第7話「この世界の麦」
翌朝、ソウは群生地に戻った。
夕暮れの興奮が冷めた頭で、もう一度確認する必要があった。
昨日の発見が本物かどうか。期待が目を曇らせていなかったか。
朝日の中で見る群生地は、昨日と変わらなかった。
黄金色の穂が、支流沿いの斜面を覆っている。風が吹くたびに、穂が波のように揺れる。
ソウは一本を手に取った。
穂の長さは、手のひらほど。前世の小麦より短い。だが穂軸はしっかりしていて、種子が密についている。
種子を一粒取り出す。爪の先ほどの大きさ。表面は薄い茶色の殻に覆われている。殻を剥くと、中身は白い。
口に入れてみた。
硬い。だが、噛み続けると——ほのかな甘みが広がった。
澱粉だ。唾液で分解されて糖に変わっている。
——間違いない。
これは穀物だ。
前世の小麦やライ麦とは種が違うが、同じように使える。
粉にすれば食べられる。加熱すれば消化できる。
ソウはこの草の特徴を、頭の中で整理した。
穂軸が折れにくい——種子が自然に落ちない。つまり、収穫しやすい。
種子に澱粉が多い——栄養価が高い。
群生している——同じ場所にまとまって生えている。
川沿いの沖積地に生えている——水と養分が豊富な土地を好む。
前世の農学で言えば、これは栽培化の候補として理想的だった。
ソウは深く息を吐いた。
この草に、名前をつけよう。
この世界の言葉で「粒」は「アム」という。
——アム。
この草の名前は、アムだ。
*
種を集める作業は、地味で、途方もなかった。
穂を一本ずつ折り取り、指で種子を外していく。一本の穂から取れる種子は、二十粒ほど。それを何十本、何百本と繰り返す。
手が痛くなった。指先が赤く腫れた。
だが、手を止めるわけにはいかない。冬が来る前に、できるだけ多くの種を集めなければならない。春に蒔くための種だ。
昼を過ぎても、ソウは群生地にいた。
集めた種を、持ってきた皮袋に入れていく。袋の底が少しずつ重くなる。
一人では、効率が悪い。
テツに手伝いを頼むことも考えたが、テツには石器作りという仕事がある。部族に必要な道具を作るテツの手を借りるのは、気が引けた。
——一人でやると決めたんだ。
ソウは黙々と手を動かし続けた。
*
夕方近く、足音が聞こえた。
杖をつく音。ゆっくりとした歩調。
「こんなところにおったか」
バアだった。
背中に籠を背負っている。中には薬草が入っていた。薬草の採集帰りらしい。
「バア、こんな遠くまで来たのか」
「薬草はのう、人が行かない場所に良いものが生えるんじゃよ」
バアはソウの手元を見た。皮袋の中の種子を覗き込む。
「何を集めておる」
「草の種だ。この草を——アムと名づけた。これの種を土に蒔いて、食べ物にする」
「ほう……」
バアは群生地を見渡した。しわだらけの目が、黄金色の穂を追う。
「面白いことを考える子じゃ」
バアはそれだけ言って、籠の中をごそごそと探った。
「ここよりもっと上流にな、川が二つに分かれる場所がある。あそこの南側の斜面にも、この草が生えておったよ」
「本当か?」
「薬草を探して歩いとると、色々と目に入るんじゃよ。昔から生えておる草じゃ。誰も気にせんかったがの」
バアは手伝うとは言わなかった。種を集めるのを手伝うことも、群生地まで案内することも。
だが——情報をくれた。
それだけで十分だった。
「バア」
「なんじゃ」
「ありがとう」
「礼を言うような話かい。年寄りの散歩のついでじゃよ」
バアは飄々と笑って、杖をつきながら帰っていった。
ソウはバアの背中を見送ってから、手元の種を見た。
もう一つ群生地がある。種を集められる量が倍になる。
明日は上流の分岐点に行こう。
*
夜。
ソウは焚き火の端で、集めた種を皮袋から出して数えていた。
今日一日で集めた量は——両手で二杯分ほど。
少ない。
春に蒔くためには、もっと必要だ。最低でも、この十倍は欲しい。畑にする面積にもよるが、種が少なければ収穫も少なくなる。
種は集まった。だが、まだ足りない。
そして——種が揃ったとしても、次の問題がある。
どこに蒔くか。
群生地と同じような条件の土地を見つけなければならない。川沿いの沖積地。水はけが良く、養分のある土。日当たりの良い場所。
ソウは種を皮袋に戻した。
種は集まりつつある。
だが、蒔く場所がまだ決まっていない。
——次は、土だ。
ソウは明日の計画を頭の中で組み立てながら、焚き火の炎を見つめた。




