第一話~異世界転生
目を覚ましたとき、まず違和感があった。
天井が――低い。
正確に言えば、天井らしきものはなく、視界いっぱいに広がっていたのは、年季の入った木の梁と、ところどころ黒ずんだ藁の裏側だった。鼻をくすぐるのは、湿った土と焚き木の匂い。耳を澄ませば、どこか遠くで鳥が鳴いている。
……ここ、どこだ?
起き上がろうとして、体が思ったより軽いことに気づく。手を見ると、少し日に焼けた、若い――いや、明らかに自分のものではない手だった。
最後の記憶は、残業帰りのコンビニだったはずだ。いつものように温めてもらった弁当を受け取って、外に出た。
雨はほとんど止んでいた。
街灯の光に濡れたアスファルトが、ぼんやりと反射している。
レジ袋の中で、温めた弁当がかすかに揺れた。
(今日も終わったな)
そう思っただけだった。
特別な感慨も、達成感もない。いつもの帰り道だ。
一歩、歩道に足を出す。
そのとき、足裏の感触が――消えた。
「……え?」
滑ったわけじゃない。
躓いたわけでもない。
ただ、地面が続いていなかった。
音が、遅れて追いついてくる。
雨の匂いも、街のざわめきも、すべてが引き延ばされる。
視界が、妙に静かだった。
落ちている感覚はない。
浮いている感覚もない。
あるのは、均されていく感覚だけ。
強すぎる疲労。
溜まりすぎた不満。
積み上がった「まあいいか」。
それらが、誰かに奪われるのではなく、ちょうどいい位置に戻されていく。
(……待て)
なぜか、思った。
(これは、死ぬやつじゃないな)
意識は途切れない。
恐怖も、ほとんどない。
世界が、ここじゃないほうが壊れにくい、そう判断しただけのような、感覚。
最後に見えたのは、アスファルトに落ちた、水たまり。
そこに映っていた自分の顔が、ほんの少しだけ――若かった。
次に目を開けたとき、天井は低く、空気は土と木の匂いがした。
身体は軽く、胸の奥は、不思議と静かだった。
理由は分からない。
だが、確信だけが残っていた。
――ここでは、急がなくていい。
――無理をしなくていい。
そうやって、彼はこの世界に来た。
選ばれたわけでも、救われたわけでもない。
ただ、壊れなかった。
それだけが、すべての始まりだった。
そこまで考えて、思考を止めた。
どうやら、ありがちな展開らしいかも知れない。
藁の敷かれた簡素な寝台から降りると、足裏にひんやりとした感触が伝わった。床は土のままだ。壁際には古い鍋と木製の桶、角の欠けたテーブルがひとつ。窓は小さく、朝の光が控えめに差し込んでいる。
貧しい。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
扉を開けると、外には畑が広がっていた。芽吹いたばかりの作物が、朝露に濡れてきらきらと光っている。その向こうには、低い丘と、ゆっくり流れる川。風は穏やかで、空は驚くほど青い。
「……悪くないな」
思わず、そう呟いていた。
命を懸けて戦う勇者でも、世界を救う使命でもない。
もし許されるなら――ここで、静かに暮らしてみたい。
そう思った瞬間、胸の奥に、見知らぬ記憶が静かに流れ込んできた。
この体の名前。
この土地のこと。
そして、ひとりで生きていくための、ささやかな日常。
異世界転生――その始まりは、剣でも魔法でもなく、
一枚の畑と、朝の風だった。




