第5話「族長への言葉」
夜明け前。
空はまだ暗かった。東の端だけが、薄い灰色に変わり始めている。
ソウは寝床を抜け出した。冷たい空気が肌を刺す。秋の朝は、日が昇るまでが寒い。
丘の上に、人影があった。
ガラン。
毎朝、夜明け前に丘に登り、風を読む。風の方角で獲物の動きを予測する。それが族長の朝の仕事だった。
ソウは草を踏みしめながら、丘を登った。息が上がる。たかだか丘を一つ登るだけで。
ガランは風上を向いて立っていた。振り返りもしない。ソウの足音は聞こえているはずだ。
「……ガラン」
「起きるのが早いな」
ガランは前を向いたまま言った。
「話がある」
「聞こう」
短い。いつものガランだった。
ソウは深く息を吸った。
ここからだ。まず、実績を見せる。
「先日の肉——煙で燻した肉は、三日経っても腐らなかった」
「……ああ」
ガランの声は低かった。知っている。バアから一切れ受け取って、黙って噛んでいたのを、ソウは見ていた。
「あれは、俺が考えて作った。煙には肉を腐りにくくする力がある。それを知っていたから、試した」
ガランは振り返らない。だが、聞いている。
「次は——もっと大きなことができる」
「何の話だ」
「草の種だ。穂のついた草——食べられる実をつける草の種を集めて、土に埋める。水をやる。待つ。そうすれば、同じ草が生えてくる。食べ物を、自分で作れるようになる」
ガランが初めて振り返った。
炎のない朝の光の中で、ガランの目は黒く、深かった。
「続けろ」
「今の暮らしは、食べ物を探して歩くことで成り立っている。獲物がいなくなれば移動する。木の実がなくなれば移動する。だが——食べ物を自分で作れたら、移動しなくていい」
「移動しないで、どうやって冬を越す」
「秋のうちに収穫する。乾かして保存する。冬の間の食料にする」
ガランは黙った。
嘲笑はなかった。怒りもなかった。ただ、黙ってソウの顔を見ていた。
「それで——冬までに何人分の食料が取れる」
「……わからない。やったことがないから」
正直に言った。嘘をついても仕方がない。ガランは嘘を見抜く男だ。
「やったことがないことに、人手は割けない。肉を燻したのとは話が違う」
ガランの声は低く、静かだった。怒っていないが、却下している。
「ガラン、俺は——」
「待て」
ガランが手を上げた。丘の下から、足音が聞こえてきた。
ゴウザだった。
古参の狩人。四十代半ば。体が大きく、腕が太い。ガランの右腕とも言える男だ。
「族長、朝の準備が——」
ゴウザはソウを見て、眉を寄せた。
「何の話をしていた」
「ソウが提案をしていた」
ガランが淡々と答える。ゴウザの目がソウに向いた。
「提案? こいつが?」
「種を土に埋めて食べ物を作る、という話だ」
ゴウザの顔が歪んだ。
「若造の戯言だ」
太い声だった。嘲りではなく、怒りに近かった。
「煙で肉を乾かしたくらいで調子に乗るな。食べ物は狩って取るものだ。土から生えてくるのを待つ? その間、誰がこいつの飯を食わせるんだ。今だって役に立たないのに——これ以上、食い扶持を無駄にする気か」
ソウは言い返さなかった。
ゴウザの言葉は、正しいからだ。
この世界の常識では、ゴウザが正しい。食べ物は狩って取るもの。体が弱い人間は、集団のお荷物。それが何千年も続いてきたこの世界のルールだった。
ソウが否定しているのは、そのルールそのものだ。
言葉で覆せるはずがない。
「ガラン」
ソウは族長に向き直った。
「人手は要らない。一人でやる。狩りの邪魔はしない。ただ——やらせてほしい」
ゴウザが「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てた。
ガランは黙っていた。
長い沈黙だった。
東の空が明るくなり始めている。風が草原を揺らす。
ガランは背を向けた。丘を降り始める。
ソウは動けなかった。
却下された——と思った。
だが、ガランは三歩目で足を止めた。振り返りもせず、低い声で呟いた。
「……お前一人でやる分には、止めない」
それだけ言って、ガランは丘を降りていった。ゴウザが舌打ちをして、その後を追う。
ソウは丘の上に一人、残された。
風が吹いていた。
止めない。
許可ではない。応援でもない。「勝手にしろ」という意味だ。
だが——止めないと言った。
それだけで十分だった。
ソウは唇の端が持ち上がるのを感じた。笑った。何日ぶりかわからない。
東の空から、朝日が顔を出し始めていた。
丘の下では、族民たちが起き始めている。リアが弓を背負って歩いているのが見えた。
テツが岩の陰で石を打っているのが見えた。バアが焚き火の前で、こちらを見上げていた。
バアは——笑っていた。
見ていたのだろう。丘の上の三人のやり取りを。
ソウは息を吐いた。
やると決めた。
一人で始める。野生の穀物を探す。種を集める。土を選ぶ。蒔く場所を決める。
笑われてもいい。
ツハのように死ぬかもしれない。
だが——ツハにはなかった知識が、ソウにはある。
農業の知識。食料保存の知識。土壌の知識。
それだけが、ソウの武器だった。
丘を降りる足取りは、登った時よりも軽かった。




