第4話 辺境への馬車
王城を出てから、どれくらい時間がたったのでしょう。
馬車の中には、車輪が土を踏む音と、馬のいななきだけが続いていました。
窓の外には、さっきまで見上げていた高い城壁はもうありません。
代わりに、柔らかな丘と、ところどころに散らばる森が広がっていました。
王都から離れれば離れるほど、空の色が少しずつ変わっていく気がします。
ここから先が、私の「一年間の家」になる場所へ続いているのだと思うと。
胸の中で、何かがふわふわと浮いたまま、落ち着いてくれませんでした。
向かいの席には、エイドが座っています。
銀の鎧は、旅の邪魔にならない程度に簡素なものに替えられていましたが、
それでも、私のドレスよりずっと重そうでした。
彼は腕を組み、目を閉じています。
眠っているのか、考え事をしているのか。
それとも、黙ったままでも威圧感があるのは、騎士団長だからなのか。
どれなのか分からないので、私はただ、視線を窓に向けました。
王都の外に出るのは、久しぶりでした。
幼いころに一度だけ、母と馬車に乗って、避暑地の別邸に行ったことがあります。
あのときは、窓の外の景色を指さして、いちいち感想を言っては、
母に「静かにしなさい」と注意されていました。
今は、どれだけ何かを感じても、口からこぼれる言葉はありません。
代わりに、胸の中にだけ、小さな感想を集めていきます。
畑で手を振る子ども。
荷車を引く農夫。
遠くに見える小さな村。
どの景色も、屋敷の窓から眺めていた庭とはまったく違っていて。
それを、嬉しいと受け取っていいのかどうかも、自分で決められないままでした。
ふと、馬車の隙間から、冷たい風が入り込んできました。
秋と冬の境目のような空気です。
昼間の陽射しはまだ柔らかいのに、影に入ると途端に冷えます。
薄いドレスの袖を押さえた指に、鳥肌が立ちました。
肩をすくめて、少しだけ身を丸めます。
その動きを見ていたわけでもないのに。
向かいで目を閉じていたはずのエイドが、ゆっくりとまぶたを開きました。
灰色の瞳が、こちらを捉えます。
私は慌てて視線を落としました。
じっと見つめ返すほどの度胸はありません。
沈黙が、さっきまでより重く感じられました。
私が何か言えるなら。
「少し寒いです」とか、「すぐ慣れます」とか、
当たり障りのない言葉を選んで、場をやわらげることもできたのかもしれません。
でも、私の喉は、黒い宝石に塞がれたままです。
ぎゅっと袖を握った指だけが、「寒い」と訴えていました。
次の瞬間。
視界の端で、暗い布が揺れました。
エイドが、肩にかけていたマントを外しています。
深い紺色の厚手の布。
縁には簡素な刺繍が施され、内側には、冷気を遮るための柔らかい裏地がついていました。
彼はそれを、何の前触れもなく、私の肩にそっとかけました。
「……」
言葉はありませんでした。
けれど、重さと温かさが、一度に肩に落ちてきます。
予想していた以上に、マントは重くて、あたたかくて。
思わず、首飾りに触れないように気をつけながら、両手で布の端を握りしめました。
かすかに、革と金属の匂いがします。
いくつもの戦場で風にさらされた布の匂い。
でも、それだけではなく、
陽の光に乾かされたような、少し落ち着く香りも混じっていました。
守られている。
そう感じるのは、ずいぶん久しぶりでした。
屋敷では、誰かに囲われていることはあっても、守られていると感じたことはありません。
エイドは、私の様子を確認するように一度だけ視線を向けると、
またもとのように腕を組みました。
今度は目を閉じることはせず、窓の外をちらりと見ています。
「……寒さに慣れていないだろう」
ぽつりと、彼が言いました。
低い声。
でも、責めるような響きはありません。
私は目を丸くしてから、慌てて首を振りました。
大丈夫です、という意味。
けれど、マントを返す勇気はありませんでした。
返してしまったら、この温度まで一緒に手放してしまう気がしたからです。
喉の奥から、何かがあふれそうになりました。
ありがとうございます。
本当は、その一言を伝えたいのに。
声は、やはり空気に変わってしまいます。
代わりに、膝の上の小さな鞄に手を伸ばしました。
旅の荷物は、ほとんど侍女が別の馬車に積んでいます。
私のそばにあるのは、ハンカチと、香油の小瓶と、
それから、父の書斎からこっそり持ち出してきた、薄い紙束だけ。
紙束を取り出すと、エイドが少しだけ眉を動かしました。
私は、彼の視線を感じながら、紙と小さなペンを膝に置きます。
一枚、紙をはがしました。
震えないように意識しながら、ゆっくりと文字を書きます。
『ありがとうございます』
それだけを書いて、紙を少しだけ折りました。
馬車の揺れで落とさないように気をつけながら、
向かいの席のエイドへ、両手でそっと差し出します。
彼は、すぐには受け取りませんでした。
少しだけ戸惑うようにまばたきしてから、
手を伸ばし、紙を受け取ります。
指先が、一瞬だけ私の手に触れました。
それだけで、心臓が跳ねました。
彼は紙を開き、静かに目を通します。
灰色の瞳が、書かれた文字の上をなぞりました。
そして、ごく短い沈黙のあと。
「……ああ」
小さく、それだけを言いました。
返事としては、とても簡単で、そっけないものかもしれません。
でも、それはたしかに、私に向けられた言葉でした。
王の前で交わされた形式的な誓いではなく。
父や母が、家の名誉のために並べた言葉でもなく。
私が書いた一文に対して、彼自身が返してくれた、最初の言葉。
胸の奥が、じんわりと温かくなりました。
紙を返されることはありませんでしたが、
それはそれでよいような気がしました。
馬車は、相変わらず同じ速さで揺れています。
窓の外の景色は流れていき、王都の影はもう見えません。
さっきまで、馬車の中の沈黙は、私の喉を締めつけるような重さを持っていました。
今は少し違います。
沈黙は沈黙のままなのに。
その中に、ほんの少しだけ、安心が混ざっていました。
布一枚分の重みと温度。
紙一枚分の文字と返事。
それだけで、人と人の距離は、こんなにも変わるのだと知りました。
エイドは、窓の外の森を眺めながら、口を開きました。
「砦は、王都より寒い。
雪も積もる。……服も、順に整えさせる」
説明のような、約束のような言い方でした。
私は彼の横顔を見つめてから、マントの中で小さくうなずきます。
それを見たのかどうかは分かりませんが。
エイドの口元が、ほんのわずかに緩んだ気がしました。
気のせいかもしれません。
けれど、誰かの冷たいと噂された表情の中に、
自分だけが気づける小さな変化を見つけたようで。
私だけの秘密を一つもらえたみたいに、嬉しくなりました。
馬車は、ゆっくりと揺れながら、辺境の道を進んでいきます。
窓から吹き込む風はまだ少し冷たいけれど。
肩にかけられたマントと、向かいの席の存在は、
それを十分に打ち消してくれるくらい、あたたかかったのです。




