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声を失った花嫁は、沈黙の騎士に愛を教わる  作者: しげみちみり


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第11話 首飾りの痛み

 その夜、砦の空は、昼間とは別の顔をしていました。


 窓の外で風が唸るように鳴り、

 時々、遠くで雷のような音が響きます。


 雨はまだ本格的には降っていませんでしたが、

 重たい雲が空一面を覆い、

 今にも落ちてきそうな気配を漂わせていました。


 わたしは自室のベッドの上で、

 掛け布団を膝まで引き上げ、

 手元のメモ帳を眺めていました。


 今夜の交換日記は、まだ途中です。


『今日は訓練場を見学しました』


『皆さん、とても真剣で、でも楽しそうでした』


『団長様が皆に慕われていることが、よく分かりました』


 そこまで書いて、ペン先が止まります。


 本当は、もう少し書きたいことがありました。


 エイドの剣さばきがどれほど格好よかったか、とか。

 額の汗を拭いたとき、

 自分の心臓がどれほど落ち着かなかったか、とか。


 でも、そこまで書いてしまうのは、

 なんだか気恥ずかしくて。


 わたしは一度メモ帳を閉じ、

 枕元の小さな卓上灯の炎を見つめました。


 そのとき、

 ふいに、喉のあたりを冷たい指で撫でられたような感覚がしました。


 ぞくり、と背筋が震えます。


 首もとに手をやると、

 いつもと変わらない冷たさの、喪声の首飾り。


 黒い宝石が、

 薄暗い部屋の中で小さく光っていました。


 寒いわけでもないのに、

 肌に触れる金属が妙に重たく感じられます。


 ――気のせい。


 そう言い聞かせて、

 もう一度メモ帳を開こうとした、その瞬間でした。


 喉の奥から、鋭い痛みが走りました。


 息が、止まります。


 焼けた針を押し込まれたような、

 熱と痛みが同時に喉を貫きました。


 思わず、喉もとを両手で押さえます。


 首飾りが、さっきよりも強く締めつけてきました。


 金属とは思えないほど、生き物のような動きで、

 喉に食い込んでくる。


 声を出そうとして、空気を吸い込むたびに、

 焼けた刃で内側から切りつけられているみたいに痛い。


 息が、うまく入ってきません。


 胸が苦しくて、

 頭の中が一瞬で真っ白になりました。


 「――っ」


 悲鳴を上げようとしたはずの口から出たのは、

 ひゅう、という情けない空気の音だけ。


 喉を通るはずの声は、

 首飾りに絡め取られてしまったかのようでした。


 視界が揺れて、

 メモ帳が床に滑り落ちます。


 わたしはベッドから転げ落ちるようにして、

 冷たい床板に膝をつきました。


 首飾りが、さらにきつく締めつけてきます。


 苦しい。


 息ができない。


 胸の奥で、

 幼い日の記憶が一気に蘇りました。


 父の前で、

 無邪気に「いま、そう考えたでしょう?」と口にしてしまったこと。


 教会から連れてこられた神官が、

 笑いながら黒い首飾りを見せたこと。


「この子の声は、禍です」


 そう告げられて、

 父が迷いのない手つきで首飾りを嵌めた瞬間の、

 あの冷たさ。


 あのときと同じ痛みが、

 今、喉の奥から広がっていました。


 息を吸い込もうとするたび、

 鎖がさらに肉に食い込んでくるような感覚。


 逃れようとしても、

 逃げ場はどこにもありません。


 床に片手をつき、

 もう一方の手で首飾りを引きはがそうとしても、

 金属は不気味なほどびくともしませんでした。


 爪が食い込んで、

 指先に鈍い痛みが走ります。


 それでも外れない。


 涙が、勝手にあふれてきました。


 怖い。


 このままずっと、

 息ができなくなってしまうんじゃないか。


 喉が燃えるように熱くて、

 同時に、血の気が引いていくような寒さも感じます。


 体の感覚が、バラバラでした。


     ◇


「奥様!」


 慌てた侍女の声が、

 扉の向こうから聞こえました。


 わたしの部屋を訪ねてくるはずだった時間だったのでしょう。


 扉が開き、

 侍女がわたしの姿を目にした瞬間、

 悲鳴にも似た声を上げました。


「だ、団長様を……!」


 彼女が廊下へ駆け出していく音が、

 遠くなるように聞こえます。


 その間にも、

 首飾りの締め付けは強くなっていきました。


 喉の奥で何かが弾けたような感覚がして、

 さらに焼けるような痛みが追加されます。


 目の前が、滲んでいきました。


 涙なのか、

 酸素が足りないせいなのか、

 自分でも分かりません。


 床に手をついていた力が抜け、

 ぐらり、と体が傾きかけたそのとき。


 強い腕が、

 わたしの肩をしっかりと支えました。


「リシェル」


 低い声が、耳元で響きます。


 エイドでした。


 彼の片膝が床につき、

 もう片方の手が、

 わたしの背中にまわされます。


 その支えが、

 必死に浮かび上がろうとする意識を、

 わずかにつなぎ止めてくれました。


「首飾りか」


 短く問う声。


 わたしは、

 かろうじて首を縦に振りました。


 それだけでまた喉が軋み、

 痛みが倍増します。


 それでも、

 エイドの腕の中にいることが、

 どこか安心でもありました。


「……っ」


 彼の手が、

 喉もとの首飾りに触れます。


 冷たい金属の上から、

 大きな手のひらが覆いかぶさりました。


 次の瞬間、

 部屋の空気がぴりりと張り詰めます。


 見えない何かが、

 肌を掠めていったような感覚。


「離れろというなら、離れろ」


 エイドが低く呟き、

 首飾りを強く引きました。


 鎖が、きしむ音がします。


 同時に、

 黒い宝石のあたりから、

 一瞬だけ眩しい光が迸りました。


 ――熱い。


 彼の手が、弾かれたように跳ね上がります。


 光の余韻が消えたあと、

 エイドは息を呑み、

 手のひらを見つめていました。


 そこには、

 火傷のように赤く腫れた痕が残っていました。


 指の節から手のひらにかけて、

 まるで何かに焼き印を押されたみたいに、

 真っ赤に染まっています。


 わたしの胸が、

 別の意味で締めつけられました。


 ――わたしのせいで。


 喉の痛みで声は出せません。


 それでも、心の中で何度もそう叫びました。


 わたしの喉に嵌められた呪いが、

 彼の手まで傷つけている。


 そう思うと、

 痛みよりも先に罪悪感が押し寄せてきます。


「……教会の呪具だな」


 エイドが、

 低く押し殺した声で言いました。


 その横顔は、

 怒りとも苛立ちともつかない色に染まっています。


 彼の灰色の瞳が、

 首飾りを睨みつけていました。


 侍女が、その手のひらを見て、

「団長様、そのお怪我……!」と青ざめます。


「後でいい。今はこっちだ」


 エイドは短くそう言って、

 再びわたしの方へ向き直りました。


 喉の締め付けは、

 さっきの光の反動のせいか、

 少しだけ緩んだようでした。


 それでもまだ、息を吸うたびに焼けるように痛い。


 胸の上下に合わせて、

 首飾りがじわじわと動き、

 喉に擦れてきます。


「呼吸だ。少しずつ吸って、少しずつ吐け」


 エイドの声が、

 耳元で落ち着いた調子で続きます。


「一気に吸おうとするな。浅くでいい」


 わたしは頷き、

 彼の言うとおりにしてみました。


 短く、浅く。


 喉の奥にまで空気を送らないよう、

 胸の手前で止めるような感覚で。


 最初はうまくいかなくて、

 何度も咳き込みそうになりました。


 そのたびに、

 エイドの手が、

 背中をゆっくりとさすってくれます。


 その温もりが、

 痛みと恐怖でこわばった体を、

 少しずつほぐしていきました。


「……そうだ。その調子だ」


 短い言葉が、

 ひとつひとつ、

 暗闇の中に灯る小さな灯りのようでした。


     ◇


 どれくらい時間が経ったのか、

 正確には分かりません。


 窓の外の風の音は続いていましたが、

 部屋の中の緊張は、

 少しずつほどけていきました。


 喉を焼くような痛みは、

 ゆっくりと残り火になっていきます。


 それでも、

 ひと呼吸ごとにじんとする熱さは残っていました。


 エイドは、傷ついた手に布を巻かれながらも、

 わたしのそばを離れませんでした。


 侍女が慌てて冷たい水を運んできて、

 濡らした布をわたしの額にあててくれます。


 それを、

 包帯だらけの手で受け取ったのは、

 エイドでした。


「俺がやる」


 それだけ言って、

 わたしの額に布をそっと乗せます。


 冷たさが、

 火照った額に広がりました。


 気持ちいい、という感覚が戻ってきたことで、

 少しだけ心に余裕が生まれます。


 ふと、彼の包帯を巻かれた手が、

 視界に入ってきました。


 白い布の下から、

 うっすらと赤みが滲んでいます。


 痛くないわけがありません。


 それなのに、

 エイドは眉一つ動かさず、

 わたしのおでこに布をあて直してくれていました。


 喉の奥が、

 別の意味できゅっと締めつけられました。


 ――どうして、ここまで。


 心の中で呟いても、

 もちろん答えが返ってくるわけではありません。


 けれど、

 彼の視線が首飾りに向けられるたびに、

 その目がほんの僅かに険しくなるのを見ていると、

 彼もまた、この呪いに怒ってくれているのだと分かりました。


 わたしの喉を締めつける鎖に対して。


 そして、

 それを嵌めた大人たちに対して。


     ◇


 夜が、少しずつ薄くなっていきました。


 窓の外の雲は、まだ重たく垂れ込めていましたが、

 地平線の向こうから、

 白い光がわずかににじみ始めています。


 痛みはまだ完全に消えてはいないものの、

 呼吸はもう、さほど苦しくはありませんでした。


 首飾りも、

 最初のような圧迫感はやわらぎ、

 いつもの冷たさに戻りつつあります。


 ベッドに横たえられたわたしの枕元で、

 エイドは椅子に腰掛けていました。


 包帯だらけの手を膝の上に置き、

 じっと窓の外の明るみを見つめています。


 侍女たちは、

 必要なものだけを整えると、

「後はお任せします」と小声で言い残して、

 そっと部屋を出ていきました。


 扉が閉まる音がして、

 部屋には、

 わたしたちだけが残されます。


 静かな空気。


 時折聞こえるのは、

 風の音と、

 遠くの雷鳴だけ。


 わたしは、

 半分眠りかけながら、

 それでも気になって、

 エイドの手の包帯を見つめていました。


 彼の指先は、

 わずかに赤く腫れているように見えます。


 本当は、

 謝りたかったのです。


 わたしのせいで、

 と。


 でも、喉はまだ、

 声を出すには心もとない状態で。


 メモ帳を取ろうにも、

 腕に力が入らず、

 枕の上で指先を少し動かすのが精一杯でした。


 そんなわたしの仕草に気づいたのか、

 エイドがこちらを振り向きます。


「痛みは、どうだ」


 ゆっくりと言葉を選ぶような声。


 わたしは、

 ほんの少しだけ首を傾けました。


 さっきよりは楽だ、という意味を込めて。


 エイドは小さく息を吐き、

「そうか」とだけ答えました。


 それから、

 包帯の巻かれた自分の手を一度見下ろし、

 再びわたしの喉の首飾りに視線を向けます。


 灰色の瞳が、

 深く沈んだ色を帯びていました。


「……外れないようにできている」


 誰にともなく漏らされた言葉は、

 自分自身への確認のようでもありました。


「教会の呪具だ。

 中途半端な力で触れば、こうして弾かれる」


 わたしは、

 その声の奥にある感情を探ろうとします。


 苛立ちか。

 諦めか。


 それとも、

 もっと別の――昔を思い出すような、

 遠くを見る色か。


 問いかけたいことはたくさんありましたが、

 今はまだ、そのどれも口にできません。


 代わりに、

 まぶたが少し重たくなってきたことに気づきました。


 疲労と痛みと、

 安堵が一度に押し寄せてきて、

 意識がゆっくりと薄れていきます。


 その境目で、

 耳に届いた声がありました。


 とても小さな、

 囁きにも満たない声。


「必ず……お前から、それを外してみせる」


 どこか遠くの方から聞こえてきたようでいて、

 ちゃんと、耳元で響いた声。


 誰に聞かせるでもない、

 ひとりごとのような誓い。


 でも、わたしには

 それが、自分に向けられた約束だと分かりました。


 眠りに沈みながら、

 わたしは心の中で、そっと問いかけます。


 ――どうして、そこまで。


 答えは、まだ分かりません。


 ただ、喉もとの冷たい首飾りと、

 額に載せられた布の冷たさ。


 そして、

 握られたときに感じた、

 傷ついた手のひらの温もり。


 その三つが、

 不思議なくらい、はっきりと記憶に焼きついていました。

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