第7話 沈黙の夜
初めての夜は、思っていたよりも静かに始まりました。
砦のあちこちから聞こえていた足音や話し声が、
少しずつ少なくなっていきます。
廊下のランプの灯りも落とされて、
残っているのは、部屋の中の小さなスタンドだけ。
厚手のカーテンを閉めれば、外の冷たい空気は入ってきません。
けれど、窓の外には星が出ていると聞いて、
私はカーテンを半分だけ開けておきました。
今夜が、ここでの最初の夜。
そして、妻として迎えられてからの、最初の夜。
その事実を意識してしまうと、
胸の鼓動が、少しずつ速くなっていきます。
「今夜は、その……お気を確かに」
さっき、寝支度を手伝ってくれた若い侍女が、
妙な言い回しでわたしを励まそうとしてくれました。
お気を確かに。
どんな状況の花嫁にかける言葉なのか、よく分かりません。
でも、その一言の中に、
「今夜、何かがあるかもしれない」という含みがあるのは、
さすがのわたしにも分かりました。
侍女は顔を赤くして、言うだけ言うと慌てて部屋を出ていきました。
取り残されたわたしは、ベッドの端に腰を下ろして。
ふう、と小さく息を吐きます。
喉もとに手を当てました。
冷たい金属の感触。
黒い宝石は、相変わらず、なめらかな表面で光を吸い込んでいます。
指に力をこめても、鎖はびくともしません。
外そうとして、外れたことは一度もありません。
喪声の首飾り。
この呪いをかけられてから、
わたしの声は、ずっと閉じ込められたままです。
もし、夫が、
わたしを「妻」として、女として求めてきたら。
声を出せないまま、その相手を受け入れなければならないのだろうか。
嫌だ、と思う気持ちが、確かにあります。
誰かに触れられることそのものが怖いわけではありません。
でも、公爵家でずっと言われてきた言葉のせいで、
わたしの身体は「家のための道具」として数えられていました。
必要とあらば、どんな相手のもとへでも嫁がされる。
家の利益のためなら、わたしの気持ちは関係がない。
そんな前提で語られる未来の話に、
何度も身を縮めてきました。
だからこそ今、
正式とはいえ一年だけの契約婚で、
しかも相手が「戦場で冷酷」と噂される騎士団長だと分かったとき。
恐怖と、一滴だけ混じった期待が、
自分の中にあることに気づいてしまいました。
もし、この人が、噂とは違う人だったら。
もし、わたしが誰かに触れられることを、
怖くないと思える夜が来るのだとしたら。
そんな未来を、
ほんの少しだけ想像してしまったのです。
その想像をしてしまった自分に、
驚きと、恥ずかしさと、戸惑いが一度に押し寄せました。
ベッドの端で、膝を抱えます。
喉の首飾りは冷たいのに、
胸のあたりだけじんじんと熱を持っていました。
時間の感覚が、少しずつぼやけていきます。
窓の外の空は、すっかり夜の色。
遠くの山の影が、月明かりでうっすらと浮かび上がっていました。
砦の中は静かで、
時折、遠くの見張り台から、交代を告げる声が聞こえるくらいです。
今、エイドはどこで何をしているのでしょうか。
侍女の話では、彼は夜になっても執務室にこもり、
報告書や地図と向き合っていることが多いのだそうです。
「団長様は、お酒もあまり飲まれませんし、
娼館に通う暇もないくらい、お仕事ばかりで……」
そう言われて、わたしは少しだけ安心しました。
でも同時に、
じゃあ、その溜め込んだものを、
今夜、妻であるわたしに向けられたらどうしよう、とも思ってしまって。
そんなことを考えては、
自分で勝手に顔を熱くするという、
終わりのない堂々巡りを繰り返していました。
そのとき。
コン、と控えめなノックの音がしました。
身体がびくりと跳ねます。
この時間に、わたしの部屋の扉を叩く人は、一人しか思いつきません。
慌てて立ち上がり、薄いガウンの前を整えました。
喉もとに手を当ててから、
深呼吸を一つ。
扉に近づき、返事の代わりに、
取っ手にそっと手をかけます。
きい、とわずかな音を立てて扉を開けると、
そこには予想どおり、エイドが立っていました。
いつもの鎧ではなく、
簡素なシャツとズボン姿です。
鎧越しに見ていたときよりも、
肩幅の広さや、胸板の厚さがはっきりと分かりました。
それだけで、また胸がどきりとします。
彼は、そんなわたしの動揺など気づいていないように、
廊下側から軽く顎を引きました。
「眠れているか」
最初の言葉は、それだけでした。
わたしは首を横に振りました。
眠れていた、と嘘をつくのは簡単です。
でも、わたしがその嘘をついてしまったら、
彼の問いかけを、最初から拒んでしまうことになる気がして。
エイドは、小さく息を吐きました。
「そうか」
それから、しばらく黙り込んでしまいます。
彼は部屋の中へ入ろうとはせず、
扉の敷居をまたぐこともありませんでした。
廊下のランプに照らされた灰色の瞳が、
こちらをまっすぐに見ています。
何を言おうとしているのか、
あるいは、何を言うべきかを探しているのか。
沈黙が、ほんの少しだけ伸びました。
でも、その沈黙は、
公爵家の晩餐で味わった、
冷たい種類のものとは違っていました。
やがて、エイドは、
自分の中で言葉を選び終えたように、
低い声で続けました。
「契約婚だ」
短い前置き。
わたしは瞬きをします。
その言葉が続ける先を、
どこかで恐れ、どこかで期待しながら。
「契約婚だ。だから今夜、何もしない」
その一言は、
想像していたどんな言葉よりも、
あっさりとしていました。
でも、そのあっさりさが、
胸の奥にするりと入り込んできます。
「何もしない」と言われて、
最初に感じたのは、安堵でした。
情けないほど、体から力が抜けました。
次にやってきたのは、
自分でも驚くくらいの、かすかな物足りなさ。
そんな気持ちがよぎったことに気づいて、
自分の顔が一気に熱くなります。
わたしは慌てて視線を落としました。
エイドは、わたしの変化には触れず、
少しだけ声の調子を変えました。
「……嫌なことを、させられてきたのなら」
その続きは、
慎重に石を置いていくような口調でした。
「ここでは、二度とさせない」
心臓が、ぎゅっと掴まれたような感覚がしました。
彼が想像している「嫌なこと」が、
具体的にどこまでのことなのかは、分かりません。
でも、その言葉の奥には、
戦場で傷を負った兵たちや、
身を守る術のない民たちを見てきた人の、
決意のようなものが感じられました。
誰かに強いられた痛みを、
これ以上重ねさせない。
それが、彼なりの「守る」の形なのだと、
直感で分かりました。
喉の奥が熱くなって、
声なき声がせり上がってきます。
ありがとうございます、と言いたくて。
でも、やはり声は出ません。
わたしは代わりに、
扉の縁を握った手に力を込めました。
エイドが、その指先を一瞬見て、
わずかに頷きます。
「眠れないなら、窓を少し開けて星でも見ろ。
この辺りは王都より空が近い」
ぶっきらぼうな言い回し。
けれど、その一言には、
さっきまでの緊張をやわらげようとする、
ささやかな気遣いが含まれていました。
星を見ろ、なんて言われたのは初めてです。
今まで誰かに、
「眠れない夜の過ごし方」を教わったことなんてありませんでした。
エイドは、それ以上何も言わず、
「おやすみ」と言う代わりのように軽く顎を引くと、
踵を返しました。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていきます。
その音が聞こえなくなるまで、
わたしは扉の前で立ち尽くしていました。
扉を閉めてから、
ゆっくりと鍵を回します。
カチリ、と昼間と同じ音が響きました。
でも今は、その音が、
「誰も無理に入り込んでこない」という約束に聞こえます。
ベッドへ戻り、
エイドの言葉どおり、窓を少しだけ押し開けました。
冷たい空気が、すっと室内に流れ込んできます。
肩まで毛布をかぶりながら、
窓枠にもたれて夜空を見上げました。
砦の上に広がる空は、
王都で見たどの夜よりも、
星が多く瞬いていました。
細かな光が、
黒い布に刺した銀糸のように散らばっています。
静かでした。
でも、昼間まで感じていたような、
息苦しい静けさではありません。
喉もとの首飾りは、相変わらず冷たく、
わたしの声を封じています。
それでも、胸のあたりだけは、
ほんのりと温かくなっていました。
何も起こらなかった初夜。
誰にも触れられず、
誰かの都合を押しつけられることもない夜。
扉の向こうに、
必要ならば守ってくれる誰かがいて、
それでいて、無理に踏み込んでこないという、
不思議な距離の夜。
その全部が、わたしにとっては新しくて。
星を数えるうちに、
まぶたが重くなってきました。
ベッドへ戻り、毛布を引き寄せます。
目を閉じる直前、
耳を澄ませても、何の物音もしませんでした。
ただ、砦の石壁に守られているという感覚と、
扉の向こうにいる彼の存在だけが、
静かにそこにありました。
わたしは、声のないまま、
胸の中でそっとつぶやきます。
おやすみなさい、エイド様。
その言葉が、喉で消えてしまっても。
今夜の沈黙は、
もう「恐怖」ではなく、
やさしい静けさとして、
わたしの中に刻まれていくのだと感じながら。
ゆっくりと、眠りに落ちていきました。




