第2話:文部科学省・国立国会図書館 特務整理課 静寂なる知の暴力(禁書と原点)
1. 地下の静寂
世界で一番静かな場所はどこか、と聞かれたら、僕は迷わずここだと答えるだろう。国立国会図書館、地下八階。一般利用者は決して立ち入ることのできない、通称「特務書庫」。
「……すごい。これ、全部『禁書』なんですか……?」
僕――夏目理人は、見上げるほど高い書架に囲まれて、感嘆のため息を漏らした。
書庫のガラス戸に、自分の情けない姿がぼんやりと映っている。手入れされていない無造作な黒髪に、度の強い丸眼鏡。猫背気味の細い体は、支給された少し大きめの事務服の中で頼りなく泳いでいる。いかにも「運動よりも読書が好きです」と顔に書いてあるような、地味な二十三歳だ。
ひんやりとした空調の風が、古紙と防虫剤の混じった独特の香りを運んでくる。書架には、和綴じの古文書から、羊皮紙の魔導書、ボロボロの大学ノートに至るまで、あらゆる時代の「危険な書物」が眠っていた。
普通の人間なら、このカビ臭さと圧迫感に息を詰まらせるかもしれない。けれど、重度の活字中毒ビブリオマニアである僕にとっては、ここは楽園そのものだった。
「私語は慎みなさい、新人。本が起きます」
凛とした、氷のような声が静寂を切り裂いた。
書架の奥から現れたのは、白衣を纏った黒髪の女性――月島栞先輩だ。
その手には白い手袋がはめられ、手元のカートには、昨日回収されたばかりだという「泥だらけの巻物」が、厳重なアクリルケースに入って載せられている。
腰まで届く艶やかな黒髪は、まるで濡れた烏の羽のように美しく、一本の乱れもなく切り揃えられている。陶器のように白く滑らかな肌、銀縁眼鏡の奥で冷たく光る切れ長の瞳。その美貌は、美術館に飾られた彫刻のように完璧で、同時に人間味(体温)を全く感じさせない。
彼女は、この「特務整理課」のエースであり、僕の指導係だ。僕を見る目は、まるで誤字脱字を見つけた校閲者のように厳しい。
「す、すみません月島さん。でも、こんな貴重な資料を整理できるなんて、夢みたいで」
「夢を見ている暇はありません。あなたの仕事は、その『未整理ボックス』の中身を、危険度別に分類すること。……ただし」
月島さんは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、鋭い視線を僕に突き刺した。
「絶対に『中身』を読まないこと。タイトルと装丁だけで判断しなさい。いいですね?」
「え、読まないで分類するんですか? 無理ですよそんなの」
「読みなさい、空気コンテクストを。……あなたは自分の体質を理解していないのですか?」
彼女は呆れたようにため息をついた。
僕の採用理由。それは、履歴書に書けるような長所ではない。
僕には、異常な「解析能力」があるらしい。どんな難解な暗号も、古代文字も、破損した文章も、一目見ただけで脳が勝手に「意味」を繋げ、理解してしまう。
それが、この職場では致命的なバグ(欠陥)になるのだという。
「あなたのその脳みそは、怪異にとって『最高の起動キー(トリガー)』なのです。あなたが理解アクセスした瞬間、呪いは活性化する。……あなたは歩く起爆スイッチなのですよ」
「は、はあ……」
ピンとこない。本を読むだけで爆発するなんて、そんな比喩表現があるものか。
2. 知の暴走
月島さんは、奥のデスクで「巻物」の修復作業に入ってしまった。
僕は一人、山積みの未整理本と向き合う。
――読んではいけない。中身を見てはいけない。
そう言われると、余計に読みたくなるのが本好きの性さがだ。
僕は、無造作に置かれた一冊の黒い手帳を手に取った。表紙には何も書かれていない。ただ、革の質感からして、明治時代のものだろうか。
(パラパラと見るだけなら……構造を確認するだけだし……)
魔が差した。
僕は、震える指で、その手帳をほんの少しだけ開いてしまった。
そこには、ぎっしりと、赤いインクで書かれた数式のような羅列があった。
『……かの星、天頂に達する時、門は開かれん。鍵は第三の言の葉……』
目に入った瞬間、僕の脳内で、パズルのピースが激しい音を立てて組み合わさった。
違う、これはただの日記じゃない。
この数式は、星の配置を示している。そしてこの文章は、比喩ではなく、特定の音階コードを指定している。
つまり、このページの意図は――
「――あ、これ。『召喚術式』の詠唱省略コードだ」
無意識に、その「答え(解)」を口にしてしまった、その時。
ボッ!!
手帳から、どす黒い炎が噴き出した。
「うわあっ!?」
僕は慌てて手帳を取り落とす。だが、手帳は床に落ちることなく、空中で静止した。
ページが激しくめくれ上がり、そこから溢れ出したインクが、空中に文字の奔流となって渦を巻く。文字は絡み合い、質量を持ち、やがて一匹の「獣」の形を成した。
インクで構成された、黒い狼。その瞳だけが、あの数式のように赤く輝いている。
『グルルルルル……』
「う、嘘だろ……文字が、実体化した……?」
僕が「理解」してしまったことで、本に眠っていた概念イデアが、現実世界に「出力プリント」されてしまったのだ。
狼は、自分を起動させた主マスターである僕を見据え、その巨大な顎あぎとを開いた。
「ヒッ……つ、月島さーーーん!!」
3. 静寂の執行
「――だから言ったでしょう、この馬鹿エラー新人が」
死を覚悟した僕の耳に届いたのは、狼の咆哮よりも冷たい、絶対零度の声だった。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が、規則正しく響く。
月島さんが、修復作業用のルーペを置いたまま、ゆっくりと歩いてくる。その表情には、焦りも恐怖もない。あるのは、静かなる怒りだけだ。
「グオオオオオッ!」
インクの狼が、月島さんに襲いかかる。
物理攻撃なら、ひとたまりもない。彼女はか弱い女性で、武器なんて持っていない。
だが。
「……五月蝿うるさい」
月島さんは、襲い来る狼の鼻先を、はめていた「白い手袋」の指先で、トン、と軽く弾いた。
それだけの動作。なのに。
バシュッ。
狼の動きが、空中で強制停止した。まるで、ビデオの一時停止ボタンを押されたように、インクの飛沫しぶき一つ動かない。
「え……?」
「『国立国会図書館法・第◯条』。館内における資料の汚損、および騒音を禁ずる」
月島さんは、胸ポケットから一枚の「栞しおり」を取り出した。それは、ただの紙切れに見えたが、複雑な幾何学模様が透かし彫りされている。
彼女はそれを、凍りついた狼の額――インクの塊に、そっと差し込んだ。
「対象資料、分類コード『Dデンジャー』。……即時、閉架シャットダウンします」
彼女が指を鳴らした瞬間。
巨大な狼の体が、シュルシュルと音を立てて、元の「文字」へと分解されていく。インクの奔流は、逆再生を見ているかのように、宙に浮いた黒い手帳の中へと吸い込まれていった。
パタン。
手帳が閉じ、床に落ちる乾いた音が、静寂を取り戻した書庫に響いた。
「……へ?」
僕は腰を抜かしたまま、口をパクパクさせることしかできない。何が起きた? 魔法? 超能力?
いや、もっと理路整然とした、圧倒的な「管理権限」を見せつけられたような気分だ。
「……夏目理人。始末書です。原稿用紙五枚。誤字脱字があったら書き直し」
「は、はい! すみません! 二度と読みません!」
「いいえ、読みなさい」
「え?」
月島さんは、少しだけ表情を緩めた。いや、それは笑みというより、興味深い実験動物を見る科学者の目だった。
「あの『アズラエルの召喚式』を、ほんの一瞬見ただけで起動コンパイルまで持っていった処理能力……。制御さえできれば、使い道はあります」
彼女は、まるで強力な兵器を手に入れた軍人のような顔をした。
「ようこそ、特務整理課へ。ここでは『知ること』は『戦うこと』と同義です。……死にたくなければ、賢くなりなさい」
4. 禁書ソムリエの残業
あの「インク狼事件」から二週間。
今日も地下の特務書庫では、静寂なデスマーチが進行していた。
「――次。明治期の三文小説。『吾輩ハ猫デアル』の海賊版……と思いきや、本物の猫の霊が憑依した『猫化の呪い本』です。危険度C」
「封印ボックスへ。次」
「昭和初期の料理レシピ本。材料に『人魚の肉』が指定されています。読むだけで異常な空腹感を誘発する精神汚染あり。危険度B」
「焼却炉行き。次」
僕、夏目理人は、ベルトコンベアのように流れてくる「禁書」の山を次々と手に取り、その中身(呪い)を一瞬で鑑定していた。僕の特異体質バグである「超高速解析能力」は、皮肉にもこの職場で「禁書ソムリエ」として重宝されていた。ただし、深く読みすぎないよう、脳にブレーキをかけながらの作業だ。
目の前には、相変わらず氷の女王こと月島栞先輩がいる。 彼女は僕が鑑定した本を、表情一つ変えずにテキパキと仕分けていく。その手際は完璧だが、彼女の周囲には常に絶対零度の冷気が漂っており、うかつに雑談などできる雰囲気ではない。
(……目が疲れた。活字中毒の僕でも、呪いの文章を読み続けるのはキツイ……)
僕がこっそりと目頭を押さえた時だった。未整理のブックトラックの隅に、場違いなほど可愛らしい装丁の一冊が混じっているのが見えた。
「あれ? 月島さん、これ」
それは、鮮やかな赤色の表紙をした、薄い絵本だった。
タイトルは『あかずきんちゃん』。
おどろおどろしい古文書や魔導書ばかり見てきた目には、そのポップな絵柄が砂漠のオアシスのように映った。
「絵本なんて珍しいですね。間違って混ざったのかな?」
僕は癒やしを求めて、無防備にその絵本へと手を伸ばした。子供の頃に読んだ、懐かしい物語。
たまにはこういう平和な本を読んで、心を浄化したい――。
「――触るなッ!!」
鋭い叱責と共に、僕の手がパシッ! と払いのけられた。見ると、月島さんが血相を変えて立ち上がっていた。いつもの冷静沈着な彼女からは想像もできない、切羽詰まった表情だ。
「え、月島さん……?」
「馬鹿! それに素手で触れるつもりですか!? 自殺志願者ならよそでやりなさい!」
月島さんは、自分の白衣のポケットから「特務用封印テープ」を取り出すと、その絵本を三重、四重にぐるぐると巻きにし始めた。まるで、放射性廃棄物でも扱うかのような慎重さだ。
「え、でもこれ、ただの『赤ずきん』じゃ……」
「いいえ。これは『原典オリジナル』からの流出物リークです。……よく見なさい、タイトルの文字を」
言われて、僕は目を凝らす。
『あかずきんちゃん』
一見、普通だ。だが、僕の「解析能力」が、そのタイトルの奥に隠された「真の意味」を勝手に読み解いてしまった。
あかずきんちゃん。
赤あか……朱あけ……血ち……。
『血塗れの頭巾(内臓)を被った少女』。
ゾワリ、と背筋に冷たいものが走った。絵本の表紙の、愛らしい赤ずきんのイラスト。その赤い色が、絵の具ではなく、もっと生々しい「液体」で描かれているように見えてくる。ページの間から、甘ったるい、腐った果実のような臭いが漂ってきた気がした。
「……ッ!?」 「気づきましたか。それが『物語の侵食』です」
月島さんは、厳重に梱包した絵本を、金属製のトランクケースに封印した。
ガチャリ、と重い鍵の音が響く。
「この本は、永田町の管轄ではありません。……『上野』からの誤配送ですね」
「上野……?」
「文部科学省・国際こども図書館。……そこにある『原典管理室』の管轄です」
5. 隣の狂気
「国際こども図書館……」
僕はその名前を反芻した。たしか、上野公園の近くにある、レンガ造りの美しい図書館だ。児童書や絵本を専門に扱う、夢と希望に溢れた場所だと聞いている。
「へぇ! 同じ文科省の管轄なんですね。絵本専門の部署なんて、なんだか楽しそうですね。ここみたいにカビ臭くないでしょうし」
僕が軽口を叩くと、月島さんは、信じられないものを見る目で僕を見た。そして、深く、重いため息をついた。
「……夏目くん。あなたは何も分かっていませんね」
「え?」
「あなたは、呪われた魔導書と、子供の純粋な夢。……どちらが『質たち』が悪いと思いますか?」
月島さんは眼鏡の位置を直しながら、低い声で言った。
「大人が書いた呪いの本なんて、所詮は『理屈』で書かれたものです。術式があり、解除コードがあり、論理がある。……だから、私たちのような大人が対処できる」
「は、はあ……」
「ですが、『童話』は違います。そこにあるのは純粋な狂気と、理不尽な教訓、そして世界を書き換えるほどの『願望』です。……論理など通用しない」
彼女は、先ほど封印したトランクケースを、忌々しげに睨みつけた。
「あそこの管理室にいる連中は……特に、あの『有栖川』という室長は、半分あちら側(物語)に足を突っ込んでいます。……関わらないことですね。絵本のページを開いたが最後、二度と現実ここには戻って来られなくなりますよ」
「……」
月島さんの、本気の警告。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。あのクールな月島さんが、ここまで嫌悪し、警戒する場所。
「さあ、この誤配送品を返送手続きします。……着払いで送りつけてやりなさい。あのメルヘン野郎への嫌がらせも兼ねて」
月島さんは冷たく言い放ち、再び禁書の山へと向き直った。
(……上野かあ。絶対に行きたくないな……)
僕は心の中でそう誓いながら、再びカビ臭い古文書の山へと手を伸ばした。今はまだ、この薄暗い地下室の方が、幾分か安全な気がしたからだ。
――だが、僕はまだ知らなかった。その「絶対に」というフラグが、そう遠くない未来に回収されることになるなんて。
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次は「国土交通省・水道局・水源管理課」の事例です。




