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声を失った花嫁は、沈黙の騎士に愛を教わる  作者: しげみちみり


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第2話 一年契約の花嫁

 その日も、私はただ、刺繍をしていました。


 窓辺の椅子に座って、白い布の上に、決められた模様をなぞっていきます。

 花びらの縁を金糸で縫い、そのすぐ脇を銀糸が追いかける。


 何度も繰り返してきた図案でした。

 考えることをやめて、指だけを動かしていればいい。

 声のない私には、それくらいしかできることがありません。


 そこへ、廊下を駆ける足音が聞こえました。


「お嬢様、失礼いたします」


 勢いよく扉が開いて、家令のバルトンが顔をのぞかせます。

 いつもは無駄な音ひとつ立てない人なのに、今日は肩で息をしていました。


「……?」


 私は手を止め、首をかしげます。


「公爵様より、お嬢様をすぐに書斎へお連れするようにとのご命令です」


 そう言って掲げられた銀の盆の上には、重々しい封蝋の押された書状がありました。

 王家の紋章。


 胸の奥が、ゆっくりと冷たくなっていきます。


 私は刺繍枠をそっと卓上に置き、立ち上がりました。

 喉元の首飾りが、かすかに揺れます。


 また、何かが決まったのだろう。


 私の知らないところで。

 私の意志とは関係なく。


 そんな予感が、足元をさらっていきました。


     ◇


 父の書斎は、相変わらず整然としていました。


 本棚は壁一面を覆い、机の上には書類がきれいに積まれています。

 父はその中央に座り、ひとつの書状を開いたまま、じっと文字を見つめていました。


 隣には母もいます。

 いつも通り上品に椅子に腰かけ、扇子で膝の上を軽く叩いていました。


「来たか」


 父が顔を上げます。

 その横顔は硬く、感情を読み取ることはできませんでした。


「座りなさい、リシェル」


 促されるまま、向かいの椅子に腰を下ろします。

 喉の黒い宝石が、また小さく冷たく光りました。


「お前に、役目ができた」


 父の声は、静かでした。


 私は目を瞬かせます。


 役目。


 その言葉は、この家で生きる者には、決して逆らえない響きを持っています。


「陛下からのご親書だ」


 父は手元の書状を、指で軽く叩きました。


「王国近衛第一騎士団長、エイド・ヴァルト。

 その男との婚姻を、我が公爵家に命じる内容だ」


 エイド。

 聞き覚えのない名前でした。


 けれど「第一騎士団長」という肩書きだけで、その人がどれほど遠い存在かは分かります。


 私は無意識に、指先を握りしめていました。


「……しかし」


 父は、書状から視線をはずし、まっすぐに私を見ました。


「これは一年間の義務婚だ。

 形式上の婚姻であり、期限が来れば離縁して戻ってくる条件になっている」


 一年。


 その数字が、頭の中で乾いた音を立てました。


「一年だけ、ですの?」


 母が初めて口を開きました。


「それでよいと、陛下がお決めになった。

 辺境の砦での生活になるが、相手は王国最強の騎士だ。

 お前にとっても、悪い話ではない」


 王国最強。


 それが誉め言葉なのだと分かっていても、私の胸に浮かんだのは、不思議と安心ではありませんでした。


 どんな戦場でも生き残る人。

 誰よりも人を斬ってきた人。


 そんな姿が、勝手に想像されてしまいます。


「よかったじゃない、リシェル」


 母が、扇子をぱたりと閉じました。


「一度くらい嫁に出たという実績があれば、お前でもまだ使い道がありますもの」


 使い道。


 それが、母の口からあまりにも自然に出てきたので。

 私は笑うことも怒ることもできず、ただ目を伏せました。


 この家にとって、私は娘というより、家名を守るための道具なのだと。

 その事実は、もうとうに知っていたはずなのに。


 こうして言葉にされると、胸の奥が、やはり少しだけ痛みました。


「喋れない花嫁でも、形式は整う。

 公爵家から王国最強の騎士へ。

 見栄えとしては悪くない」


 父はそう言って、書状を丁寧に折りたたみました。


「一年が過ぎれば、王都に戻ってこい。

 その後のことは、またこちらで決める」


 また。


 また、誰かが決める。


 私の人生の行き先を。

 どこで笑い、どこで泣くかさえ、私以外の誰かが。


 喉に触れた指先に、ひやりとした冷たさが伝わります。

 声のない私は、うなずくことしかできませんでした。


「何か言いたいことがあるなら、今のうちだぞ」


 父が、冗談とも本気ともつかない調子で言いました。


 私の唇が、かすかに震えます。


 あります、と言いたかった。


 本当は怖いと。

 知らない人の妻になることも、一年後に捨てられることも。


 でも、その言葉は喉の奥で、火花のように消えていきました。


 かすれた息だけが漏れ、部屋の空気を揺らします。


「……そうだな」


 父は、どこか安堵したように目を伏せました。


「何も言えまい。

 お前は昔から、余計なことしか言わなかった」


 その言葉に、胸のどこか古い傷が疼きました。


 昔の私が口にした真実を、父は今も、禍だと思っている。


 それなら、黙っている今の私は、少しは役に立てているだろうか。


 そんなことまで考えてしまう自分が、少しだけ嫌でした。


     ◇


 書斎を出ると、廊下の空気が妙にざわついていました。


 使用人たちが、いつもより近くに固まって、ひそひそと声を落としています。


「聞いた? お嬢様、嫁入りなさるんだって」


「本当に? あのお嬢様が? どこへ?」


「王国最強の騎士団長様よ。

 第一騎士団の、あのエイド・ヴァルト様」


 名前を聞くだけで、皆が少し身を乗り出しました。


「戦場では人を人とも思っていないって噂の?」


「そうそう。敵将を一晩で三人、首を落としたとか」


「こわ……。

 そんな方のところへ、お嬢様を?」


「だってほら、お嬢様は喋れないでしょう。

 奥方として前に出すには不便だけど、形式だけなら十分よ」


「でも、そんな冷酷なお方に嫁いだら……すぐ捨てられたりしないかしら」


「一年だけだって聞いたわよ。

 きっとそれで十分なんでしょう。

 お嬢様だって、公爵家に戻ってこられるし」


「戻ってきたところで、どうなるのよ」


 最後のひとことは、誰の声だったのか分かりませんでした。


 私は足音を立てないよう、その横を通り過ぎます。

 使用人たちは、気づいても慌てて頭を下げるだけで、何も言いませんでした。


 喋れない花嫁。

 冷酷な騎士団長。

 一年だけの契約。


 廊下に漂う言葉の欠片が、私の周りにゆっくりと沈んでいきます。


 誰かが思っている本音は、相変わらず、胸の奥に流れ込んできました。


 怖い。

 でも、見てみたい。

 あのお嬢様が、どんな顔で嫁いでいくのか。


 そんな興味と不安と、少しの好奇心。


 私はそれらすべてを、押し黙ったまま、ただ飲み込みました。


     ◇


 婚礼の支度は、驚くほど早く整えられました。


 まるで、ずっと前からこの日を待っていたかのように。

 仕立てられていた白いドレスを少し直し、宝飾品を選び、髪を整える。


 鏡の前で椅子に座ると、侍女たちが手際よく動き回りました。


「お嬢様、とてもお綺麗です」


「さすが公爵家のご令嬢。騎士団長様も驚かれますわ」


 口々にそう言いながら、彼女たちは私の髪を櫛で梳き、真珠の髪飾りを挿していきます。


 鏡に映る私は、たしかに、それなりに花嫁らしく見えました。


 白いレースのドレス。

 肩から背中にかけて、薄い布がやわらかく流れています。


 けれど、喉もとだけは、どうしても隠せませんでした。


 黒い宝石が、白い生地の上で、ひどく目立ちます。


「この首飾りだけは、外せないのですね」


 年長の侍女が、小さくつぶやきました。


「さすがに、教会の呪具に手を出すわけにはいかないわ」


「まあ、公爵様のお考えがあるのでしょう。

 黙って座っていてくださる奥方なら、騎士団長様も困らないかもしれませんし」


 くす、と小さな笑い声。


 私は笑いませんでした。


 笑うと、涙がこぼれそうだったからです。


 一年だけの花嫁。


 その言葉は、きれいな響きを持っているように見えて、

 中身は驚くほど空っぽでした。


 一年が過ぎたら、私は何になるのだろう。


 公爵家の飾り物に戻るのか。

 それとも、一度「使われた」娘として、また別の誰かのところに送られるのか。


 自分の未来を、自分で決めるという選択肢は、最初からどこにもありません。


 あるのは、「誰の道具になるか」という違いだけ。


 そう思うと、胸の真ん中に、冷たい穴が開いたような気がしました。


「お嬢様、ヴェールを」


 ふわりと、薄い布が頭の上からかけられます。

 世界が少しだけ、白くかすみました。


 その境界線の向こうで、黒い宝石がきらりと光ります。


 まるで、口を閉ざした私のかわりに、何かを語ろうとしているみたいでした。


 声を失った花嫁は、今日から一年間、誰かの妻になります。


 それが喜びなのか、悲しみなのか、まだ自分でもよく分かりません。


 ただひとつ分かるのは。


 この一年が終わるころ、私はきっと、今とは違う何かになっているだろうということ。


 それが幸せな変化でありますようにと。


 喉元の冷たさをなぞりながら、声にならない願いだけを、そっと胸の奥で結びました。

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