08.意に添わぬ婚約者_後編【公爵令息ヨシアスの場合】
「今日を以て、ヘルガ嬢とヨシアスの婚約を解消とする」
応接間に広がる宣言は、ヨシアスに喜びと細やかな疑問をもたらした。
ヴェンツェル公爵家の応接間で両家が揃っての席だ。
ヨシアスの中で湧き上がる喜びは、当然今まで一切交流なんてしてこなかった女と、ようやく縁が切れることだ。
これにより、長らく待たせたままの乙女を、今こそ迎えにいけるという期待。
同時に浮かんだ少しばかりの疑問は、何故か相手側が一切気にしていないことだろうか。
まるで最初から想定していたかのようだった。
その意味が分からぬまま、ただ話が終わるのを待つだけしかなかった。
「婚約時に契約した通り、婚約解消はこちらの都合となるので、ヘルガ嬢個人に対して慰謝料を支払おう」
当事者であるヨシアスを置いて、話は事務的に続けられていく。
気づけば、慰謝料の額すらもわからぬままに、婚約解消の話はまとまっていた。
「ヴェンツェル公爵令息とお会いするのはこれが二度目となりますが、もう会うことはないでしょう。どうぞお元気で」
今までの怒りや不満をぶつけられるか、もしくは婚約解消を撤回するように求められたら面倒だと思っていたが、こうもあっさり別れの挨拶を言われるのも苛立たしい。
こうなるとわかっていたかのような、取り澄ました顔。
まるで、最初からヨシアスを婚約者だと思っていなかったようだった。
「その容貌では次を探すのも苦労するだろうから、公爵家から慰謝料が出て良かったな。
その金で少しでも身分のある者を釣り上げるがいい」
怒りを帯びた父親の声が、ヨシアスの名を呼び、なぜか同席していた弟のライモンドがローテムント伯爵家の者に頭を下げる。
「長らく謹慎の身で、貴族らしい振る舞いを忘れてしまったようです。
後程改めてお詫びに伺います」
兄に対して失礼だとヨシアスは、口を開こうとしたが、足に感じる鋭い痛みに声が出なくなる。
見れば、母親の靴の踵が押し込まれていた。
「ライモンド様。私は気にしていませんわ。
全く会わないままだった婚約者など、赤の他人以下ですもの」
貧相な女がライモンドに笑いかけ、代わりにローテムント伯爵が怒りを隠さずに睨みつけてくる。
子を養うことすらできない、持たぬ者の嫉妬だと、ヨシアスは心の中で嘲笑う。
家令が玄関へと案内を始め、彼らの姿は程なくして消えていった。
「さて、これで一つ片付いた」
そう言った父親の言葉に、メイド達が不要になった茶器を片付けていく。
新たに淹れられたお茶が、先程までローテムント伯爵家が座っていた席の前に置かれ、そこに今度はヨシアスが座るように促される。
向かいには両親、サイドの一人掛けのイスにはライモンドが座った。
どうやら話の続きがあるようだが、ヨシアスにとっても自分の望みを伝えるチャンスでもある。
この二年の間、冴えない貧乏女を寄せ付けなかったのだから、ヨシアスの強い意志を理解してくれているはずだ。
なんとしてでも説得し、乙女を迎えることを了承してもらうのだ。
この時までヨシアスは、自分の望みは必ず叶うと信じて疑っていなかった。
「ライモンドの成人と共に、お前を廃嫡とする」
信じられない言葉に息が止まり、まじまじと父親を見つめる。
父親だけじゃない、隣に座る母親までもが真顔でいた。
「なぜ、なんで今更」
掠れた声しか出ないヨシアスを、憐れみへと表情が変わった両親が見つめる。
「お前が反省し、公爵に相応しくあるよう努力するのか、見定める期間が終わったからだ」
そんなこと、聞いていない。
「本当ならば卒業パーティー後すぐに廃嫡にしても良かったが、そうするとハインツ王太子殿下の進退にまで事が及ぶ。
王家からは殿下とグリゼルダ嬢が確実に結婚するまでは、お前の廃嫡は保留にしてほしいとお願いされていたのだ」
明かされる話は、ヨシアスが聞いていないものばかり。
「それに廃嫡することは簡単だが、ライモンドに公爵としての資質があるかどうかも見定めなければならん。
だからライモンドには事情を話し、お前には秘密にして、公爵としての勉強も始めさせていた」
「そんな勝手な! 最初から言ってくれれば、私だって態度を慎んだでしょう!」
聞いていたら、反省するふりぐらいはしたというのに。
それを見透かされたのか、父親の表情が険しくなった。
「言われなければできぬ反省など偽りでしかなく、それで許されると思っている浅慮が度し難い。
それにもし、今の話を早くからお前に言えば、ライモンドを害しただろう。
それこそ命すら奪ったかもしれん」
思わず目を逸らした。
確かに邪魔だとわかっていたなら、早々に対処しただろう。
だがそれは、貴族として当たり前のことでもある。
少なくともヨシアスはそう思っている。
油断と慢心によって後継者レースから外れるのならば、そこまででしかない。
ライモンドには公爵になる運命が用意されていなかっただけだ。
「それにライモンドの婚約者には、ライモンドを支えられるような令嬢を選んだが、それは決して公爵夫人として適性があるという話ではない。
その話し合いが長引き、公爵夫人としての教育もあったので、結果として二年は必要だったのだ」
ライモンドの婚約者は新興貴族と呼ばれる、叙爵したばかりの伯爵家の娘が選ばれている。
時折見かけるが、口達者で生意気そうな令嬢だった。
数世代前に平民へとなり下がった貴族の傍系など、乙女と比べれば虫けら以下だというのに。
「では、あの貧乏くさい女は?」
ぐるぐると回る思考から、疑問を絞り出して父親に聞く。
「婚約者を宛てがわないと、無駄に頭だけは回るお前が疑うのは目に見えている。
だからローテムント伯爵家には、事情ありきで期間限定の婚約者役を打診したのだ」
ここで父親が盛大な溜息をついた。
「お前の好かないタイプだっただろう?
当然だ。お前がいらぬ関心を抱くことのない、真面目な令嬢を選んだのだから」
確かに全く好みではなかった。
だが、ヨシアスに反省を促したいのであれば、相応の令嬢を用意して心を解かせ、公爵となる前向きな気持ちへと導くものではないのか。
乙女以外を妻に迎えるつもりはないが、地位と見目があれば、相応に対応したというのに。
どこか理不尽さを感じるヨシアスを放置し、父親の言葉は続いている。
「そもそもヘルガ嬢には、一緒になろうと約束した相手がいる。
相手は平民なので、慈善活動では平民の生活を見聞きと体験し、私に付いている時は商売をするのだからと経営について学んでいた」
父親の目元が和らぐ。
母親もそうだったが、どうやら父親までも貧乏なだけの女にほだされたらしい。
「決して優秀ではなかったが、それを補って余りある努力を持ち合わせた、良い令嬢だった」
だが、それも数秒のことで、すぐにヨシアスに向けられる表情は厳しいものに変わる。
「この二年、口を出さずに見守っていたが、お前の傲慢さは公爵の器ではないとわかった。
今ここで廃嫡を言い渡す」
吐き出した声は、いつかのように疲れが滲んでいた。
「ヨシアス、せめてもの情けだ。子爵位と公爵領の隅にある土地でも貸してやろう。
下手に市井になど出せば、利用されるのが目に見えるようだからな。
お前が懸想してやまない娘を迎えるのも勝手にしていいが、一代限りの子爵として、お前が亡くなった際には公爵家に爵位を返すように」
輝かしい公爵としての未来が、美しい乙女を公爵夫人として迎える夢が、全てが手の中から砂となって落ちていく。
違う、そんなはずはない。自分は優秀なはずだと言い聞かせるのに、気の利いた言葉が出ない。
「既に荷物はまとめさせている。
手続きは追ってとなるが、これ以上お前がヴェンツェル公爵家の一員として不祥事を起こさないよう、今すぐこの屋敷から出て行くように」
父親の言葉と共に、腕力に自信がありそうな使用人が、ヨシアスの両腕に手をかける。
逃がす気のない力の強さに思わず呻いたが、誰も気にせずに部屋からヨシアスを連れ出そうとした。
「父上! 私のことが可愛くはないのですか!
ずっと公爵家の嫡男として育った私に子爵など、低位貴族で収まる器ではないのです!」
手を振りほどこうにも、ビクともしない。
「お願いです! 私は公爵になって乙女を妻にし、そして幸せになるのだ!
ライモンドに公爵としての教育をさせてしまったせいで悩むのならば、私が適切に処分しますから!」
父親の顔から表情が抜け落ちたが、ヨシアスは気づかない。
「不愉快だ。早く連れていけ」
怒りの滲む声が、低く、冷たく響く中、使用人に引き摺られながら部屋から出て行くことになった。
これから向かう先のことを何一つ知らされず、馬車に押し込められる。
ありえないことに馬車は外から鍵をかけるようになっていて、ヨシアスが扉を殴ろうと蹴ろうとも開くことはない。
叫ぶ声は外に僅かに響けども、馬車が動き出せば車輪の音と周囲の喧騒に消されるだろう。
馬がゆっくりと歩を進め始める。
一代限りの哀れな子爵と、彼の空回りな絶望を乗せて。
暫くして、子爵位の限定的な譲渡手続きは終わったと知らせが届く頃、公爵からの使者は魂の抜けたヨシアスと、彼の手にした手紙を見ることになる。
それは当たりをつけていたはずの修道院に、乙女がいないことを知った男の成れの果てだったという。




