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声を失った花嫁は、沈黙の騎士に愛を教わる  作者: 妙原奇天


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8/21

第8話 メモ帳の交換日記

 砦で迎える二日目の朝は、思っていたよりも早くやってきました。


 窓の外からは、まだ薄い青色をした空の下で、

 兵士たちの掛け声や、訓練場の木剣がぶつかる音が聞こえます。


 王都の公爵家では、朝はいつも静かでした。


 誰も大声を出さず、銀食器の触れ合う音だけが響く食卓。

 それが当たり前の世界で育ったわたしにとって、

 この砦の朝は、少しうるさくて、少し楽しそうです。


 侍女に身なりを整えてもらい、

 喉もとの首飾りを確かめてから、食堂へ向かいました。


 昨日の夜よりも、足取りは少しだけ軽い気がします。


     ◇


 食堂に入ると、もう半分以上の席が埋まっていました。


 大鍋からは、穀物の入ったスープの匂い。

 焼きたての黒パンと、薄く切ったチーズ。


 皆、寝起きの顔のまま、

 それでもどこか楽しそうに朝のトレーニングの話をしています。


 わたしの姿に気づいた兵たちは、

 昨日よりも自然な視線を向けてきました。


「おはようございます、奥様」


 近くの席から、ひとりが照れくさそうに頭を下げます。


 クルトと呼ばれていた若い騎士です。


 首飾りのことを聞いてしまった彼は、

 まだ少し気まずそうにしていて、

 それでもちゃんと挨拶をしてくれました。


 わたしは、笑顔でぺこりと会釈を返します。


 その一瞬だけで、胸が少しあたたかくなりました。


「こちらへ」


 短い声がして、振り向くと、

 いつもの席に座っていたエイドが、

 自分の隣の椅子を顎で示していました。


 わたしはうなずき、その隣に座ります。


 まだ、距離は近すぎるように感じて、

 少しだけ姿勢が固くなりました。


 でも、嫌な緊張ではありません。


 黒パンとスープが目の前に置かれて、

 兵たちが順々に「頂きます」と声を上げていきます。


 わたしも、胸の中で同じ言葉をつぶやきました。


 スプーンを取る前に、

 ひざの上に置いていた小さなメモ帳を開きます。


 昨日から使っている、薄い紙束。


 今朝は、そこに、

 どうしても聞いてみたいことを書いてみることにしました。


 ペン先を走らせます。


『団長は、いつもどんなお仕事をしているのですか』


 書いた文字をエイドの方へそっと向けました。


 彼はスープを口に運びかけたところで手を止め、

 メモ帳を覗き込みます。


 少しだけ眉が動きました。


「……砦の警備と、訓練の指揮だ」


 とても簡潔な答え。


 わたしはこくりとうなずき、

 ページの下に、もう一つ書き足します。


『怪我をなさることは、ありますか』


 エイドが、それを読み、

 今度はほんの少しだけ口元をゆるませました。


「まあ、多少はな」


 軽くそう言って、パンをちぎります。


 多少、と言えるほどの怪我が、

 どの程度なのかは分かりません。


 でも、その言い方は、

 わたしを安心させようとしてくれているのだと分かりました。


 兵たちの視線が、何人かこちらをちらちらと見ています。


 喋れない妻と、寡黙な夫。


 その二人が、メモ帳一冊を挟んで、

 不器用に会話をしようとしている様子は、

 きっと少し珍しい光景でしょう。


 それでも、からかう声は上がりません。


 皆、興味深そうに見てはいても、

 どこか温かい目をしていました。


 わたしは、もう一つだけ質問を書きました。


『砦の外には、危ない魔物はいますか』


 今度は、最初の一画を書いたところで、

 エイドが自分のスプーンを置きました。


「食べながら書くと、こぼすぞ」


 小さな注意。


 わたしは思わずメモ帳を閉じて、

 スプーンを持ち直しました。


 エイドが、わずかに息を吐きます。


「……あとで答える」


 そう付け足してくれたので、

 胸の中がほっと軽くなりました。


 質問を嫌がられたわけではないと分かったからです。


     ◇


 朝食が終わって兵たちが持ち場へ散っていき、

 食堂に残っているのは、わたしとエイド、それから数人の使用人だけになりました。


 食器を片づけていた侍女長が、

 こちらへ近づいてきます。


 年配の落ち着いた女性で、

 やさしい目元の皺が印象的な人です。


「団長様、奥様」


 彼女は、布に包まれた何かを両手に抱えていました。


「昨日のうちに、ご用意しておきました」


 布を開くと、中から、

 上等な革表紙のノートが現れました。


 深い緑色をした革に、

 金色の糸で簡素な模様が縫い込まれています。


 持ってみるまでもなく、

 それが良い品だということが分かりました。


「奥様がメモ帳で熱心に書いておられるのを見て、

 少し大きなものをと思いまして。

 よろしければ、ご夫婦の間でお使いください」


 侍女長は、どこか楽しそうに言います。


 エイドは、一瞬だけ眉をひそめました。


「こんなもの、わざわざ用意する必要はない」


 彼の口ぶりからすると、本心なのでしょう。


 砦の予算を無駄なものに割きたくない、

 という考えが、顔に出ています。


 でも、侍女長は、すこしも引きませんでした。


「これは、私からのささやかな贈り物です。

 砦の経費ではありませんから、ご安心を」


 そう言ってから、

 今度はわたしの方を見て、そっと笑います。


「奥様、紙とペンは、時に何よりも心強い味方になります。

 声を出さずに済む分、言いにくいことも書けますからね」


 その言葉に、胸がちくりとしました。


 この首飾りをしてからずっと、

 わたしの言葉は、外に出ることを許されていません。


 でも、紙の上にだけは、

 心の中の声を並べることができます。


 わたしは、そっとノートを見つめました。


 手のひらほどの大きさの表紙。


 まだ何も書かれていない白いページたちが、

 そこに並んでいるのを想像します。


 その一枚一枚に、

 これからの暮らしのことや、

 ここで見た景色や、感じたことを書いていけたら。


 それはきっと、

 今までの自分にはなかった「歴史」になります。


 自然と、視線が輝いてしまっていたのかもしれません。


 エイドが、侍女長からノートを受け取ろうとして、

 途中でふと、わたしの様子を見て動きを止めました。


 それから、少しだけ目を伏せて。


「……借りる」


 短くそう言って、

 ノートを受け取りました。


「ありがとう」


 その一言が付け加えられたのは、

 珍しいことなのだと、侍女長の表情で分かりました。


「いえいえ。ご夫婦仲が深まれば、砦としてもありがたいことですから」


 侍女長は意味ありげに笑って、

 空になった皿をまとめて運んでいきました。


 エイドは、手の中のノートを一度だけ見下ろし、

 それからわたしに差し出しました。


「……お前が使え」


 突然の言葉に、わたしは目を瞬かせました。


 え、と小さく口を開きかけて、声が出ないことを思い出します。


 慌てて首を横に振りました。


 これは「二人で」使うべきものだと、

 そう思ったからです。


 わたしは手を振って、

 ノートを突き返すような仕草をします。


 エイドが、わずかに困ったように眉をひそめました。


 その様子がおかしくて、

 少しだけ笑いそうになります。


 結局、彼は諦めたように息を吐きました。


「……分かった。あとで部屋に持っていく」


 そう言って、ノートを脇に挟みました。


 それで話は終わり。


 でも、その短いやりとりだけで、

 胸の中に、ふわりと期待の灯りがともります。


     ◇


 夜。


 砦の一日は、

 朝の訓練と見回り、昼の報告と整備、

 そして夕方の再確認で終わっていくのだと、

 なんとなく分かってきました。


 その合間に、侍女たちから、

 砦の中の決まりごとを教わります。


 洗濯場の場所、薬庫の場所、

 危ない場所には近づかないこと。


 城の中なのに、

 小さな町のように、生活の気配が詰まっていました。


 そんな一日を終えて、

 自分の部屋に戻ると、

 机の上に、例の革表紙のノートが置かれていました。


 表紙の上には、

 エイドの字で書かれた小さな紙が重なっています。


『奥方へ』


 少し角ばった、

 読みやすいとは言いがたい字。


 でも、その不器用さが、

 どこか愛おしく感じられました。


 紙をめくると、それだけで、

 中身はまっさらのままです。


 一ページ目の一行目に、

 何を書くべきか。


 わたしは椅子に腰を下ろして、

 しばらくペンを持ったまま固まりました。


 日々の出来事だけを書いてもいいでしょう。


 でも、このノートは、

 「ふたりのために」用意されたものです。


 ならば最初の一文は、

 これからの生活の基準になるようなものにしたい。


 そんな欲張りな考えが、頭をよぎります。


 悩んだ末に、

 わたしはゆっくりとペンを動かし始めました。


『ここでの暮らしが、少しずつ好きになっています』


 文字を書きながら、

 その言葉の意味を、自分でも確かめます。


 まだ不安もあるし、

 この砦が本当に自分の居場所になるのかは分かりません。


 それでも、

 あの食堂の温かさや、

 自分の部屋の鍵の音、

 「迷惑なら連れてこなかった」という一文。


 それらを思い返すと、

 胸の中に、小さな灯りが増えていくのです。


 少し間をあけて、

 さらに書き足しました。


『もっと、あなたのことを知りたいと思っています』


 書き終えた瞬間、

 顔が熱くなりました。


 これは、今まで誰にも向けたことのない種類の言葉です。


 父にも、兄にも、

 そんなことを思ったことはありませんでした。


 わたしは慌ててペンを置き、

 両手で頬を押さえました。


 でも、書いてしまったからには、

 もう消したくありません。


 これが今の、自分の正直な気持ちだから。


 ページの端に日付を書き入れてから、

 ノートをそっと閉じました。


 明日の朝、

 朝食の前にでも、

 エイドの部屋の扉の前に置いておこうか。


 そう考えて、

 胸がまた少し高鳴ります。


     ◇


 翌朝。


 少し早起きをして、

 ノートを抱え、廊下に出ました。


 まだ兵たちの足音は聞こえず、

 廊下にはひんやりとした空気が満ちています。


 エイドの部屋の前まで行き、

 ノックをするべきかどうか迷いました。


 起こしてしまうかもしれないという遠慮と、

 昨日の夜の言葉が頭をよぎります。


 困ったことがあれば紙を滑り込ませろ、と言ってくれた人です。


 これは困りごとではありませんが、

 大事なことではあるので、

 同じように扉の下にそっと差し込むことにしました。


 ノートは分厚くて、

 紙一枚のようには滑り込みませんでしたが、

 少し強めに押すと、向こう側へ入っていきました。


 わたしは、そのまま食堂へ向かいます。


 胸の中は、

 告白をしたあとのようなそわそわした落ち着かなさでいっぱいでした。


     ◇


 朝食の席。


 いつものように、

 エイドは上座近くの席に座っていました。


 わたしが隣に座ると、

 彼はもうスープを飲み始めています。


 ノートを読んだのかどうか。


 聞くことはできないので、

 ただ横顔を盗み見ました。


 ほどなくして、

 彼の手が、どこかぎこちない動きで、

 テーブルの下から何かを取り出しました。


 革表紙のノートです。


 表紙を開いた状態で、

 エイドはそれをわたしの前に置きました。


 一ページ目の、わたしの文字。


『ここでの暮らしが、少しずつ好きになっています』

『もっと、あなたのことを知りたいと思っています』


 その下の行から、

 見慣れない字が続いていました。


『砦のことなら、見たい場所に案内する』


 角張っていて、

 ところどころ線がふるえた字。


 きっとエイドが、

 慣れない手つきで書いたのでしょう。


 続きを読みます。


『無理はするな』


 たったそれだけ。


 でも、その一行一行を読み進めるだけで、

 胸の奥がじんわりと温かくなりました。


 わたしの「知りたい」という気持ちに、

 彼なりのやり方で応えてくれているのが分かったからです。


 さらに、その下に、

 少しだけ小さな文字で、こう書かれていました。


『話したいことは、ここに書け』


 その一文を見た瞬間、

 喉の奥がきゅう、と締めつけられました。


 声を奪われたわたしに向かって、

「話したいこと」を尋ねてくれる人。


 今まで、そんな人は一人もいませんでした。


 わたしの言葉は、

 家の都合が良い時だけ望まれ、

 それ以外のときは、「余計なことを言うな」と封じられていたから。


 メモ帳を持つ手が、少し震えます。


 エイドが、その様子に気づいたのか、

 隣からちらりと視線を寄こしました。


 わたしは慌てて顔を上げ、

 笑顔を作って頷きます。


 大丈夫です、と伝えたくて。


 彼は、少しだけ肩の力を抜きました。


「砦の南側には、古い見張り台がある。

 今日はそこまで見回りに行く」


 突然の告知に、

 わたしは目を瞬かせます。


「来るかどうかは……好きにしろ」


 言いながら、

 どこか気まずそうにスプーンを持ち直しました。


 きっとこれは、

 「見たい場所に案内する」という約束の、

 最初の一歩なのでしょう。


 ノートの文字と、

 今の言葉が、ひとつにつながりました。


 わたしは、大きく頷きました。


 今度こそ、

 心の中だけでなく、身体全部で。


 エイドは、ほんの少しだけ、

 口元をゆるめたように見えました。


 その小さな変化が、

 これからこのノートに書かれていく「ふたりの物語」の、

 最初の一ページになるのだと思うと。


 食堂のあたたかな空気が、

 いつも以上に優しく感じられました。

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