第3話 沈黙の初対面
王城の大扉は、公爵家のものよりずっと重たく感じました。
金と青で彩られた扉が、衛兵たちの手によってゆっくりと開いていきます。
中から、ひやりとした空気と、たくさんの視線の気配が流れ出てきました。
「リシェル様、どうかお足元にお気をつけて」
付き添いの侍女が、小さくささやきます。
私はうなずいて、ドレスの裾を指でつまみました。
純白の布が、床を引きずらないように。
喉もとの黒い宝石が、目立ちすぎないように。
そう願いながら、赤い絨毯の上に、一歩足を踏み出します。
謁見の間は、思っていたよりも広くて、冷たくて、きらびやかでした。
高い天井には、星のような模様が描かれています。
両脇を固める大理石の柱、壁に立てかけられた旗。
そこに刺繍されているのは、この国の紋章。
そして、左右に並ぶのは、王家に仕える貴族たち。
みな、私を振り返り、目を細めて観察していました。
「……あれが公爵家の娘か」
「喋れない花嫁だとか」
「教会の呪具まで使ったと聞いたが」
胸の奥で、彼らの本音がざわめきます。
表に出てくる言葉よりも少しだけ、冷たい温度で。
私は、それを聞き流すように、視線を真っ直ぐ前に向けました。
玉座の前で止まり、膝を折ります。
紅い絨毯にレースが広がり、純白の裾が花のように広がりました。
首飾りの黒い宝石が、王の前でかすかに光ります。
「顔を上げなさい、公爵令嬢リシェル・フローレンス」
王の声は、老いてはいるけれど、よく通る声でした。
私はゆっくりと顔を上げます。
玉座には、王と王妃が並んで座っていました。
その少し斜め後ろ、王の右手側に、一歩進み出た影が一つ。
「こちらが、第一騎士団長、エイド・ヴァルトである」
呼ばれた名に合わせて、その男が前に出ました。
光を受けて鈍く輝く銀の鎧。
肩から垂れた濃紺のマント。
黒い髪は短く刈られ、その下にある瞳は、淡い灰色をしていました。
噂に聞いていた「冷酷な騎士団長」という言葉が、頭の中によみがえります。
人を人とも思わない。
戦場では容赦がない。
敵兵の血で、幾度も鎧を染めてきた男。
そんな噂を抱いて見上げると、彼はたしかに、冷たく見えました。
けれど、血の跡も泥もついていない鎧はよく磨かれていて、
立ち姿には乱れが一つもありません。
ただの噂で片づけてはいけない何かが、その輪郭に宿っている気がしました。
「エイド・ヴァルト」
王が、玉座から彼を見下ろします。
「そなたに命じる。一年間、この娘を妻として迎えよ。
国王の名において結ばれる義務婚である」
「拝命いたします」
エイドは、わずかに頭を垂れました。
その声は低く、よく通ります。
けれど、抑えられた響きで、感情がほとんど乗っていませんでした。
それから、きちんとした礼儀の動作で、私の方を向きました。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見下ろします。
冷たい、という印象。
けれど次の瞬間、その視線は、私の喉もとで止まりました。
黒い宝石。
ほんの一瞬だけ、エイドの眉が、わずかに寄りました。
驚きか、警戒か、それとも別の何かか。
そこまで読み取ることはできませんでしたが。
彼は、噂どおりの無表情ではないのだと、それだけは分かりました。
「これより、婚姻の儀を執り行う」
王の声が響き、側仕えの神官が前に出ます。
聖典を開き、儀式の文言を読み上げ始めました。
私は、父に教え込まれたとおりの姿勢で立ち上がり、
エイドの隣に並びます。
背の高さの差が、思ったよりありました。
肩ほどまでしか届かない私の視界に、銀の鎧の胸当てと、
整えられた顎のラインが入ります。
彼の横顔は、やはり硬くて、無口そうで。
けれど、冷たいだけではありませんでした。
どこか、ずっと前から、自分を締めつける何かと戦ってきた人の顔です。
「……新郎、エイド・ヴァルト。
そなたは神と人々の前で、この者を妻として迎えることを誓うか」
神官の問いかけに、エイドは目を閉じました。
「誓います」
短い言葉なのに。
そのひと言にだけ、少しだけ力がこもっていたように感じました。
「新婦、リシェル・フローレンス」
私の名前が呼ばれます。
胸の奥で、心臓が一つ跳ねました。
「そなたは神と人々の前で、この者を夫として迎えることを──」
神官の視線が、私の喉もとに落ちます。
黒い宝石。
喪声の首飾り。
その意味を、彼もまた知っているのでしょう。
ほんの少し言葉を止めてから、
神官はわずかに王の方を振り返りました。
「……誓いの言葉は、陛下に代読していただきます」
「そうだな」
王は、少しだけ肩をすくめました。
「神に聞こえていればよい。
この娘が声を持たぬことは、皆、承知しておろう」
謁見の間のあちこちから、小さなざわめきが起こりました。
「喋らない花嫁か」
「沈黙の公爵家の娘……。
相手も沈黙の騎士団長とは、よくできておる」
「まさに沈黙の夫婦だな」
ひそひそとした声が交わされます。
私の耳には、彼らの本音も届いていました。
面白がる気持ち。
半分は同情、半分は好奇心。
誰も、私自身の幸福について、本気で想像してはいませんでした。
王は立ち上がり、神官から聖典を受け取ると、
型どおりの誓約の文を読み上げました。
私の名前と、エイドの名前。
「病めるときも健やかなるときも」などの決まり文句。
それらは、私の口から出ることなく、
それでも形式上、私の誓いとして扱われていきます。
不思議な感覚でした。
自分の人生をかけた誓いを、誰かが代わりに喋ってしまうことが。
けれど、抗議の声を上げることはできません。
その権利は、首飾りとともに、ずっと前に置いてきました。
「指輪を」
合図とともに、銀の皿にのせられた二つの指輪が運ばれてきます。
一つは、細い銀に小さな宝石を嵌めたもの。
もう一つは、飾り気のない、太めの銀の輪。
エイドが、太い方を手に取ります。
そして、私の左手を求めるように、わずかに手を差し出しました。
私は、一瞬だけためらってから、自分の手を伸ばしました。
彼の手が、私の指先を包みます。
想像していたよりも、ずっと温かい手でした。
戦場で冷たくなった人の身体を、何度も抱えてきた手なのかもしれないのに。
今、その手は、信じられないほど静かに、私の指を支えていました。
指輪が、薬指の根本まで滑り込みます。
きゅっと肌になじんだ感触がして、私は思わず息を止めました。
彼の指が、ほんの少し、私の手を強く握った気がします。
顔を上げると、エイドは真っ直ぐ前を向いていました。
表情は相変わらず硬くて、何を考えているのか分かりません。
ただ、灰色の睫毛が、かすかに震えているのが見えました。
今度は私の番です。
侍女がそっと、もう一つの指輪を私の手に乗せました。
エイドの左手が差し出されます。
厚い指、固くなった節。
騎士の手。
そこへ、小さな銀の輪を通していきます。
戦場とは縁のない、こんな華奢な儀式のための指輪は、
彼には似合わないのではないか。
そんな場違いなことを考えながら、私は慎重に指輪を押し込みました。
最後まで入ったところで、エイドが、わずかに私の手を支えてくれました。
私が指輪から指を離す瞬間まで。
その指先はずっと、同じ温度でそこにありました。
「よいか」
王の声が、再び謁見の間に響きます。
「本日をもって、公爵令嬢リシェル・フローレンスと、
第一騎士団長エイド・ヴァルトの一年間の婚姻を、ここに認める」
拍手が巻き起こりました。
礼儀正しく、抑えられた音量。
それでも、音は天井に跳ね返り、空気を震わせます。
私は、それがどこか遠くの出来事みたいに感じていました。
エイドが、横目でこちらを見ました。
その視線は、最初の冷たさよりも、少しだけ柔らかくなっています。
そしてまた、喉もとの首飾りに、一瞬だけ目を落としました。
ここに、何があるのか。
なぜ、公爵家の娘が、こんなものをつけたまま王の前に立っているのか。
彼は、きっと知っている。
教会の呪具を見慣れた人の目でした。
口を開きかけて、エイドは何かを飲み込んだように見えました。
私に、何かを尋ねようとしたのかもしれません。
それとも、自分の記憶を思い出したのかもしれません。
けれど結局、彼は何も言いませんでした。
「顔を上げよ、二人とも」
王の声に従い、私たちは前を向いたまま、膝を折って礼をします。
沈黙の新郎。
沈黙の花嫁。
外からそう呼ばれるのなら、
それはそれで、悪くないのかもしれません。
言葉の代わりに、今はただ、繋いだ手の温度だけが、私の頼りでした。
戦場帰りの騎士の手は、思っていたよりも、ずっと人間らしく温かくて。
そのぬくもりが、首飾りの冷たさを、ほんの少しだけ遠ざけてくれるような気がしたのです。




