。罰の由縁には罪がございます。貴方のしておいでのことに貴方はお覚えのほどござ
いますでしょう。明日、いや、今からでも断罪の花を胸に御抱きになればどうすれば良
いかなんて得手の得手のモンでしょう。存じ上げておりますのよ。評判の向き不向きは
神戸の風見鶏の当てずっぽうよりは近しく、向けば下には足なんて立ってなんかいやし
ないのです。」
女史さんの言葉のつぶてがぺたんぺたん痛かったので、もちっとの接吻で黙させようと、
「貴女だけでございます」、と、
遠く泣き声のすみっこで襟をぐいっと引っ張った。
「やあよ」、振りほどかれた。
女が女であるのに、おんなである道理しかない。罪と言うものが愛であるならば、罰と言うのは他者への言われなき敵対と心付ける。ただ想像力を与え奪い、その繰り返しの中で、見せかけの条理の鬱積や、不条理の正当化に背中引き摺られ、接吻の別の、本当の意味や、愛、亡き者にそれこそ暇を出すのに袖の下の小銭をチャラチャラと、何処かでサンダルを浮き足立てた。
女史さんが簡潔におっしゃられるには、近所の女の子がたった今、初失恋をしたということだった。その罪や、女史の接吻の拒絶、不機嫌に適う男や文句は今此処にはありやしないとのことだった。しかし其処には致し方の無さも感じるし自分は何も言えないとの事だった。
「市井の貧乏にも程があるもんで、こちらの通りには飲食店は、その匂いもさらさらあり
ゃあせんのです。」
「人の色の無い美しさを教鞭差し上げるなら、貴方のせりふは願ったりのエピローグであ
りますのよ。人に知られず朽ちてゆく、移りゆく鉱物や木々には必ず我慢強さと共に無
言の自粛が御座いますのよ。手持ち無沙汰にはちゃんと所作が御座いますの。風雨の脆
弱さは秋にこそしたたかさを持ちますのよ。」
前者と後者の間に中者というものが存在し、先人の足音に朝に目覚めて、後達の、謂わば今現在の夕暮れに逐次置いてきぼりにされる。女史さんのモノクロ写真には温故の志以外に、さっきの彼女のやうに、子を産む女を蔑ろにするその時「現代人」の男傑を揶揄するのに最も効果的な作法の一つとも見られる。今まで貴方が私に何をしてくれた、とまでは言わないが、時流に駐留するのに抗えない両方との決別を、寧ろこの時までは甘んじているのだな、苦い茶には甘い饅頭だな、程度にしか思わなかった。男もおんなもいつかは淘汰されよう、女史さんは、
「ハイヒールは歩きづらいんですのよね。」
その意味もその時その立場に為ってみなきゃ分からない事であった。
モノクロームにはこれから先、いつの時代でも古めかしさ、そこに写る現代、永劫に彼女が未来へタイムスリップすることはないだろう、夢、消えていくのに、寄り添うのが半分虚しかったし、もう半分を口にするのは恋を語るのに更に空々しいことだった。後にも先にも引かない女の豪胆さが見え隠れするのに、男は口をすぼめて、胸を苦しめながら、見かけだけはピーピー口笛を吹くのだ。
一回りして帰り、縁側で落ち着いたら吹かしタバコにまどろんだ。すずがらしの昼過ぎに考え事をするのにもいつもの所作があった。黒すみと白煙の先には淡く一筋に消えるヒコーキ雲が、指差すと女史はチラリと眺めて、「かなんなー」とぼやいた。
今朝は新聞配達がこぞって戸口を伺っていった。
『かさぶらんかの沈黙』、
煙草に火を着けてからタイトルに三十秒、女史は頭を傾げ、
「饒舌な花を見てみたい一心で誘惑なぞしておりませんのよ。」
ずずっとお茶を啜り、筆先を止め、
「こころあらば、人心を惑わす担い手を、筆文の得作と言っては女神のやうに扱い、小邪
鬼の棲むてと、その暗問の遠さにやらば、手をこまねいて居るのです。」
唐突に台所からヤカンの沸騰の合図、けたたましく、少し不快になった。茶に合う詩歌は、手元には見当たらず、烏賊煎餅が食いたくて、がま口小じゃりの小声散らし、近所のかあ坊に買って来させんとしたが、女ったらしのたらしたらしー、昨日の昼間にどうやら噂のタネになり、女史さんが、
「良いじゃございませんの、行って来ますわ、お酒もお入用でしょう。」
ハイヒールに爪先を埋ずめた。隣の家の文鳥がキキーッと、らしからぬ歯牙を尖らせ、ハクブンチョウ、門の向かいの隣の向かい、小町うらやみ空の生み子の、つばさ抑して地の帰り、待つべく唇赤く染め、ねいてねいて、モノクロ絵画の皮肉にも、写し取られは下町色花、
「ジェジェがあんなら買ってくるべえ」
「かあ坊遅いぞ女史さん行った」
「甲斐性なしの優男、惚れたのはにいやんの文資にぞ、夢が食えんなら泥だって食え
ろ。」
まちぼうけ、飽く前には踵の音が聞こえてきたが、煙草の一本盗んだのがばれやしないか、縁側の下に隠した缶ビール一本の、ゴミの始末に時間が憚られないか、ペン先に便りを尽くし、写真の一枚を手に取り、鼻歌でぴーぴーするところから上演を始めた。女史さんは、
「今日にしては珍しく勤勉でございますのね。慕いの故に案じるところ、昼寝でもしてい
るのかと思しておりましたのに。」
浅はかな夢から覚めたように
「見掛け倒しにはそれらしさも必要なんす。」
女史はビニール袋の中身を卓袱台に広げて、
「こちらには自動販売機や乾物屋なんてものが忽の然ともないのですね、駅前のコンビニ
まで散歩には丁度良い距離ではございますが。」
写真のキャプションの連番を確認しながら
「下町の情緒に目新しさ、なんてものを付け加えるなら、待っていた訳では御座いません
が、丁度手に取ったこの写真、ポルノの看板が煌びやかで、貴女の淑貞には似合わず、
また、他の組写真に於いても如何せんピタリとはハマらない様な気がありまして、でも
仕方のないことなのでしょう。」
女史は表情がほころんで上気して、まるで偶然に異国で日本人にでも出会ったかのように、子供よろしく葉洒いで、
「お気づき、たまには違う食べ物や飲み物、隣の文鳥にしたって何時までも大人しくして
るなんて、貴方にも易にはならず、声色が変わるぐらい何とでも時流なんてものに塗り
替えられますのよ。」
阿っ気ら缶と云うが、その言葉に小生はビクッとした表情で、
「さあ、如何がなモンでしょう」
女史さんは平然と茶を啜る。
たじろぎながら、
「如何なタイトルを所望。」
「お任せになる理由は貴方だからですよ、書生の見返りのないふしだらさが、気にも入り
まして。」
「釈然としないのは恋心の、いや、讃歌万来の古今、赤柱の色配に悶え、ゆうなれば、町、
堪えられぬ四季紙の移ろいすべく、酔いの限りを貴女に確認したいと。」
「ようですよ、今日も此方に宿泊の準備をしては居りますが、一枚一枚お脱がしになるの
も写真にキャプションを付けるのも、そちらの勝手に致して下さい。」
文鳥のキキーッがまた聞こえた。
さゆら縁者の箸割りて、蕎麦に今宵の酔いつる流し、出前のバイクの間の悪さ、一人、気を揉んでいたところ、女史の、すべからく貴方を甘んじます、の言葉に怖ろしさを興じ、「ああ、女って怖いものなんですね、けむりの遊びを飲むのに、いささかの逃げ道も用意はしてくれないのですね。」
未だ春だというのに
「必要と在らば雪ウサギにもなりますわよ。」
後朝、沸かし立ての珈琲は床に跳ね、ぴちゃりと、昨日のまろびの先を注意深く、深揚と思い起こさせた。女史の胸元のほくろがチラリと、接吻の場所さえ厳重に誘導保護されている。気もそぞろ、春には春らしきお洒落を、桜節の物乞いは幾らかは腹の音の静まる、古惚けたアルバムにはその頃の写真が、夢、続きが浪々と猫の死出、逝き場を探し求めた。咳に口を押さえ、いったい何本煙草を吸ったら人生が終わるんだろう、そして夢を見なくなるんだろう、なんて。
いく春のさき想い立ち、鈴の音ころがり枕もと、今生すべしは亡き花を、筆文うつし、まくらがえし。待てども来ない夜啼鳥、ささ振りかえりは一条の、星屑つまみて息吹かん、曲がり角なる十六の、つき沈みては慰まむ。波のかえりは待ち惚け、西にゃあ色の懐かしみ、天道さしたる午の刻、こころぞあらば目を細め、念じおぼろの眩しきに、おんな見違え惚れんとす。花はな並ぶ道分かれ、日傘にゃもってのこいならば、お指をにぎり夜までは、口に当ててはをとこ黙さん。
――そして永遠に――
対なる名のゆえ探しては、草貌深しくずれ家の、わだちを来たりて行く末に、わらじちぎれを頬赤ね、つがい寄らんは古今の然り。然り然らば野菊の咲きて、鼻緒結おうがおぶそうが、うつろ夢の続きにも、遠者訪ねの旅もうで、かえるにかえれぬ支度にも、枯ら草すずなり百歌乞い、おもいはかりふかしては、迷雲たちこむ白々し、涙変わらずすらすらと、川しも行燈迎えては、今日の日和の尋ね人、いうこと無きぞと、筆折らん。折れて泣く者あろうなら、うらみかけよは森のおく、名を尋ねればこたえよう、風前小僧の語らいて、名にし負わば問い交わそう、ごんべ名なしの草分けて、知らず知るもの耳借りん。聞こえて悲しき折れ草の、夜さ雨、晴れ小雨、胸苦し。山こえ川ゆき風雪みちて、春かり、夏すみ、秋やぶれ、冬にたちては言の葉終わらず。了いなければ諸行の歌も、一つながりの覚えとて、無常の空を手で仰ぐ、握り摑んだ幸い逃げて、さかづき倒れや夢朽つる。朽ちて流れて酔いまかせ、妹あいまほし四季めぐる。石草の陰に佇むは、ささやき謳はす泣きをとこ、風歌、さきゆき、哀空菩提、ここ、今、つらなき、そでなくは、あらわれ出でし、色生牢徳、いざ、在原や業平と申す。
―――だれの名だ―――
女史さんは後日、書簡を送ってきた。コニカカラーの写真に舶来の栞、
―――前略
夏が蔓延っていますね。ココナツジュウスが喉に清々しいです。
季節の移ろいに焦る気持ちばかりの好意に障子に悶えましたのは、春の来ないのを、自分のせいにする悪い自分が居ったものです。
小さな舌打ちや、貴方の行く末の見えないのに、些かがっかりし、自分を鏡で見たような気持ち、今は大切な思い出の一つとも為っています。
しかし、しからば、一時とは言え、愛が在りござんした。
これより後はカサブランカの白新の体裁を伴い、ゆっくり世界周りでもして来ようと想います。次号は付け焼刃の習い事から茶の立て方を教示差し上げます。
写真展、有り難う御座いました。
草々―――
写真は、初め何の絵なのか判らず、引っ繰り返して見たりもしたが、水平線、ってやつが空と海と交わることなく延として伸びて行くだけの写真だった。真ん中に白く光る一線が入っているだけで、雲もないから何を言っているのかも釈然としなかった。分かつたのは、きっと残念な結末が終従続していく、小生と女史さんのケムリ遊びの肌寒さだった。
幾日ばかりか経って幾通ばかりか便りが届いた。
ラムネの瓶があっけらかんとして転がり、軒下の風鈴の鳴る頃には、縁側にハイビスカス、香りに気を取られ、胸苦しく、そして夜には去る、堪えられず晩夏、女史の文を思い返し、夜中にスーツケースに荷物を手当たり次第パンパンに詰め込んで、海の隔たりを感じながら、絵葉書の行く先を追うことに至った。近所の子ども達は小生の背広姿に驚いたようで、着こなしの悪さから、トンビ、と仇名を付けられ笑いを誘っていた。
「にいやん、葬式か、死ににいくんか」
「いかへん。散歩や」
「出世したんの?」
「しとらへん。じいさんの形見や」
一ヶ月前に届いた絵葉書のフロリダの青空が今実際に眩しかった。だから目を閉じた。日付変更線を越えて、女史には悪いが、椰子の木の風音、ビキニのはしゃぐ声、大層居心地の良い、波打ち際、薄目を開けるとマルガリータ、突にPenが動くことを止めなかった。真似をして同じように遠くひこうき雲に、「かなんやん」と呟いた。そしてそれを明文公然の冗句とした。
次の目的地を電話でかあ坊に確認して、原稿をクシャクシャに丸め、Penと共にスーツケースに詰め込んだ。砂浜の足跡はもう誰の物か分からない。流木の欠片で書いた落書きも三秒後には波に消ささらされた。明日はベニス、故国の編集長に叱られながら風景を拾い集めていくのだ。世界中に散らばった「何か」、痛々しい記憶や、あどけなさの残るオフィス街、大空や波の前に卑屈になったり、隣人の優しさにハーモニカで応える。陽気な音楽、戦争の爪跡、アンアナログの近未来型通信機は彼女の行方を明確には教えない。ヤマを掛けて空港に電話する。
「ああ、そのような日本人女性なら昨日の飛行機で、、、業務上、密裏にお教えしますが、
写真機を持っていたのはお連れの男性でした。つまりはお一人ではありませんでした。
記憶がオボソカで申し訳ありません。許可下さい。」
アレキサンダー・グラハム・ベルよ、発明の過程で耳遠さを暗算に入れなかったのか、エリシャ・グレイ、次の発明の次の発明は?、トマス・エジソン、人類への貢献を先立ったのは君の母親の方だ。
物事には万事、謂れなきしもべが必要となる。起きたばかりの食欲や、呑み過ぎ注意の眠気、川向こうの景色の中ゆだる川下ホタル探し。自分が得てして付き従う、欲望の果てに従順な自分を宛て先の記入をごねる明日へ、従者を越える属民を懐の奥に従える。筆先ちょいと一舐めし、「明けましておめでとう御座います」、切手要らずの利便に不要な世間体を浪費していくのだ。ピピピと機械音で終わる発明は生態退化していく現代生活に於いて画期的な維新背景を叶えた。
わが祖父は戦争に二度行った。
そして元々の身体の弱さもあったが、酒の呑み過ぎで死んだ。
だからメチルはやめとけって云ったのに、目をぱちぱちさせて空中を走る自動車の話をしながら呼吸が浅くなってほどなく深くなった。眠るように宇宙ステーションの旋回、街頭テレビ、ヤマトや双葉山の無敗記録や昔のお小遣いは三銭、大仰に管巻きの身体を震わせてヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ、アポロ計画、夢にまた夢を見た。
半ボケの祖母は午後のテレビのクイズ番組耳に、戦時中に就学したシェイクスピアの「リア王」の四姉妹の名を全部並べた。だから、そんな記憶力の良い祖母だから、私は聞いた。祖父の好きだった酒の銘柄や小生が子供の頃よく自転車の荷台に乗せられて電車を見に駅に連れて行かれたこと、縁側の将棋の指南や早朝の枕元のお茶、憧れて真似して薄っ葉の出涸らしを啜り、いい子、いい子だから、日曜日の二度寝の朝は時間が引っ張られて長い朝食を退屈に想い、付けっ放しのテレビは一時間に三回は同じ事を言った。
「貴方の祖父さんはな、貴方が産まれる前もう死んでいたんよ」
そしてそれは誰に聞いても同じだった。小学校の先生にも聞いてみた。
「罪の次に罰が来る。もし罰の後に罪が来た場合、しんだひとたちは耳の遠いフリをする
のでしょうか、それともコミュニケーションの電算が伝言ゲームのように、まさか、自
分のした事を文散の道標をあっちこっちひっぱり出して、疑り深い子どもってやつの空
っぽの想像力や早くから始まるモラトリアムへの非難を、先生のお名前、この時間だけ
でもお借りできませんでせうか。」
その少年は少年らしくあることで負の遺産を誰かのノスタルジーの奥底に酩酊させた。他でもない、メチルだ。
女史さんが以前おっしゃられていた
「罪には罰なのですのよ。卵と鶏なのですのよ」
君は何処にいる。何処かにいるとすればどこにいた。そして何処へ。モノクロームには温もりとしたたかさがある。風景写真に依れば君の居場所なんて、ほら、隣の文鳥を見てごらん。そう申し上げたのも今や自分の言葉かどうかも知れやしない。
フロリダを発とう。とろぴかるジュースは汗でシャツをビチョビチョにするだけだ。女史さんの足跡はベネチアへ飛んだ。遠い遠い水の都、気温は程好い、アバンチュールのローマで女史さんの連れがどんな奴か気になった。パスポートが急かすので、十年も科かりゃしないがいつか一枚の写真を撮ろう。みんなの入った写真。女史さんの好きだった写真は景観写真。人にしろ建物にしろ自然物にしろ、一つとして彼女のポケットに入らない物は無かった。そのポケットの中に自分が入れなかったことを今はすごく後悔している。
『かさぶらんかの沈黙』
写真仲間には不評だったが、文壇にはウケた。
女史さんは懲りたらしく、なるべく色の持つ作壇を築こうとして、あれほど嫌がったボーイングに拠り所を求めた。
小生は後を追い原稿料を前借りしながらいつかは地球を一周する。一枚のフレームは窮屈だったのか、四畳半の想像力が仇となったのか、水平線がぐるりと問答を後頭部に帰らせた。裏路地の砂利道が懐かしかったが、明日にはその逆の方へ、タバコ屋のおばちゃんの通夜には行けそうもない。祖父の遺言に正しく順ずれば、初盆にはマカデミアチョコレートを山ほど供えようと想う。
その日その時、何処かで女史さんの憂鬱を拾い受け止めながら、もう見なくなった夢を、もう忘れて消えちまった夢を、そそらかに涙に写そうとするのだ。空港でかあ坊によく似た子どものペテンに掛かった。追い駆けたがサンダルが言うことを聞かなかった。追いつく事無く、脱げてこけてしまった。小銭が散らばったが、それにはもう興味がなかった。電子マネーがある。
あの文鳥は今やもう篭の中にはいやしまい。自由に、縦横に、その翼を無尽に大空にはためかせるのに、いつも雲はそよぎ、雨翠の上を行って、この物乞いの足取りを軽やかに優越に見下すのだ。
一本の鉛筆と一枚のザラ紙が在れば、『貴女方の自由』と書こう。
その晩、旅客機の窓から月の見え方の違いに、遠く、女史の心境の変化、英断を快く想った。儚くも美しい、その場限りの恋だった。もし小生に潔さが在ったなら、自分もこのまま空の平淡に還りたかった。時差惚けの重なりを瞼に留め、今生の契りだけを深々と遥か地上の茂みに帰らせた。黄色い丸がくすくす笑って、女史さんがくすぐっているのだな、と、脳天の片隅で、それもいずれ昏々と息絶えた。白い柔らかな野原には黒い墨汁の雨が已むことを迎えなかった。それも夢の一つかも知れなかった。東ひんかしへ、流浪人の袖は潤いも乾きもその場には留めなかった。風する想いに、呼吸をゆっくり楽にした。尋ねられても何処に居る訳でもなく、目的地なんて何処でも良かった。
思ふこと いはでぞただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ
かの歌人のゆう、無、は、今にし心ぞ在りなむ。
終




