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転生先は夜明け前 ―石器時代から文明を拓く―  作者: 夜摩 高嶺
第一章「種蒔きの季節」

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第1話「記憶の中の麦を、この手で」

石器時代×農業チート。

体が弱くて狩りもできない転生者が、前世の知識だけを武器に文明を拓いていく物語です。

派手なバトルはありませんが、「知識一つで世界が変わる」瞬間を丁寧に描いていきます。

風が変わった。


ソウはそれを、肌で感じた。

乾いた空気に混じる、かすかな湿り気。南から吹く風が暖かさを失い始めている。


——秋が深まっている。


丘の上から見下ろす景色は、どこまでも同じだった。

黄色く枯れかけた草原が広がり、遠くに双河の支流がゆるやかに光を反射している。


この世界に名前があるのかどうか、ソウは知らない。

ガラの民——ソウが属する部族——は、この支流沿いを季節ごとに移動しながら暮らしている。

二十三人の小さな集団。狩りで獲物を追い、木の実を拾い、魚を捕る。食べられるものがなくなれば、次の場所へ移る。

それを何百年も、繰り返してきた。

ソウは草の上に腰を下ろし、膝を抱えた。


十六年。

 

この体に生まれてから、十六年が経つ。

田中颯という名前は、もう自分のものではない。

二十四歳で死んだ大学院生。文化人類学を専攻し、農業革命の起源について修士論文を書いていた男。その記憶だけが、頭の中に丸ごと残っている。


最初の数年は混乱していた。赤ん坊の体に大人の意識が閉じ込められている感覚は、想像以上に苦しかった。言葉が通じない。手足が動かない。泣くことしかできない夜が続いた。

五歳で、ようやくこの世界の言葉を覚えた。

十歳で、前世の記憶を整理し終えた。

そして十六歳の今——ソウは、この世界に何が足りないかを、はっきりと理解していた。


農業がない。

文字がない。

定住する集落がない。

金属がない。法律がない。通貨がない。


前世の知識で言えば、ここは新石器時代の終わり頃に似ている。農業革命の直前。人類が「食べ物を追いかける暮らし」から「食べ物を育てる暮らし」へ移る、その一歩手前。


あと一押しで、すべてが変わる場所。

——でも、あと一押しがなければ、何千年もこのままかもしれない。


ソウは草を一本抜いて、指先で転がした。

前世で読んだ論文を思い出す。肥沃な三日月地帯。チグリスとユーフラテスの間で、人類は初めて麦を栽培した。それが農業の始まりだった。

この世界の双河は、あの二つの川に似ている。気候も、土壌も、条件は揃っているはずだ。

ただし——ソウには体力がない。

狩りに出れば足手まといになる。石槍を投げても、まともに飛ばない。走れば息が切れる。この部族で、ソウは一番弱い人間だった。

それでも生かされているのは、バアのおかげだ。



「また丘の上かい」


背後から、しわがれた声がした。

振り返ると、バアが杖をつきながら坂を登ってくるところだった。白髪を風になびかせ、深い皺の刻まれた顔に、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。


「バア、足が悪いのに登ってこなくていい」

「お前が降りてくればいいんじゃよ」


バアはソウの隣に、よっこらしょ、と腰を下ろした。

七十二歳。ガラの民で最も長く生きている人間。部族の記憶をすべて覚えている語り部であり、薬草の知識を持つ唯一の存在だった。


「何を見ておる」

「川を」

「嘘をつきなさんな。お前が見ておるのは、いつだってここじゃない、どこか遠い場所じゃ」


ソウは黙った。

バアはソウが赤ん坊だった頃から、「この子は違う」と言い続けていた。何が違うのかは説明しない。

ただ、ソウが他の子供たちと同じように遊べなくても、狩りができなくても、バアだけは庇い続けてくれた。


「バア」

「なんじゃ」

「……この土地は、良い土地だと思うか」

「ほう」


バアは目を細めた。


「どういう意味で聞いておる」

「ここに——ずっといられるかどうか、という意味で」

「ずっと、ねえ」


バアは遠くの川を見た。風が白髪を揺らす。


「わしが子供の頃にも、同じことを言った男がおったよ。この場所に住み続けたい、とな。じゃが冬が来て、獲物がいなくなって、結局は移動した。いつもそうじゃ。この土地は優しいが、冬だけは厳しい」

「冬を越せるだけの食べ物があれば、どうだ」

「あればの話じゃろう」


バアは笑った。

意地悪な笑い方だった。

でも、その目は笑っていなかった。

真剣に、ソウの顔を見ていた。


「お前は——時々、精霊と話しておるような顔をするのう」

「精霊なんか見えない」

「見えなくても、話す方法はあるんじゃよ。わしにはわかる」


バアはそれだけ言って、杖をつきながら立ち上がった。


「夕餉の支度を手伝いなさい。丘の上で考え事をしても、腹は膨れんぞ」


ソウは頷いて、立ち上がった。



夜。

焚き火の周りで、族長のガランが明日の狩りの段取りを話している。低く太い声。短い指示。族民たちは黙って頷く。

ソウは焚き火の端に座り、炎を見ていた。


——農業。

種を蒔く。水をやる。待つ。収穫する。

前世の知識では、それだけのことだ。だが、この世界の人間にとっては、まったく未知の概念だった。食べ物は「見つけるもの」であって、「作るもの」ではない。


ガランに提案したら、どうなるだろう。

族長は現実的な男だ。結果が出るものは受け入れる。

だが、結果が出るまでの猶予を与えてくれるかどうかはわからない。


種を蒔いてから収穫までは、早くても数ヶ月かかる。

その間、ソウは何も成果を出せない。今でさえ食い扶持として微妙な存在なのに、さらに役に立たない期間が続く。


リアの目が浮かんだ。

族長の娘。弓の名手。何度か狩りの帰りにすれ違ったとき、あの目が語っていたこと——「弱いくせに、なぜ生きている」。

笑われるだろう。

それは、わかっている。


ソウは炎を見つめた。火の粉が夜空に舞い上がり、一瞬だけ星に紛れて消える。

前世で論文に書いた一節を思い出す。


——農業革命は、人類史上最大の転換点であった。


教科書の文章だ。客観的で、冷たくて、自分とは関係のない言葉だった。

だが今、ソウはその転換点の内側にいる。

教科書に載らない場所。歴史が動く前の、静かな夜。

ソウは小さく息を吐いた。


明日、族長に話しかけてみよう。

笑われることは、わかっている。

第1話お読みいただきありがとうございます。

農業革命って教科書だと一行で終わるんですけど、実際にゼロからやろうとしたらどうなるんだろう、というのがこの話の出発点です。

次回、ソウの無力さがもう少し具体的に描かれます。

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