第3話:国土交通省・水道局 水源管理課 地獄のテイスティング(冷たい水と死者の涙)
1. 汚染された深夜
私がこの世で一番嫌いな言葉は「利き水」だ。ワインのテイスティングならまだ洒落ているかもしれない。けれど、深夜二時、地下三〇メートルにある巨大浄水施設の管理室で行われるそれは、拷問以外の何物でもなかった。
ブォォォォォン……。
分厚いコンクリートの壁越しに、巨大なポンプが唸る重低音が響いている。ここは東京都の水道網を管理する心臓部の一つであり、同時に、決して地図には載らない「裏の調整弁」でもある。無機質な蛍光灯が、ステンレス製の長机を白々しく照らしていた。
「……早瀬。次のサンプルだ。飲め」
目の前に、ビーカーが置かれた。コト、という硬質な音が、張り詰めた静寂を揺らす。中に入っているのは、無色透明な液体。見た目は、ただの綺麗な湧き水にしか見えない。
けれど、私――早瀬雫には分かってしまう。その水面から立ち上り、鼻腔を突き刺してくる、吐き気を催すほどの「澱んだ臭い」が。
「う……」
私は反射的に口元を押さえ、高性能活性炭マスクの上からさらに手で覆った。私の特異体質。それは「霊的嗅覚・味覚の過敏症」だ。
普通の人間には感知できない、水に溶け込んだ微量な「霊的ノイズ(死者の未練や呪い)」を、味や臭いとして、強烈なリアリティを持って感じ取ってしまう。
この体質のせいで、私は市販のミネラルウォーターすら飲めなくなり、脱水症状で路上に倒れていたところを、この職場に拾われた。いや、拉致されたと言ってもいい。
「水脈先輩……これ、本当に飲まなきゃダメですか? 臭いだけで判定できませんか? ……腐った卵と、錆びた鉄の臭いがします」
私は涙目で懇願した。しかし、対面に座る指導係は、書類から目を離しもしない。
「ダメだ。臭気だけでは『濃度』と『発生源』が特定できない。舌で感じろ。粘膜で接触して、情報を解析するんだ。それがお前の仕事だ」
水脈護先輩。国土交通省・水道局水源管理課のエースであり、私の指導係。身長一八〇センチを超える長身痩躯を、塵一つない真っ白な白衣で包んでいる。その立ち居振る舞いは、研究者というよりは潔癖な外科医のようだ。
整いすぎた顔立ちは、まるで氷の彫刻のように美しかったが、同時に絶望的なほど人間味がなかった。銀縁眼鏡の奥にある瞳は、深海のように光がなく、私という人間ではなく「高精度のセンサー」を見ている目だ。省内での通称は「水道局の氷柱」。
「……早瀬。時間は待ってくれないぞ。汚染水が家庭の蛇口に届く前に特定しろ」
淡々とした、しかし有無を言わせない命令。私は、震える手でビーカーを持ち上げた。不健康なまでに青白い自分の指先が、ビーカーのガラス越しに透けて見える。短く切りそろえた色素の薄いボブカットが、冷や汗で額に張り付いて不快だ。
(飲むしかない。飲まないと、もっと大変なことになる)
私は覚悟を決めて、マスクをずらし、液体を口に含んだ。舌の上に、冷たい液体が広がる。その瞬間。
――熱いッ!!
水なのに、熱湯を注がれたような錯覚。口の中が焼け付くような幻痛に襲われる。 そして、脳裏に直接、知らない誰かの記憶がフラッシュバックする。
『逃げろ! 早く!』 『ドアが開かない! 誰か!』 『煙が、煙が……!』
赤黒い炎。崩れ落ちる柱。サイレンの音。そして、絶望的な熱気。
「がはっ……!!」
「吐くなよ。飲み込んで分析しろ」
「んぐ、ぅ……ッ!」
私は喉の奥からせり上がってくる嗚咽を必死に飲み込んだ。胃袋に、焼けた鉛が落ちたような重み。全身から冷や汗が噴き出す。
「……ほう、こく……します……」
私は机に突っ伏しながら、掠れた声で絞り出した。
「あ、味は……焦げたゴムと……古い血の味……。喉越しは……煤が混じった泥水みたいにザラザラしています……。感情は『パニック』『逃げ場のない恐怖』そして『理不尽な焼死』……」
「発生源の推測は?」
「こ、これ……半年前の……雑居ビル火災の現場……。あそこの消火活動に使われて、地下に染み込んだ水が……水脈に混入しています……」
言い終えた瞬間、私は洗面台に駆け寄り、胃の中身を戻そうとした。けれど、もう出るものなんて何もない。ただ、口の中に残る「死の味」だけが、いつまでもへばりついている。
「……なるほど。半年前の『新宿雑居ビル火災』か。あそこはまだ鎮魂処理が終わっていなかったか」
水脈先輩は、私が苦しんでいるのを気にも留めず、タブレット端末に涼しい顔でデータを入力した。キーボードを叩く音が、規則正しく響く。
「第三取水路。地下水脈(黄泉)との分離壁、セクター4に亀裂発生。……原因は特定できている」
先輩は、忌々しげに天井を見上げた。ここ地下施設の上は、ちょうど国道が走っているあたりだ。
「……また、上の『道路屋』どもか」
「え?」
私が顔を上げると、天井の照明器具が、チリチリと微かに揺れているのが見えた。 耳をすませば、地上の遥か遠くから、ドォォォォ……という重低音が響いている。
「さっきから微震が続いている。道路局の轟の野郎、またあの馬鹿でかいエンジンカッターを振り回して、龍脈の工事をしていやがるな」
水脈先輩の声には、明確な嫌悪と軽蔑が混じっていた。道路局。たしか、同じ国土交通省の「裏部署」だと聞いている。先輩の同期である轟さんという人が率いているらしいが、先輩は彼らを毛嫌いしているようだった。
「あの野蛮人たちが『物理攻撃』で地面を叩くたびに、こちらの繊細な地下配管にヒビが入るんだ。……学習能力というものがないのか、あいつらは」
「そ、そんな……。じゃあ、この汚染は道路工事のせいなんですか?」
「間接的にはな。だが、尻拭いをするのは我々だ。……行くぞ、早瀬」
水脈先輩は白衣を翻して立ち上がった。その背中は、どんな汚れ仕事に向かう時でも、一点の曇りもなく白い。
「総員、第三取水路を閉鎖。私が直接処理する。……あとで道路局には、法外な修繕費と慰謝料を請求してやる」
2. 絶対零度の浄化
私たちは管理室を出て、問題の第三取水路へと向かった。地下通路は迷路のように入り組み、湿った冷気が肌にまとわりつく。壁には無数の配管が這い回り、まるで巨大な生物の内臓の中を歩いているようだ。時折、配管の奥から「コポォ……コポォ……」という水音が聞こえる。それが、何かの呻き声のように聞こえて、私は身震いした。
「先輩、あの……この先、すごく臭います。焦げ臭いのが、強くなってきて……」
「マスクを二重にしろ。物理的な有毒ガスではなく、霊的な瘴気だとしても、吸い込めば肺が腐るぞ」
先輩のアドバイスに従い、私は予備のマスクを重ね着けした。やがて、鉄の扉の前に辿り着く。『立入禁止』の札。その隙間から、黒い煤のようなものが漏れ出している。
「開けるぞ」
水脈先輩がカードキーをかざすと、重い音を立てて扉が開いた。その瞬間、熱気と湿気が混じった異様な風が吹き荒れた。
「うわっ……!」
そこは、巨大な配管が交差するジャンクションのような空間だった。
その一角。太いパイプの継ぎ目から、シューシューと激しい音を立てて水が漏れ出している。ただの水漏れではない。
漏れ出した水は、床に落ちるとジュウジュウと音を立てて蒸発し、黒い靄となって立ち上っていた。その靄の中に、苦悶の表情を浮かべた人の顔のようなものが、無数に浮かんで消える。
『アツイ……タスケテ……』 『ミズヲ……ミズヲクレ……』
耳鳴りのような幻聴が、脳内に響き渡る。私は恐怖で足がすくんだ。
「ひっ……! 先輩、あれ! 顔が……!」
「慌てるな。ただの残留思念だ。実体はない」
水脈先輩は、表情一つ変えずに歩を進める。黒い靄が、生者を求めて先輩にまとわりつこうとするが、彼の周囲にある冷気のようなオーラに触れた瞬間、霧散していく。
「……汚染度レベル3。希釈洗浄では間に合わないな。物理的な止水も、この霊圧では不可能だ」
彼は漏水箇所の目の前まで進むと、はめていたゴム手袋をゆっくりと外した。 現れたのは、陶器のように白く、骨ばった美しい手。ピアニストのように繊細に見えるその手は、しかし、触れるもの全てを「死の世界(静止)」へと誘う、残酷な神の手だ。
「――凍結」
先輩が、濡れた配管に、そっと指先で触れた。ただ、それだけ。
パキッ。
乾いた音が、静寂の始まりだった。
パキパキパキパキパキパキッ!!
次の瞬間、猛烈な勢いで「氷」が世界を侵食した。
先輩の指先を起点に、青白い氷の結晶が、まるで生き物のように配管を覆い尽くしていく。噴き出していた水も、空中に漂う黒い靄も、そしてそこに宿っていた「熱い」という叫び声さえも。すべてが、一瞬にしてカチコチに凍りついた。
ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く氷の彫像。
さっきまでの地獄絵図が、今は幻想的な氷のアートへと変貌していた。
「す、すごい……」
私は、寒さも忘れて見惚れてしまった。これが、水脈先輩の異能。水を操るのではない。水の分子運動を極限まで停止させ、「時間」ごと凍結させる能力。物理的な水漏れだけでなく、そこに宿る「霊的な未練」ごと凍らせ、その活動(苦しみ)を強制的に停止させるのだ。
「配管ごと凍らせて止水した。内部の霊的汚染物質も、この低温なら活動を停止する。……あとは補修業者に回せ」
水脈先輩は、凍りついた配管から手を離し、懐からハンカチを取り出して指を拭いた。まるで、少し汚れた手すりに触れた程度のことのように。
「……行くぞ、早瀬。まだ仕事は終わっていない」
「えっ、まだあるんですか……? もう水は止まりましたよ?」
「物理的な水は止めた。だが……」
水脈先輩は、凍りついた配管の上、天井近くにある排気ダクトを見上げた。 地下施設とはいえ、換気システムを通じて空気は地上へと繋がっている。
「我々が到着する前に気化し、空に逃げた『水蒸気』はどうなる?」
「あ……」
「死者の未練を含んだ水蒸気が、空で雲になり、雨として降ればどうなると思う?」
私の背筋が凍った。さっきの「熱い」「苦しい」という怨念が、空へ昇り、雨となって街に降り注ぐ。もし、それを何も知らない人々が浴びてしまったら。
「広範囲に呪いをばら撒く『霊障雨』の発生だ。……原因不明の高熱、集団ヒステリー、あるいは……」
「そ、そんな……! どうするんですか!?」
「我々の管轄(水)を離れ、空へ行ったものは追いかけられない。……だから、『専門家』に連絡をとる」
先輩は、心底嫌そうな顔で、スマートフォンの画面をタップした。
3. 天気予報は笑顔と共に
水脈先輩が電話をかけている相手。その名前を見ただけで、先輩の機嫌が目に見えて悪化していくのが分かった。表示名は『気象庁・天羽』。
コール音が数回鳴った後、スピーカー越しでも分かるほど明るい、鈴を転がすような声が地下室に響いた。
『あ、水脈ちゃん? おっはよー! どうしたの、こんな時間にデートの誘い? それともまた地下で根暗な水遊び?』
能天気すぎる第一声に、私は思わずのけぞった。ここは地獄の底のような地下施設だというのに、相手の背景には、突き抜けるような青空と小鳥のさえずりが見えるようだ。
「……ふざけるな、能天気。仕事だ」
水脈先輩の声が、絶対零度まで下がる。
「今、第三取水路で小規模な『黄泉漏れ(リーク)』があった。火災現場の記憶を含んだ汚染水だ。……気化した水蒸気が、そっち(空)へ流れた」
『うわぁ、またぁ? 国交省の配管、ボロすぎない? 予算申請のハンコ、僕が押しといてあげようか?』
「黙れ。……観測できるか」
先輩は眉間に青筋を立てて、ギリギリとスマホを握りしめている。どうやらこの二人、同じ「最高の世代(15年前の生き残り)」らしいが、相性は最悪のようだ。陰と陽、水と空。交わらない平行線。
『んー、ちょっと待ってねぇ。……あー、はいはい。見つけた』
電話の向こうで、カチャカチャとキーボードを叩く音もせず、紙をめくるような音がした。おそらく、モニターも見ずに空を見上げているのだろう。
『本当だ。港区の上空、高度500メートル付近。局地的に「霊的湿度」が上がってるねぇ。これ、結構ドロドロした未練だね。焼死体の記憶と……あと、子供の恐怖心も混ざってるかな?』
私の鑑定結果を、現場も見ずに、ただ空を見ただけで言い当てた。この人――気象庁特異気象課の天羽暦。
噂には聞いている。笑顔一つで台風の進路を変え、睨みつけるだけで高気圧を爆散させるという、天候操作のスペシャリスト。
「……分析はいい。雨になるか」
『なるなる! このままだと一時間後には、港区を中心に真っ黒な雨が降るよ。濡れた人はみんな、三日三晩うなされる悪夢を見るコースだねぇ』
事もなげに言う天羽先輩に、私は戦慄した。首都圏でそんなパニックが起きたら、ニュースどころの騒ぎじゃない。
「防げるか」
『もちろん! 僕を誰だと思ってるの? ……でもさぁ水脈ちゃん、タダでってわけにはいかないなぁ』
「……チッ。今度、最高級の『聖水(未開封)』を送る」
『話が早くて大好き! じゃあ、予報開始しまーす』
天羽先輩は、明日のピクニックの予定でも変更するように、軽い口調で言った。
『汚染された雲は、上空の風に乗せて東京湾の方へ流しとくね。海上で雨にして落とせば、海の水質浄化作用で中和されるでしょ』
「……ああ。頼む」
『りょーかい。……あ、そうだ水脈ちゃん。ついでにもう一つ、オマケの情報』
電話を切ろうとした水脈先輩を、天羽先輩の声が引き止めた。
『今、ウチの新人くん(日和リク)のデータもそっちに送っとくね』
「……は?」
『いやぁ、あの子さっき、高校時代から片思いしてた幼馴染に彼氏ができたことを知っちゃったらしくてさぁ。もう大泣きしちゃって』
「……それがどうした。個人の恋愛事情など興味がない」
『違う違う。あの子のバグ、知ってるでしょ? 「感情が天候に直結する」やつ。……彼が今、猛烈に泣いてるせいで、関東全域の気圧が急降下してるのよ』
水脈先輩は、こめかみを押さえた。私も、開いた口が塞がらなかった。一人の失恋で、関東の天気が変わる?
『というわけで、今夜の雨は「死者の未練(水脈ちゃん担当)」と「新人の失恋(リクくん担当)」のスペシャルブレンドになります! こればっかりは僕も止められないから、適当に降らせて発散させるね』
「……お前のところの教育はどうなっているんだ。新人の感情管理もできないのか」
『青春だもん、仕方ないじゃない。泣きたい時は泣かせてあげないと、台風になっちゃうよ? ……じゃ、傘を忘れずにね☆』
プツッ。
一方的に通話が切れた。後に残ったのは、地下室の重苦しい沈黙と、水脈先輩の深いため息だけ。
4. 誰かの涙
「……チッ。あの天気屋が」
水脈先輩は舌打ちをして、スマホを白衣のポケットに乱暴に突っ込んだ。その顔には「疲労」の二文字が張り付いている。あの完璧超人の先輩をここまで疲れさせるとは、天羽先輩、恐るべし。
「えっと……大丈夫なんですか? 汚染水は……」
「あいつが『流す』と言えば流れる。天羽は、性格は破綻しているが、仕事で嘘をつく男ではない」
水脈先輩は、凍りついた配管を背に、出口へと歩き出した。その背中は、先ほどよりも少しだけ小さく見えた。
「……早瀬」
「はいっ」
「今夜は帰る時、絶対に雨に濡れるなよ。……死者の呪いと、馬鹿な新人の涙が混じった雨だ。風邪では済まないぞ」
その言葉は、相変わらず冷たく突き放すようだったけれど、ほんの少しだけ、先輩なりの不器用な気遣いが混じっているような気がした。
「はい。……お疲れ様でした、先輩」
*
地上に出ると、空は既にどんよりとした鉛色に覆われていた。早朝の霞が関。まだ人通りも少ない官庁街に、ポツリ、ポツリと雨が降り始めている。私は傘を開き、その雨音に耳を傾けた。
――ザーーーッ。
激しい雨だ。アスファルトを叩く雨粒の匂いが、鼻をつく。マスク越しでも分かる。そこには、先ほど地下で味わった「焦げた臭い(死者の未練)」はほとんど感じられない。天羽先輩が、約束通り海の方へ流してくれたのだろう。
その代わりに。
「……しょっぱい」
雨の匂いに混じって、ほんの少しだけ「甘酸っぱい、塩辛い味」がした。これが、あの気象庁の新人の涙なのかもしれない。ずっと好きだった幼馴染を失った悲しみ。やり場のない孤独。その感情が、雨となって街を濡らしている。
(……気象庁の新人さん、日和くん、だっけ)
私は傘を傾け、見えない空の向こうにいる「同期」のことに思いを馳せた。顔も知らない。会ったこともない。けれど、彼も私と同じように、自分の意思ではどうにもならない「バグ」を抱えて、この理不尽な世界で戦っている。私が臭いに苦しんでいる時、彼は感情で天気を変えてしまい、自己嫌悪に陥っているのかもしれない。
「……元気だしなよ、同期」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。日本のどこかで、私と同じように世界の裏側で泣いている誰かがいる。そう思うと、この憂鬱な雨も、少しだけ「独りじゃない」と思わせてくれるような気がした。
私は水たまりを避けて歩き出した。今日は帰ったら、熱いシャワーを浴びて、うがい薬で口をゆすごう。そして、明日の水が、今日より少しでも美味しくなっていますように、と祈りながら。
冷たい雨は、まだ止みそうになかった。
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次は「国土交通省・気象庁・特異気象課」の事例です。




