第三話~みんなとは何かが違うようだ
村へ降りるのは、三日に一度と決めている。
塩や油、布切れといった必需品を手に入れるためだ。交流を避けているわけではないが、用がなければ顔を出さない。それが、リオンなりの距離感だった。
その日も、いつも通りだった――本人にとっては。
村の入り口で、老女が立ち止まり、じっとこちらを見る。
すれ違いざま、小さく会釈をすると、なぜか深く頭を下げ返された。
「……?」
気のせいだろう、と歩を進める。
雑貨屋に入ると、店主が一瞬、奥から顔を出し、こちらを確認してから慌てて出てきた。
「リオンくん、今日は……ええと、これ、少しおまけしておくよ」
「はあ。ありがとうございます?」
理由を聞くほどのことでもない。礼を言って受け取る。
油の量が、いつもよりわずかに多い気がしたが、誤差だろう。
次に立ち寄ったのは、穀物を扱う倉。
袋を抱えて出てくると、若い村人がひそひそ声で話しているのが聞こえた。
「……畑、見たか?」
「見た。あれ、放置地だったよな?」
「だよな……?」
聞かなかったことにして、通り過ぎる。
だが、変化は確実に積み重なっていた。
村の外れで畑仕事をしていた男が、作業を止め、こちらに目礼する。
子どもたちが走ってきて、なぜか距離を取ってから挨拶する。
酒場の前では、会話が一瞬、途切れた。
悪意はない。
だが、評価だけが、勝手に先行している。
本人が気づかない場所で、村の認識は、少しずつ書き換えられていた。
――あの小屋の若者、黙々とやってるが、畑の出来が安定しすぎている。
――道具の扱いが妙に丁寧で、借りた鍬が長持ちする。
――飯を分けてもらったら、腹持ちが異様にいい。
誰かが声高に言い出すことはない。
だが、「あの人なら大丈夫」という空気だけが、静かに共有されていく。
夕方、用事を終えて村を出ると、背後から声がかかった。
「リオン」
振り返ると、村長だった。
いつもなら用件を簡潔に済ませる人物が、今日は少し言い淀んでいる。
「近いうちに……畑のことで、相談をするかもしれん。そのときは、時間をもらえるか」
「ええ。構いませんが……俺で役に立つなら」
そう答えると、村長はなぜか、ほっとした顔をした。
――ああ、そういうことか。
自分では、ようやく少し分かってきた。
リオンの能力は、「すごい」と思われるためのものじゃない。
信頼が、自然に集まってしまう。
派手な称賛も、嫉妬もない。
ただ、困ったときに思い出される存在になる。
それが、この世界での――
リオンの居場所らしい。
その変化は、あまりにも静かだった。
まず、村の見回りの順路が、微妙に変わった。
夜回りのランタンが、以前よりも小屋の近くを通るようになったが、リオンは気づかない。畑仕事で疲れて、早く眠るだけだ。
次に、外から来る人間への対応が変わった。
行商人が村に入ると、必ず村長か副村長が先に声をかける。
旅人が一夜の宿を求めたときも、酒場での席は、自然と入り口側になる。
「村の外れに小屋がある若者がいるだろう?」
そう話題を振られても、名前は出ない。
ただ、「あそこには、用もないのに近づくな」という空気だけが、やんわりと共有される。
理由をはっきり説明できる者はいない。
だが、説明できないからこそ、大人たちは慎重だった。
――力がある。
――だが、使う気がない。
――なら、刺激しないほうがいい。
そんな判断だ。
一方で、リオンの日常は変わらない。
畑を耕し、作物を育て、道具を直し、静かに食事をする。
村で買い物をすれば、少し丁寧に接されるが、深く考えない。
ある日、畑に見慣れない足跡があった。
獣ではない。人のものだ。
「……夜に通ったのかな」
それだけ思って、鍬を振るう。
その足跡の主は、実際に夜の見回りだった。
若い見張りが、念のため様子を確認しただけで、畑には一切触れていない。
「何もするな。見るだけでいい」
そう、言い含められていた。
数日後、村の集会所で、こんな会話が交わされる。
「もし、あの若者が外から狙われたら?」
「守る。理由はいらん」
「だが、本人は……」
「知らなくていい。平穏に暮らしてもらうのが、一番だ」
決定は、満場一致だった。
――リオンは、村の保護対象とする。
――同時に、無用な刺激を避ける要注意人物とする。
矛盾しているようで、矛盾していない判断。
守るが、踏み込まない。
頼るが、背負わせない。
そのころ、リオンはというと。
夕暮れの畑で、芽の出揃い具合を眺めながら、ただ思っていた。
「……今年は、うまくいきそうだな」
誰かに守られているとも、
誰かに警戒されているとも、
夢にも思わずに。
彼は今日も、
静かに、丁寧に、生きている。
――それが、この村にとって、
何よりも大切な異変だと知らないまま。
その違和感は、失敗から始まった。
リオンはその日、村で買った塩の袋を落とした。
紐が切れ、白い粒が地面に散らばる。大した量ではないが、貧しい身には惜しい。
「あ……」
しゃがみ込んで拾おうとした、そのときだった。
「触らなくていい!」
声が飛んできた。
驚いて顔を上げると、雑貨屋の店主と、村の若者が二人、やけに慌てた様子で駆け寄ってくる。
「え、いや、自分で拾えますけど……」
「いいから! 本当にいいから、そのままで!」
店主は、地面に散った塩を見てから、周囲を一瞬だけ確認し、声を落とした。
「……これは、こちらの不手際だ。新しいのを渡す」
「え? でも――」
「受け取ってくれ」
有無を言わせぬ調子だった。
結局、リオンは新しい塩の袋を手渡され、落とした分については、誰も触れさせてもらえなかった。
家に戻る道すがら、胸の奥がざわつく。
(今の……おかしくなかったか?)
これまでの親切とは、質が違う。
気遣いというより、制止に近かった。
さらに決定的だったのは、翌日のことだ。
畑で作業をしていると、村の見回り役がやってきた。
普段は軽く挨拶する程度の相手が、今日は距離を保ったまま、言った。
「……最近、困っていることはないか」
「いえ、特には」
「そうか。……本当に、何もないな?」
念を押すような言い方。
まるで、答えが決まっている質問のようだった。
リオンは、鍬を止めて相手を見る。
「……何か、俺に隠してます?」
一瞬。
見回り役の呼吸が、わずかに乱れた。
「……いや」
だが、その否定は、遅かった。
沈黙が落ちる。
風が、畑を渡る。
「俺、最近――」
言葉を選びながら、続ける。
「村の人たちが、俺に何か説明しないまま、判断してる気がするんです。悪意じゃないのは分かります。でも……理由が分からない」
見回り役は、すぐには答えなかった。
視線を畑の向こうへ逃がし、しばらく考えてから、ようやく口を開く。
「……それを、知る必要はない」
優しい声だった。
だからこそ、重かった。
「知ったら、面倒が増える」
「知らなければ、今のままでいられる」
リオンは、そこで確信した。
――ああ、やっぱりだ。
――俺だけ、蚊帳の外だ。
怒りはなかった。
だが、納得もできなかった。
「……俺、何か、やっちゃいました?」
冗談めかして言ったつもりだった。
だが、相手は笑わなかった。
「何もしていない」
「だからこそだ」
それ以上は、言わなかった。
見回り役は軽く頭を下げ、踵を返す。
その背中を見送りながら、リオンは畑に視線を戻した。
作物は、順調に育っている。
いつも通りだ。
なのに。
(……俺が思ってるいつも通りと、みんなが見てるいつも通りは、違うのか)
初めて、はっきりとした境界線を感じた。
自分の知らない場所で、評価と判断が進んでいるという事実。
だが同時に、分かってしまったこともある。
彼らは、説明しないことで、リオンの日常を守ろうとしている。
それが正しいのかどうかは、分からない。
ただ一つ確かなのは――
この村は、もう「何も知らない若者」を、そのまま放っておくつもりはない、ということだった。
夕暮れの畑で、リオンは静かに息を吐く。
「……まあ」
小さく、笑った。
「スローライフって、思ったより面倒だな」
それでも、鍬は手放さなかった。




