21話 帰還命令
春の匂いは、
まだ寒い風の中にも
ちゃんと紛れ込んでくるのだと、
その日になって知りました。
砦の中庭に立っている木々の枝先に、
ほんのりと淡い色が
にじみ始めていて。
地面も、雪ではなく
しっとりとした土の匂いを
返してきます。
それは本来なら、
新しい季節の始まりを
喜ぶための空気のはずなのに。
胸の奥は、
なぜかきゅっと固く
結ばれたままでした。
◇
朝。
食堂での朝食が終わる頃、
砦の門番が
慌ただしく駆け込んでくるのが見えました。
「隊長! 王都からの急ぎの書状です!」
息を切らした声が
大広間に響きます。
私は、
スープを飲みかけた手を止めました。
その一言に
何が込められているのか、
まだ聞いてもいないのに
喉の首飾りが
じわりと重たくなるのが分かります。
エイド様は
いつものように
落ち着いた表情のまま席を立ち、
封蝋の押された書状を
受け取りました。
深い赤色の蝋に押された、
王家の紋章。
それは、
この国で
もっとも逆らいにくい重みを持つ印。
封を切る刃の音が、
やけに大きく聞こえました。
「……全員、訓練場に集まれ」
短くそう告げた声に、
騎士たちが椅子を引き、
慌てながらも整列していきます。
私も侍女に促されて
食堂を出ました。
砦の中庭は、
まだ朝の冷気を
そのまま抱えています。
剣ではなく、
言葉を受けるために
集まった輪。
私はその少し外側に立ち、
皆の背に隠れるように
そっと息を潜めました。
◇
「静粛に」
エイド様の声は、
風にも負けない
低い響きを持っています。
彼が
開かれた書状を掲げると、
周囲のざわめきが
すっと消えました。
「王都よりの通達を読み上げる」
騎士たちの視線が
一斉に彼へ向きます。
私の喉の首飾りも、
彼の声の振動に合わせるように
かすかに揺れました。
「契約満了に伴い――」
その言葉で、
胸の中にあった
悪い予感は
形を持ってしまいました。
「公爵令嬢リシェル・エルノアを、
王都へ帰還させること。
王都到着後、
王城および大聖堂の定める
特別儀式に出席させること」
淡々とした声。
どこにも、
彼自身の感情は
混ざっていないように聞こえました。
けれど、
その掌に握られた紙が
少しだけしわになっているのを見て、
私は、
彼にも何か
飲み込んでいる思いがあるのだと
分かってしまいました。
読み上げが終わったあと、
中庭には
すぐには言葉が戻ってきませんでした。
沈黙。
それから、
誰かが小さく息をつく音。
「……奥様が、王都に」
「契約満了って、
まだ半年だろう?」
「早すぎないか……」
押し殺した声が
あちこちから漏れます。
いつもなら
冗談を飛ばしてばかりの若い騎士まで、
今日は真剣な顔で
拳を握っていました。
「奥様がいなくなったら、
花壇も寂しくなるな」
「子どもたちも
泣くだろうな……」
そうやって
こっそり交わされる言葉が、
私の胸の奥で
静かに響きました。
ここで過ごした日々が、
誰かにとって
ちゃんと「何か」になっていたこと。
それが嬉しくて、
同時に
ひどく苦しかったです。
エイド様は
みんなのざわめきを
しばらく黙って聞いてから、
「これは王命だ」
短くそう告げました。
声の調子は
いつも通りで、
感情を乗せないように
よく抑えられていました。
だからこそ、
余計に
冷たく響いたのかもしれません。
「詳細は追って伝える。
各自、持ち場に戻れ」
号令と共に
騎士たちは散っていきます。
しかし、
その多くが
最後に一度だけ
私のほうを振り返っていきました。
心配そうな目。
名残惜しそうな目。
「行かないで」と
口にはしないけれど、
そう言ってくれているような視線。
私は
小さく頭を下げて
それに応えました。
喉は、
相変わらず
何ひとつ音を
許してはくれませんでしたが。
◇
日が傾き始める頃。
私は、
砦の屋上へ上がりました。
ここから見る空が
好きだと知ったのは、
この半年のことです。
公爵家にいた頃、
高いところから
外を眺めることなど
ほとんど許されませんでした。
今は、
風に吹かれながら
遠くの森や山並みを
好きなだけ眺めることができます。
石の手すりに両手を置き、
まだ冷たい空気を胸に入れました。
春の匂いはするのに、
風はまだ
冬の名残を忘れてくれません。
髪に結んだ小さなリボンが、
ぱたぱたと揺れました。
市場で買ってもらった、
あの色とりどりの中から
選んだ一本。
その布切れ一つでさえ、
ここでの暮らしの色を
思い出させてくれます。
「……こんなに、
離れがたくなるなんて」
心の中で
そっと呟きました。
最初にここへ来た日、
私は
ただ一年を
静かにやり過ごせればいいと
思っていました。
喋れない花嫁。
飾りものの妻。
役目が終われば
元の場所に戻されるだけの存在。
そう自分を
決めつけていたのは、
誰でもない
私自身なのに。
いつの間にか、
砦は「役目の場所」ではなく、
「帰る場所」に
近づいていたのだと気づきます。
だからこそ、
帰還命令という言葉には
こんなにも
足元を掬われるような響きが
ついてくるのでしょう。
◇
「……寒くないか」
背後から
聞き覚えのある声がしました。
振り向くと、
屋上への階段から
エイド様が姿を現します。
肩に羽織ったマントが
夕暮れの風に揺れていました。
私は首を振り、
「大丈夫です」と
心の中でだけ答えます。
代わりに、
ポケットから
いつものメモ帳を取り出しました。
『すこし、風が強いですね』
そう書いて
彼に見せると、
エイド様は
紙をちらりと見て
短くうなずきました。
「春になる前には、
必ず一度、荒れる」
ぽつりと
そんなことを言います。
「季節が変わる前には、
どこかが軋むものだ」
その言葉が、
今日の通達と
重なって聞こえてしまうのは、
私が
もういろいろ知ってしまったから
でしょうか。
しばらく、
二人で黙って
遠くの空を眺めました。
沈みかけた太陽が、
雲の端を
柔らかく染めています。
静かな時間。
でも、
胸の中は
静かではありませんでした。
私は、
メモ帳をもう一度開きました。
書くべきか、
書かないべきか。
ペン先が
紙の上で迷います。
けれど、
今ここで
何も聞かないまま
季節だけが進んでしまうことのほうが、
もっと怖く感じました。
私は、
ゆっくりと文字を書きました。
『春になったら、
私は王都へ行くのですね』
それを見せると、
エイド様は
短く「……ああ」と
答えました。
それは
さっきの読み上げを
繰り返しただけの返事。
けれど、
その声の奥に
小さな棘のようなものが
混ざっているのを、
私は聞き逃しませんでした。
ペン先が
また紙の上で動きます。
『私が戻るのは、公爵家でしょうか。
それとも、教会でしょうか』
書いているあいだ、
手が少し震えました。
どちらも、
私にとっては
「帰る場所」という言葉から
遠いところです。
それでも、
どちらかを
選ばなければならないのでしょうか。
エイド様は、
私の書いた文字を
じっと見つめました。
灰色の瞳が、
いつもより
暗く見えます。
彼はすぐには
返事を書きませんでした。
代わりに、
拳をゆっくり握ったり開いたりしてから、
ペンを手に取りました。
そして、
短く一行。
『まだ決まっていない』
そう書かれた文字は、
いつも以上に
不器用で、
ところどころインクが
濃く滲んでいました。
私はその言葉を見つめて、
胸の内で
何度も反芻しました。
まだ決まっていない。
それは、
希望を残してくれる
優しい言葉にも見えるし、
何も守れない
曖昧な言葉にも見えます。
どちらとして
受け取ればいいのか、
私は迷いました。
喉の首飾りが、
ひやりと冷たく
皮膚に貼りついています。
声に出せない私は、
紙に頼るしかありません。
だからこそ、
紙に書く言葉は
より慎重になりました。
私は、
そっとペンを走らせました。
『私はどこにいても、邪魔者なのでしょうね』
そう書きかけたところで、
手が止まりました。
「邪魔者」という
その二文字が、
あまりにも
重く見えてしまったからです。
それは、
今まで散々
自分で自分に
貼ってきた烙印。
簡単に
口にしてはいけないような気がして、
私は慌てて
最後の数文字を
ペンの先で塗りつぶしました。
インクが
じわりと滲んで、
黒い小さな雲のような染みが
紙の上に残ります。
消しゴムのない世界では、
間違えた言葉も、
残してしまった跡も、
全部が
その人の歴史の一部になるのだと
あらためて思いました。
エイド様は、
その滲んだ部分に
ちらりと視線を落としました。
けれど、
何も問おうとはしません。
ただ、
夕暮れの空に目を戻して
静かに言いました。
「……お前がどこにいるべきかを
決めるのは、本来、お前だ」
その言葉は、
風にさらわれるには
少し重たくて。
私の胸の奥に
静かに沈んでいきました。
自分で
居場所を選ぶ。
そんな当たり前の権利を
私が持っているなどと、
考えたこともなかったのに。
喉に触れる鎖は、
まだ固く冷たいまま。
けれど、
心のどこかで、
「いつか本当に
自分で選べる日が来るのだろうか」と、
小さな問いかけが
生まれていました。
屋上を吹き抜ける風は
相変わらず冷たくて、
二人の間の距離も
すぐには縮まりません。
それでも。
黒いインクの滲みと、
「まだ決まっていない」という
一行の文字だけは、
確かに、
ここに残っていました。
それがいつか、
私の選ぶ未来と
繋がっていくのかどうか。
まだ分からないまま、
私は春の気配を含んだ冷たい風を
もう一度だけ
深く吸い込みました。




