表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
声を失った花嫁は、沈黙の騎士に愛を教わる  作者: しげみちみり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/21

第6話 最初の食卓

 砦で最初の夜を迎えて、私はさっそく「試練」の場に立たされることになりました。


 食堂へ、と声をかけに来てくれた侍女に案内されて、長い廊下を歩きます。

 階段を下りるたび、煮込みと焼いた肉の混ざった、香ばしい匂いが濃くなっていきました。


 扉の向こうからは、男の人たちの笑い声が聞こえます。

 鍋をよそう音、椅子が引かれる音。


 公爵家の食卓とはまるで違う、ざわざわとした温度。


 私は無意識に、喉の首飾りを押さえました。

 ここでも、きっと好奇の視線を向けられるだろうと思ったからです。


「大丈夫ですわ、お嬢……いえ、奥様」


 隣の侍女が、小さく励ますようにささやきます。


「団長様は、兵のみなさんにもきちんとお話ししてくださるはずですから」


 その言葉に、少しだけ肩の力を抜こうとして。

 うまくいかなくて、苦笑しそうになりました。


 扉の前で一度深呼吸をすると、侍女がノックしてから、重たい木の扉を押し開けました。


 砦の食堂は、思っていたよりも広くて明るかったです。


 中央にどん、と置かれた長机が二列。

 その周りに、質素ですが頑丈そうな椅子がずらりと並んでいます。


 壁際には、大きな暖炉。

 炎のオレンジ色が、灰色の石壁を柔らかく照らしていました。


 大鍋に入れられたシチュー、山盛りの黒パン、焼いた肉と根菜の皿。

 簡素ですが、どれも湯気を立てていて、とても温かそうでした。


 そんな食卓を囲んでいた騎士たちが、一斉にこちらを振り向きます。


「……」


 一瞬、空気が止まりました。


 視線が集まるのは、慣れているはずでした。

 公爵家でも、客人の前に飾り物のように座らされることが多かったからです。


 けれど、ここで注目されるのは、家の看板としてではなく。

「騎士団長の妻」として。


 その違いが、思った以上に重く感じられました。


「席をあけろ」


 低い声が響きます。


 すでに席についていたエイドが立ち上がり、無造作にそう言いました。


 命令はそれだけなのに、動きは素早かったです。


「はっ」


「団長の隣を空けろ!」


 近くにいた兵士たちが、慌てて皿を持って席を詰めていきます。

 長机の片側、上座に近い席がぽっかりと空きました。


 エイドがそこを顎で示します。


「ここだ」


 私はうなずいて、ドレスの裾をさばきながら椅子に腰を下ろしました。


 こんな場所に座ることが許されるなんて、少し前の私からは想像できません。


 公爵家の食卓で、父の隣に座るのは兄で、

 私はいつも、端の方で静かに皿をつついていましたから。


「奥方様、お口に合うといいんですが」


 向かいの席に座る中年の騎士が、気さくな口調で言いました。


「この砦の料理は、見た目は質素ですが、味はそこそこ自慢できるんですよ」


「お前が自慢するところじゃないだろう。

 作っているのは台所の連中だ」


 隣の年配の兵が肩を小突き、食堂に小さな笑いが走ります。


 そんなやりとりを見ながら、私は微笑みだけ返しました。


 言葉で返事をする代わりに、背筋を伸ばして、ひとつひとつの皿を見つめます。


 それだけでも、興味と感謝は伝わるはずだと信じて。


「ほら、奥様にシチューを」


「パンも回せ」


 あちらこちらから声が飛び、皿が私の前に集まってきます。


 エイドが、さりげなく手を伸ばしました。

 大鍋からシチューをよそい、私の皿にたっぷりと注ぎます。


 湯気と一緒に、ハーブと肉の匂いが立ちのぼりました。


 その手際は慣れているようでいて、

 どこかぎこちなくもありました。


 妻の皿に料理を取り分ける、という行為そのものが、

 彼にとっても初めてなのだろうと、ふと思います。


 私は首を少し傾けて、彼を見上げました。


 エイドは視線に気づいたのか、ほんの一瞬だけこちらを見て、

 すぐに自分の皿へと視線を戻しました。


 何も言わないその横顔が、なぜか少し照れているように見えたのは、

 きっと私の思い込みです。


「頂きます!」


 一人の騎士が大きな声をあげ、それに続いて、あちこちで「頂きます」と声が重なりました。


 私は声に出す代わりに、胸の中でそっと言ってから、スプーンを取りました。


 一口、シチューを口に運びます。


 よく煮込まれた肉はやわらかく、

 野菜もとろりとしていて、口の中で崩れていきました。


 塩気は少し強いけれど、冷えた身体にはちょうどいいくらいです。


 こくりと飲み込んで、胸の奥が温かくなるのを感じました。


 皆が談笑しながら食事を進めていく中で、

 ぽつぽつと、私に向けられる視線があります。


「団長の奥方様、綺麗だな」


「ほんとだ。もっと怖い人を想像してた」


「だが喋らないって話だろう?」


 聞こえないふりをすればいいのに、

 どうしても耳が拾ってしまいます。


 それでも、今のところは悪意のある言葉ではありません。


 本音の温度は、少しの好奇心と、少しの戸惑い。


 そう思って、胸の中で飲み込んでいきます。


 そのときでした。


「あの、奥様」


 向こう側の列から、控えめな声が飛んできました。


 二十歳くらいでしょうか。

 まだ少年の面影を残した、茶色い髪の騎士が、

 こちらをおずおずと見ています。


 さっき、門で慌てて頭を下げていた兵士です。


 彼はスプーンを持ったまま、少しだけ身を乗り出しました。


「その……喉の、そのアクセサリー、すごく綺麗ですね。

 黒い宝石なんて、あまり見たことがなくて。

 何か、特別な意味があるんですか?」


 食堂のざわめきが、すっと引きました。


 あ、と誰かが小さく息を呑む気配。


「おい、やめとけ」


 隣の騎士が、慌てて彼の肘をつつきました。


「わ、悪気はないんです!

 ただ、気になって……」


 若い騎士は、本当に無邪気にそう言いました。


 彼の本音も見えています。


 知らない人を傷つけるつもりなど、これっぽっちもない。

 ただ、目についたものについて、素直に疑問を口にしただけ。


 私は、咄嗟に喉もとへ手をやりました。


 冷たい石の感触。


 この首飾りにまつわることを語れば、

 場の空気は、もっと重くなってしまうでしょう。


 それ以前に、私は声を出すことができません。


 言葉を選ぶことすら許されない。


 どうしよう、と胸が締めつけられた瞬間。


「それ以上は詮索するな」


 低い声が、私の隣から落ちました。


 エイドの声です。


 彼は、手にしていたパンを皿に置き、

 若い騎士をまっすぐに見ました。


 その灰色の瞳は、怒鳴りつけるわけではなく。

 ただ、少しだけ冷ややかに見えるだけで、十分でした。


「団長……」


「ここにいる以上、必要なのは、喉の飾りの由来ではない。

 誰が、どこに座るかだ」


 静かにそう告げると、食堂中の視線が、一斉に若い騎士から外れていきます。


 誰かが、わざとらしくシチューをすくいました。


「で、でも、俺は、その……」


「クルト」


 名前を呼ばれた若い騎士が、びくりと肩を震わせました。


 エイドは、その動揺を受け止めるように、

 少しだけ声の調子を落とします。


「お前の好奇心は、戦場で生かせ。

 味方の傷と関係のないところに向けるな」


 クルトと呼ばれた騎士は、真っ赤になって頭を下げました。


「す、すみませんでした、奥様……!

 その、嫌な気持ちにさせるつもりはなくて……」


 彼の本音が、直接胸に飛び込んできます。


 恥ずかしさと、後悔と、心からの謝罪。


 私は首を振って、小さく微笑みました。


 大丈夫です、と伝えたくて。

 喉が震えても、声は出ません。


 エイドが、その様子を横目で見ました。


「奥方は気にしていない」


 代わりに、彼がそう言います。


「だが、二度は言わせるな」


 最後のひと言だけ、少しだけ厳しく。


 それで十分でした。


 張りつめていた空気が、ゆっくりと溶けていきます。


「お、おかわりどうぞ!」


「パン、そっちに回せ」


 誰かが話題を変えようと、わざと明るい声を出しました。


 そのぎこちない優しさに、思わず胸が温かくなります。


 それからの食事は、先ほどよりも少し静かになりましたが、

 決して居心地の悪い沈黙ではありませんでした。


     ◇


 食事のあと、私は一足先に席を立ちました。


 大勢の前に長くいると、どうしても疲れてしまうからです。


 エイドは、兵士たちに確認したいことがあるのか、

「先に戻っていろ」とだけ言って、食堂に残りました。


 部屋へ帰る途中、私は廊下の壁にもたれて、一度立ち止まりました。


 心臓が、まだ少し早く打っています。


 さっきのクルトという騎士の顔を思い出しました。

 それから、エイドの横顔も。


 無神経な質問だった、と言ってしまえば簡単です。


 けれど、私には、そんなふうに切り捨てることはできませんでした。


 あの人は、本当に、ただ知りたかっただけなのです。


 それでも、その一言で、

 私が過去に押し込めてきた痛みが、少しだけ顔を出しそうになりました。


 私は胸元を押さえながら、部屋の扉の前へと戻りました。


 鍵を開け、中へ入ります。


 まだ慣れない、自分だけの空間。


 机の上には、昼間に置いた紙束とペンがあります。


 私は椅子に腰を下ろし、一枚、紙を引き抜きました。


 さっきの食卓で感じたことを、何か一つでいいから、

 言葉にしておきたいと思ったのです。


 ペン先を紙に落とし、ゆっくりと書きました。


『皆さんにご迷惑をかけてしまって、すみません』


 書いてから、少しだけ考えます。


 本当に謝るべきなのは私なのか、クルトなのか。


 そんなことを考える自分が、少し可笑しくて、

 小さく笑いそうになりました。


 それでも、紙にはそのまま残します。


 謝罪の言葉より先に、感謝の言葉を書けるようになるには、

 まだ少し時間が必要な気がしたからです。


 紙を折りたたみ、部屋を出ました。


 廊下の向かい側には、エイドの部屋の扉があります。


 昼間、彼が言っていた言葉を思い出しました。


「困ったことがあれば、扉の下に紙を滑り込ませてくれ。

 夜でも構わない」


 これは、困ったことと言えるのかどうか、少し迷います。


 けれど、胸の中に引っかかったままの思いを

 どこかに預けておけるなら、それはきっと「助けて欲しいこと」のひとつです。


 私はしゃがみ込んで、紙を扉の下の隙間にそっと差し込みました。


 ゆっくりと押し込むと、向こう側へ滑っていきます。


 立ち上がりかけたとき。


 部屋の中から、足音が聞こえました。


 思ったより早く、紙に気づいたようです。


 ふいに扉が開いたらどうしよう、と一瞬焦って、

 私は慌てて自分の部屋の方へ向き直りました。


 そのときにはもう、鍵を開ける音が、エイドの部屋の中から聞こえてきていました。


 自分の部屋に飛び込むほど幼くはないつもりでしたが、

 それでも扉の前で、落ち着かない気持ちで立ちつくします。


 やがて、廊下の向こうから、低いノックの音がしました。


「リシェル」


 名前を呼ばれて、私は扉を開けました。


 そこには、紙を一枚手に持ったエイドが立っていました。


 彼は、私と目が合うと、少しだけ眉を寄せました。


「……謝る必要はない」


 開口一番、そう言いました。


 どうやら、紙を読んだあとで、そのまま持ってきてしまったようです。


 私は目を瞬かせました。


 否定されるとは思っていませんでした。


 紙に書く言葉を考えているときには、「うん」と受け取られて、

 そのまま片付けられる未来しか想像していなかったからです。


 エイドは、ちらりと紙を見下ろしてから、

 少しだけ視線をそらしました。


「……待て」


 それから、自分でも言葉が足りないと感じたのか、

 踵を返して部屋の中へ消えました。


 扉は開いたままです。


 しばらくして、彼はペンを持って戻ってきました。


 紙の裏側を扉に当てて、立ったまま何かを書きつけます。


 そして、それを私の方へ差し出しました。


 そこに書かれていたのは、たった一行でした。


『迷惑なら連れてこなかった』


 私は、その文字を見つめました。


 静かな字でした。


 力強くもなく、弱々しくもなく。

 ただ、迷いなく書かれた線。


 迷惑なら連れてこなかった。


 つまり、ここにいることは、迷惑ではないと。

 少なくとも、彼にとっては。


 それだけの意味だと分かっているのに。


 胸の奥が、じわりと熱くなりました。


 公爵家では、私がそこに「いること」そのものが、

 いつも厄介ごとの種のように扱われていました。


 そのせいで、私は自分の存在を、

 どこかで迷惑なものだと感じ続けてきたのだと思います。


 その前提を、たった一行で否定されてしまったようで。


 どんな表情を浮かべればいいのか分からなくなりました。


 気づけば、紙を持つ指先が、少し震えています。


 エイドは、その様子をじっと見ていました。


 何か言いかけて、またやめたように、

 喉元がわずかに動きます。


 言葉が出てこないのは、私だけではないのだと、

 そんなふうに思えて、少しおかしくなりました。


 私は、喉の宝石をそっと押さえながら、頭を下げました。


 ありがとう、と胸の中で何度も繰り返します。


 今度は紙を使う余裕がなくて、

 その言葉を文字にすることはできませんでしたが。


「……もう遅い。休め」


 エイドは、少しだけ視線をそらしながら言いました。


「明日は、城内の案内をする。

 食堂の時間は変わらない」


 それだけ告げると、くるりと背を向け、

 自分の部屋へ戻っていきました。


 扉が閉まる音がして、廊下は静けさを取り戻します。


 私は紙を胸に当てたまま、しばらくその場に立ち尽くしました。


『迷惑なら連れてこなかった』


 その言葉が、紙の上だけでなく、

 胸の中にも刻み込まれていきます。


 公爵家でも、王城でも聞いたことのない種類の肯定が、

 じわじわと染み込んできました。


 部屋に戻り、扉の鍵を閉めてから、

 机の引き出しをそっと開けました。


 そこに、今日もらった紙片をしまいます。


 マントの温度と同じくらい、大切なものとして。


 たった一日のうちに、ここで手に入れた「小さな守られたもの」が、

 少しずつ増えているのを感じながら。


 私はベッドに腰を下ろし、灯りを落としました。


 眠りにつく直前まで、

 あの一行の文字が、何度もまぶたの裏に浮かんでいたのは、言うまでもありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ