第六話~今はただ静かであれ
その兆しは、説明できる形では現れなかった。
リオンは、いつも通り井戸で水を汲み、畑に向かっていた。
桶の水面に、空が映る。雲の形も、風の流れも、何一つおかしくない。
――なのに。
水面の奥に、「深さ」がなかった。
(……浅い?)
桶を覗き込んでも、水は十分にある。
だが、感覚だけが告げてくる。
ここから先が、ない。
慌てて目を逸らす。
世界は、すぐに元に戻った。
その日の午後、畑で同じことが起きる。
土に触れた瞬間、状態が分かる、そのさらに奥――いつもなら触れないはずの境界に、指がかかった。
そこには、土も、水も、養分もなかった。
ただの「面」。
(……内側じゃない)
補正が働くのは、世界の内側だ。
歯車が噛み合い、循環し、壊れないように均す領域。
だが、あの影は――循環の外から、触れている。
その夜、リオンは夢を見る。
また、歯車の夢だ。
だが、今回は違っていた。
歯車の外側。
本来なら、何も存在しないはずの場所に、観測する視線があった。
手も、口も、形もない。
あるのは、理解だけ。
――なぜ、均す?
――なぜ、揃える?
問いは、責める調子ではなかった。
むしろ、興味だ。
次の瞬間、歯車がわずかに軋む。
壊れるほどではない。
だが、試された。
目が覚めると、額に冷たい汗が滲んでいた。
「……観測者、か」
誰に言うでもなく、呟く。
神ではない。
悪意の化身でもない。
世界を成立させる条件の、外側にいる何か。
だから、祝福もしない。
罰も与えない。
ただ、どこまで耐えるか、どこで崩れるか、それを、見ている。
補正役は、その視線にとって――ノイズだ。
壊れるはずの場所が壊れない。
偏るはずの流れが均される。
だから、消そうとする。
敵だからではない。
「想定外」だから。
リオンは、深く息を吸う。
「……なるほどな」
世界の内側で、静かに働く者たち。
世界の外側で、結果だけを見る者。
どちらが正しいかなんて、分からない。
だが、一つだけは確かだ。
――派手に動けば、確実に見られる。
だから、彼は選ぶ。
直さない場所を、選ぶ。
触れない歪みを、受け入れる。
完璧を目指さないことこそ、最強の隠蔽。
翌朝、畑の一角に、ほんの小さな不揃いが残っていた。
誰も気にしない。
作物は、十分に育つ。
それでいい。
世界は、壊れない。
観測者は、興味を失う。
その均衡の上で、リオンは今日も、静かに生きる。
――世界の外側から、見られているかも知れない。
それを知った上で、無視するという選択をしながら。
その日、畑の作業は早めに切り上げた。
土の状態は悪くない。
作物も育っている。
だが、手を入れれば入れるほど、「できてしまう」感覚があった。
――ここを均せば、もっと揃う。
――ここを直せば、もっと安定する。
だが、リオンは鍬を地面に立て、腰を伸ばした。
「……やりすぎ、か」
誰に聞かせるでもない独り言。
あの視線を思い出す。
歯車の外側。
結果だけを見る、無関心な興味。
あれは、善でも悪でもない。
ただ、世界がどう振る舞うかを見ている。
――なら。
リオンは、畑を見渡す。
完璧じゃない畝。
わずかに成長の遅い一角。
風の向きで、今年は少し不利になりそうな場所。
全部、直せる。
全部、均せる。
でも。
「……それは、俺の仕事じゃない」
はっきりと、そう思った。
自分がやっているのは、世界を良くすることじゃない。世界を正しくすることでもない。
ただ――壊れないように、支えること。
人が努力して、失敗して、回り道して、それでも続いていける程度に、ほんの少しだけ、転ばないようにする。
もし、自分が完璧を目指したら。
作物は揃いすぎる。
成果は出すぎる。
流れは、早まりすぎる。
そうなれば――
世界は、リオンを中心に回り始める。
「……それは、違う」
それはもう、スローライフじゃない。
静かな補正でもない。
世界を歪める側だ。
鍬を肩に担ぎ、小屋へ戻る。
夕食は質素なスープでいい。
今日は、少し薄味にする。
うまくしすぎない。
満たしすぎない。
それが、リオンの選び方だ。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
胸の奥が、静かだった。
不安はある。
影は消えていない。
観測者も、どこかで見ている。
それでも、決めた。
「……俺は、世界を延ばす」
声に出す必要はない。
だが、言葉は確かだった。
「守るためじゃない。救うためでもない。ただ――終わらせないために」
世界が自分で選び、自分で失敗し、それでも続いていけるように。
俺は、前に出ない。
目立たない。
完璧にしない。
それが、世界を壊さない選択だ。
外で、風が鳴る。
畑は、夜の闇に溶けている。
明日も、耕す。
やりすぎないように。
触れすぎないように。
世界が、自分の速度で回り続けるように。
――それでいい。
――それだけでいい。
リオンは、目を閉じた。
静かなスローライフは、こうして、はっきりとした意思の上に、ようやく根を下ろした。




