第9話「冬の準備」
風が冷たくなった。
朝晩の気温が目に見えて下がり、草原の草が茶色く枯れ始めている。空は高く澄んでいるが、時折灰色の雲が北から流れてくるようになった。
晩秋だ。冬が近い。
集落の中で、移動の準備が始まっていた。
毎年のことだ。秋の終わりに北の丘を離れ、南の低地へ向かう。低地のほうが暖かく、冬の間も獲物が残りやすい。
二十三人が背負える荷物だけを持って歩く。持てないものは置いていく。春に戻った時、残っていれば拾う。残っていなければ、それまでだ。
ソウは自分の荷物を前にして、考え込んでいた。
皮袋三つ分の、アムの種。
これを持って移動しなければならない。
だが問題がある。移動は長い。三日から四日、歩き続ける。ソウの体力では、荷物を最小限にしないと歩き通せない。自分の寝具と食料と水を背負うだけで精一杯だ。
種を追加で持つ余裕があるのか。
皮袋三つ分——重さにすれば、子供の頭ほどの石を三つ持つのと同じだ。たいした重さではない。だが、体力のないソウにとっては無視できない負担だった。
「ソウ、荷造り終わったか?」
テツが声をかけてきた。
「いや……まだだ」
「何を悩んでるんだ?」
ソウは皮袋を見せた。
「これを持っていきたいんだが——俺の体力だと、荷物が増えるとまずい」
テツは皮袋を手に取って、重さを確かめた。
「軽いじゃん。これくらいなら——」
「俺にとっては軽くない」
テツは少し考えて、それから笑った。
「じゃあ、種を持って移動すればいいんじゃない?」
「……それは、そうだが」
「いや、違う違う。持ち方の話。三つの袋を一つにまとめて、背中の荷物に括りつければいいだろ。別に持つから重いんだよ。くっつけちゃえば一個の荷物だ」
ソウは目を瞬いた。
単純な解決策だった。だが、正しい。
三つの皮袋の中身を一つにまとめ、大きな皮袋に詰め直す。それを背負い籠の底に入れれば、重心が安定する。分散して持つより楽だ。
「テツ」
「ん?」
「たまにお前は、的確なことを言うな」
「たまにって何だよ。いつも的確だろ」
テツが不満そうに言ったが、もう次の話題に移っていた。
「それよりさ、その種って、移動中に痛んだりしないのか?」
ソウの手が止まった。
——そうだ。
移動中は雨に降られるかもしれない。湿気を吸えば、種が腐る可能性がある。発芽してしまうかもしれない。どちらにしても、春に蒔けなくなる。
「乾燥させておく必要がある」
「乾燥?」
「種を十分に乾かしておけば、水分が少ない状態になる。そうすれば簡単には腐らないし、芽も出ない」
前世の知識だ。種子は含水率が一定以下になると休眠状態に入る。温度が低く乾燥していれば、長期間保存できる。
だが、この世界には温度計も湿度計もない。
——バアに聞こう。
薬草の乾燥法なら、バアが知っているはずだ。
*
「薬草を乾かす方法かい」
バアは焚き火の傍で、薬草の束を紐で縛りながら言った。
「そうだ。種を乾かして保存したい」
「簡単じゃよ。風通しの良い場所に、日が当たらないように吊るす。それだけじゃ」
「日に当てないのか?」
「日に当てると、表面だけ乾いて中が湿ったままになるんじゃよ。風で乾かすのが一番じゃ。わしは薬草をそうしておる。何日かかけて、ゆっくりとな」
ソウは頷いた。
理にかなっている。直射日光は表面温度を急激に上げるが、内部まで均一に乾燥させるには緩やかな通風のほうが良い。前世の食品加工の知識と一致する。
「移動まで何日ある」
「三日じゃろうな。ガランが言っておったぞ」
三日。風通しの良い場所に吊るして三日——完全には乾かないかもしれない。だが、ある程度は乾くはずだ。
「バア、もう一つ聞きたい。乾いたかどうか、どうやって判断する?」
「噛むんじゃよ」
「噛む?」
「薬草でも種でも同じじゃ。しっかり乾いたものは、歯で噛むとパキッと割れる。湿っておると、ぐにゃりと潰れる。それだけの違いじゃよ」
簡潔な判別法だった。含水率の数値なんて必要ない。噛んで割れるかどうか——それで十分だ。
「ありがたい」
「お前はいつも礼を言うのう。誰に似たんじゃか」
バアは笑いながら、薬草の束を吊るす作業に戻った。
*
その日のうちに、ソウは種の乾燥を始めた。
皮袋から種を出し、薄い石の板の上に広げる。それを焚き火から少し離れた、風通しの良い岩陰に置いた。直射日光は当たらないが、空気は通る場所だ。
三日後には移動が始まる。
それまでに、できるだけ乾かす。
ソウは石板の上の種を指先で転がした。まだ湿り気がある。一粒を噛んでみた。ぐにゃりと潰れた。
——まだだ。
三日で足りるかどうかはわからない。だが、やるしかない。
ソウは種子の乾燥具合を確かめながら、静かに笑った。
食料の保存。
燻製肉から始まった「持たせる」技術が、種の保存にも広がろうとしている。
前世では当たり前すぎて考えもしなかったことが、この世界では一つずつ革命になる。
まず種を守る。
冬を越す。
春に戻ったら——蒔く。
ソウは夕暮れの空を見上げた。
冬が来る。




