第5話 砦の新しい部屋
辺境の砦は、思っていたよりも「城」でした。
高い石壁が、空を切り取るように立っています。
灰色の石が積み上げられた門塔、その上を巡回する兵士の姿。
王都の城のような華やかさはありません。
けれど、そのかわりに、余計な飾りもありませんでした。
無駄を削ぎ落としたぶんだけ、そこにあるのは「守るためのかたち」だけ。
馬車から降りた瞬間、冷たい風が頬を撫でました。
王都とは違う匂いがします。
湿った土と、遠くの森の匂い。
それから、鎧の金属と油の混ざった、鉄の匂い。
「お疲れさまでした、団長」
「お帰りなさいませ」
門の内側で待っていた兵士たちが、一斉に敬礼しました。
エイドは、短くうなずくだけでした。
「異常は」
「特にありません。西の森で魔獣の目撃情報がありましたが、
偵察の報告では、すでに北へ移動したとのことです」
「分かった。詳細はあとで聞く」
淡々としたやりとり。
けれど兵士たちの表情は、安堵と尊敬が混ざったものに見えました。
王都で聞いた「冷酷な騎士団長」という噂から想像していたものとは、少し違います。
私の方をちらりと見て、若い兵士の一人が目を丸くしました。
「この方が……」
「奥方様だ。後で紹介する。今は通してくれ」
エイドが短くそう言うと、兵士は慌てて頭を下げました。
「し、失礼いたしました! 奥方様、ようこそ第一騎士団の砦へ!」
奥方様。
その呼び方に、胸のどこかがむずがゆくなりました。
立場としては、たしかにそうなのです。
一年間だけの、形式上の妻。
けれど、自分がその言葉にふさわしいとは、とても思えませんでした。
それでも、彼らの前では、喉の宝石に触れないようにしながら、小さく会釈します。
砦の中に入ると、外から見た印象よりずっと明るく感じられました。
壁はたしかに灰色の石ですが、ところどころに掛けられたランプが、黄色い光を落としています。
床はきれいに掃き清められ、窓枠も磨かれていました。
戦う人の場所だからといって、雑で荒れているわけではないのだと分かります。
こういうところにも、その人の性格はにじみ出るのだと、父の書斎を思い出して少しだけ思いました。
「こちらです」
エイドが歩き出し、私はその少し後ろをついていきました。
通路を進む間にも、何人かの兵士とすれ違います。
皆、エイドを見ると姿勢を正し、敬礼しました。
そのたびに彼は、軽くうなずくだけ。
余計な言葉は、本当にほとんど口にしない人なのだと分かります。
廊下の奥、少し静かな一角にたどり着きました。
そこには、向かい合うように二つの扉が並んでいました。
一つは、重たい木でできた扉。
もう一つは、少しだけ装飾の入った、柔らかな印象の扉。
エイドは、装飾のある方の前で立ち止まりました。
「ここだ」
鍵を回して扉を開けると、ふわりと冷たい空気が流れ出てきます。
まだ人の気配の薄い空気。
けれど、埃の匂いはしませんでした。
中へ一歩入った瞬間、胸の奥がふっと揺れました。
それは、「私だけの部屋」でした。
広すぎず、狭すぎない空間。
壁は石ですが、窓が大きく取られていて、そこから遠くの森と空が見えます。
窓際には、小さなテーブルと椅子。
中央には、ひとりで寝るにはじゅうぶんな大きさのベッド。
厚手の毛布と、ふかふかの枕。
壁際には、衣服を掛けるための棚と、鏡付きの小さな化粧台。
どれも装飾は控えめですが、きちんと手入れされた、質のよいものばかりでした。
贅沢ではないけれど、粗末でもない。
誰かが、「ここで過ごす人」のことを考えて選んだ家具だと、すぐに分かりました。
私は思わず、その場で立ち尽くしてしまいました。
公爵家では、こういう感覚を知ることがなかったからです。
子どもの頃から、私は客間を転々としていました。
誰かが来るたびに、用意された部屋が変わります。
いつの間にか、「ここは私の部屋」と呼べる場所は、屋敷のどこにもなくなっていました。
家具も、私のために選ばれたものではありません。
屋敷に最初からあったもの、あるいは、客人をもてなすために整えられたもの。
私は、それらの間借り人のようなものにすぎませんでした。
でも、この部屋は。
椅子の高さも、ベッドの位置も、窓の向きも。
すべてが、「誰かがここを使うこと」を前提に置かれていました。
その「誰か」に、私の名前があてはめられているとしたら。
上手く息ができなくなってしまいそうでした。
エイドが、部屋の中を一度ぐるりと見渡します。
「家具は、必要最低限だが、一応揃えさせた」
それから、窓の方を指さしました。
「天気がよければ、森の向こうに山が見える。
風は強いが、眺めは悪くない」
淡々とした口調。
でも、その言葉には、どこか「確認するような」響きが混ざっていました。
気に入らないようなら、言え。
そう続けたいのに、言う術を知らない人の声。
私は、喉もとに触れてから、小さく首を振り、微笑みました。
大丈夫です、と伝えたくて。
きっと、そのくらいなら伝わったはずです。
「困ったことがあれば」
エイドは、今度は扉の方を振り返りました。
「ここから出て、向かいの扉が俺の部屋だ。
それが嫌なら、扉の下に紙を滑り込ませてくれ。夜でも構わない」
夜でも構わない。
その言い方が、私には少し不思議でした。
公爵家では、夜に誰かを頼ることなど許されませんでした。
困ったことがあっても、朝まで待つのが当たり前。
それが当然だと教えられてきたから。
扉の下に紙を滑り込ませるという発想も、新鮮でした。
私は目を瞬かせたあと、慌てて鞄から紙とペンを取り出しました。
聞きたいことが、一つだけあったからです。
『ここを用意してくださったのですか』
紙にそう書いて、エイドの方へ差し出します。
彼は、受け取った紙をじっと見つめました。
灰色の瞳が、文字の形をなぞります。
一拍、間が空きました。
そして、ほんの少しだけ目をそらしてから、短く答えました。
「当然だ」
それは、あまりにもそっけない言い方で。
でも、続いた言葉が、胸の奥に真っ直ぐ落ちました。
「妻の部屋だ」
妻の部屋。
私の、ではなく。
「妻の」と、当たり前のように言ったその一言。
紙の上の文字よりも、その声の響きの方が、ずっと鮮明に心に残りました。
エイドは、私の返事を待つことなく、くるりと背を向けました。
「荷物は後で運ばせる。
城内の案内は、明日、日が高くなってからでいいだろう」
そう言って廊下に出ると、扉の取っ手に手をかけます。
閉まる直前。
彼は一度だけ振り返りました。
「……休め」
それだけを言って、扉は静かに閉まりました。
部屋の中には、私ひとり。
久しぶりの、誰の視線もない空間。
心臓の音が、やけにはっきりと聞こえました。
「妻の部屋だ」
エイドの声が、何度も頭の中で再生されます。
義務婚だと分かっています。
一年だけだと決められています。
それでも、その一年のために、
誰かが部屋を整え、家具を選び、「妻のための場所」として用意してくれたことは。
私にとって、初めての経験でした。
窓辺に近づいて、外を見ました。
遠くに、薄く山の影が見えます。
森の上を、風が渡っていきます。
公爵家の庭から見ていた整えられた景色とは違う、荒々しい風景。
でも、ここからなら、誰に気兼ねすることもなく、
好きなだけ空を眺めていてもいいのだと思うと。
胸の奥が、少しだけ軽くなりました。
ベッドの端に腰を下ろします。
マットレスが、やわらかく沈みました。
ここで眠るのだ、と実感がわいてきて。
同時に、妙な落ち着かなさも込み上げてきます。
この部屋は、本当に私のものなのだろうか。
明日になったら、「やはり別の部屋を使え」と言われたりしないだろうか。
そういう不安が、長い習慣のように顔を出します。
けれど、そのたびに、さっきの言葉が重なりました。
「妻の部屋だ」
その一言は、今のところ、誰にも否定されていません。
私は立ち上がり、扉の方へ歩いていきました。
内側から鍵を確かめるためです。
取っ手の少し上に、小さな鍵穴がありました。
恐る恐る、備え付けられていた鍵を差し込みます。
ゆっくりと回すと、小さく金属が噛み合う音がしました。
カチリ。
それは、思ったよりも静かな音だったのに。
私には、自分の中で何かが変わる合図のように聞こえました。
今この瞬間だけは。
この部屋の内側にいる私のことを、
私自身が「守っていい」と許されたような気がしたからです。
扉にもたれかかって、目を閉じました。
公爵家では、内側から鍵をかけたことはほとんどありません。
鍵が必要なほど、誰も私のことを気にかけていなかったから。
ここでは、自分で鍵を回すことができます。
誰かを締め出すためではなく、
自分の心を落ち着かせるために。
小さく息を吐き、ベッドへ戻りました。
窓から差し込む夕暮れの光が、部屋の中を淡く染めています。
私は靴を脱いで、ベッドの上に座り込みました。
天井を見上げると、石の模様が目に入ります。
今日は、いろいろなことがありすぎて、
頭の中がまだ追いついていません。
それでも。
喉もとの首飾りを指先でなぞりながら、
ひとつだけはっきり分かることがありました。
この砦での一年が、どんな結末を迎えるとしても。
「妻の部屋」と呼ばれたこの場所の記憶は、
きっと私の中で、特別なものとして残り続けるだろうということ。
そう思いながら、私は初めて、自分の意志で鍵をかけた部屋で、
ゆっくりと眠る準備を始めました。




