第4話「焚き火の前で」
三日が経った。
燻製肉は、まだ食べられた。
ソウが棚から取り出した肉を噛むと、硬いが、味はしっかりしている。臭みもない。三日前に切った肉が、腐らずに残っている。
それだけのことが、集落の空気を少しだけ変えていた。
「あの肉、まだ食べられるのか」
族民の一人が、ソウに声をかけた。普段は話しかけてこない男だ。
ソウは頷いて、一切れを渡した。男は不思議そうに噛んで、「ほう」と呟いた。
だが全員がそう受け取ったわけではない。
「たまたまだ」
ゴウザが焚き火の向こうから言った。
古参の狩人。四十代半ば。腕が太く、声が大きい。ガランの次に発言力がある男だった。
「乾いた季節だから肉が持っただけだろう。雨が降ったら同じことはできん」
ソウは反論しなかった。
ゴウザの言うことにも一理ある。湿度が高ければ燻製の効率は落ちる。だが、それは改善できる問題だ。今は言い返しても意味がない。
結果で示すしかない。
*
夜。
族長のガランは、毎晩同じ場所に座る。焚き火の正面。風上側。炎と族民の両方を視界に収められる位置。
ソウは焚き火の端に座りながら、ガランを観察していた。
「明日は北の林に入る。トモ、ハル、お前たちが先行しろ。鹿の群れが北に移動しているはずだ」
短い指示。無駄な言葉がない。
「リア、お前は川沿いを回れ。魚がまだ残っている」
「わかった」
リアが頷く。族長の娘だが、特別扱いはされない。むしろ一番きつい役割を振られることが多い。
ソウはガランの指示の出し方を見て、一つ気づいた。
ガランは「なぜそうするか」を説明しない。理由を語らず、結果だけを求める。
だが逆に言えば——結果さえ見えれば、手段を問わない人間だということだ。
燻製肉は、小さな結果だった。三日間、肉が腐らなかった。それだけのことだ。でも、ガランはあの朝、ソウに視線を向けた。
この人は見ている。ソウはそう確信した。
*
焚き火が小さくなり、族民たちが寝床に散っていく。
ガランは最後まで火の前に座っている。族長は一番最後に眠る。それが習わしだった。
ソウも残った。バアも。
「ソウ、お前はまた夜更かしかい」
バアが火を挟んだ向こう側で、笑った。
「眠れないだけだ」
「嘘つきなさんな。お前は考え事をしとるんじゃ」
バアは枯れ枝を火に放り込んだ。炎が一瞬明るくなり、三人の影が揺れる。
「のう、ソウ。一つ昔話をしてやろうか」
「昔話?」
「この一族の昔話じゃよ」
ガランが火を見つめたまま、微かに目を動かした。聞いている。バアはそれを承知の上で話し始めた。
「わしがまだ若かった頃——そうじゃな、お前くらいの歳だったか。ツハという男がおった」
バアの声は、ゆっくりと夜に溶けていく。
「ツハは変わった男でな。川の向こうに住みたいと言い出した。向こう岸は良い場所だと。木の実が多いし、水が近いし、獣も多い。ここから動かずに暮らせるはずだ、とな」
「定住しようとした、ということか」
「そんな難しい言葉は使わなかったがね。ただ『ここに住みたい』と言ったんじゃよ」
ソウの心が動いた。過去にも、同じことを考えた人間がいた。
「結果は?」
「失敗した」
バアは短く言った。
「冬が来た。食べ物がなくなった。ツハは移動を拒んで一人で残ったが——春に戻った時、ツハの体は川辺に転がっておったよ」
焚き火が爆ぜた。
ソウは唇を噛んだ。
「……なぜ失敗した」
「食べ物が足りなかったからじゃよ。秋のうちに集めた木の実や干し肉では、冬は越せなかった。それだけのことじゃ」
それだけのこと。
だが、ソウにはその「それだけのこと」の中に、致命的な欠陥が見えた。
ツハには食料を「増やす」方法がなかった。集めることしかできなかった。自然にあるものを拾うだけでは、冬の消費に追いつかない。
——農業があれば、違っていたかもしれない。
秋のうちに収穫して、保存すれば。燻製肉のように、持たせる方法を組み合わせれば。冬を越すだけの備蓄を作れたかもしれない。
「わしがなぜこの話をしたか、わかるかい」
「……俺が同じことをしようとしているから、か」
「お前はツハよりも賢いと、わしは思っとる。じゃがな——賢いだけでは冬は越せん」
バアは杖をつきながら立ち上がった。
「大事なのはな、一人でやらんことじゃよ。ツハは一人だった。一人だったから、死んだ」
バアはそれだけ言って、寝床へ向かった。
*
焚き火の前に、ソウとガランだけが残った。
沈黙が続いた。虫の声だけが響いている。秋の虫だ。もうじき、この声も消える。
ガランが低い声で言った。
「バアの話は聞いたか」
「ああ」
「ツハのことは、俺も覚えている。俺がまだ子供だった」
ガランは火を見つめたまま動かない。
「あれは愚かな男ではなかった。だが——一人だった」
バアと同じことを言っている。ソウは立ち上がらなかった。今日は、まだ話さない。材料が足りない。
だが、材料を集める手がかりはある。テツに、もう一つの話をしなければならない。
*
翌日の昼。ソウはテツのところへ行った。
テツは新しい矢尻を作っていた。
「テツ、少し聞いてくれ」
「ん? また面白いやつ?」
「ああ。燻製肉よりも——もっと大きな話だ」
テツが手を止めた。
「草の種を、土に埋めたらどうなると思う?」
「種? そりゃ……生えてくるだろ。草ってそういうもんだし」
「じゃあ——食べられる草の種を集めて、自分で育てたら? 食べ物が、自分で作れることになる」
テツの目が変わった。作業中の集中とは違う。
何か新しいものを見つけた時の、あの目だ。
「それ……さっきの燻製肉より、もっとすごいってこと?」
「ああ。肉は保存できるようになった。でも、肉を獲れなければ意味がない。食べ物そのものを作れたら——冬も、飢えなくなる」
「これ絶対うまくいく! だってさ、草は毎年勝手に生えてくるだろ? それを自分で選んで生やせるってことは——」
「待て。まだ先がある」
「え、まだあるの?」
「族長に許可を取らないと。それが一番難しい」
テツの顔が少し曇った。
「ガランは厳しいぞ」
「わかってる。だから——燻製肉で見せた結果を足がかりにする」
テツは腕を組んだ。しばらく考えて、言った。
「カナにも聞かせてやろう。あいつ、こういう話好きだぞ」
ソウは頷いた。
明日の朝、ガランが一人になる時間がある。燻製肉で見せた小さな結果を足がかりに、もっと大きな話をする。
バアの言葉を思い出した。「一人でやらんこと」。
テツがいる。バアが見ていてくれる。
一人ではない。




