第10話 騎士たちの訓練
砦で迎える朝にも、少しずつ慣れてきました。
けれどこの日は、いつもよりも少しだけ胸がそわそわしています。
「奥様、今日は訓練場をご覧になりますか?」
朝の片づけがひと段落したころ、
侍女長がそう声をかけてきました。
砦の外から聞こえてくる掛け声と、
打ち合う音は、毎朝、薄く部屋まで届いていましたが、
近くで見るのは初めてです。
わたしは迷った末に、
メモ帳に『お邪魔でなければ』と書きました。
侍女長はにこりと笑い、
「団長様は仕事ぶりを見てもらうの、嫌いではありませんよ」と、
どこか含みのある言い方をしました。
その言葉だけで、
胸の高鳴りは、少し不安から楽しみ寄りに傾きます。
◇
訓練場は、砦の中庭を抜けた先にありました。
高い石壁に囲まれた、広い土のスペース。
朝の光を受けて、
砂埃がふわりと舞い上がっています。
木の人形や、的に使われている藁束。
ラックには、訓練用の剣がずらりと並んでいました。
すでに多くの騎士たちが集まっていて、
円を描くように立っています。
その中心で、
銀の鎧を身に着けた一人の男が、剣を片手に立っていました。
エイドです。
戦場の彼を、わたしは知りません。
王城ではいつも、
礼装に近い鎧を身につけ、
静かな姿勢で玉座の傍に控えているだけでした。
今、目の前にいるのは、
砦を守る「団長」としての彼。
表情も、瞳の奥も、
いつもよりずっと鋭く見えました。
「交代でかかれ。手を抜けば、今日の見回りは倍だ」
低い声が、訓練場に響き渡ります。
騎士たちは苦笑しながらも、
「了解です、団長!」と一斉に応えました。
あっという間に空気が引き締まります。
侍女長は、訓練場の端に置かれた長椅子へと、
わたしを案内してくれました。
「ここなら、砂が飛んでも大丈夫でしょう。
何かありましたら、すぐにお呼びください」
わたしは頷き、裾を整えて腰を下ろします。
喉もとの首飾りを、
外套の内側に隠すように押さえながら。
◇
最初は、基礎的な動きの確認からでした。
木剣を構えた騎士たちが、
号令に合わせて一斉に踏み込み、振り下ろします。
鎧の擦れる音と、
木のぶつかる鈍い音。
号令役の声が、
一定のリズムで飛び交います。
「右。左。下段。防御」
一糸乱れぬ動き。
それを、
エイドは腕を組んで静かに見ていました。
彼の視線が向くたびに、
褒められた者は少し誇らしげに背筋を伸ばし、
注意された者は真剣な顔で頷いています。
皆、本当に彼を慕っているのだと、
遠目にも分かりました。
やがて、基礎練習が終わると、
次は模擬戦へと移ります。
「三人一組で、俺にかかれ」
そう言って、
エイド自身が剣を抜きました。
訓練用とはいえ、
刃の部分が潰されただけの、本物の剣です。
さきほどまでの静かな空気が、
一気に張り詰めました。
最初に名を呼ばれた三人の騎士たちが、
緊張した面持ちで前に出ます。
わたしは思わず、
手を組んで胸もとに置きました。
合図と同時に、
三本の剣が、ほとんど同時にエイドへと襲いかかります。
その動きは速くて、
目で追うことがやっとでした。
でも、エイドはさらに速かったのです。
一歩、右へ。
足が土を踏む音と同時に、
斜めから来た剣を受け流す。
その勢いのまま、
剣を振り上げた騎士の手元を軽く打ち、
体勢を崩させる。
背後からの突きを、
振り返りもせず、剣の腹で受け止める。
力任せではなく、
相手の重さをいなすような動き。
受け止めた衝撃が、
土煙となって周囲に散っていきます。
一人が膝をつき、
二人目が汗を飛ばしながら距離を取る。
エイドの額にも、
うっすらと汗がにじみ始めていました。
でも、その瞳は、
刺すような鋭さを保ったままです。
わたしは、その姿に目を奪われていました。
人を傷つけるための剣ではなく、
誰かを守るための剣。
その違いが、
見ているだけで伝わってくるようでした。
エイドが剣を振るうたびに、
彼の背中から、
「ここは俺が守る」という意思がにじみ出ている。
――この人は、本当に、砦の皆の「盾」なのだ。
胸の奥でそう思った瞬間、
喉の首飾りが、わずかに冷たさを増した気がしました。
真実を引き出す呪いは、
彼の心に触れたら、
いったい何を語ってしまうのだろう。
そんなことを考えてしまい、
自分の考えに、自分で驚きました。
◇
何組かとの模擬戦が終わったころ、
さすがのエイドも息を荒くしていました。
鎧の隙間から覗くシャツが汗で湿り、
前髪も額に張り付いています。
それでも、「休憩にするか」という声には、
騎士たちから「まだやれます!」という抗議の声が上がりました。
どこまでも負けず嫌いな人たちです。
結局もう一組だけ相手をすると約束して、
最後の模擬戦を終えるころには、
エイドの呼吸もだいぶ荒くなっていました。
「今日はここまでだ。
あとは各自で動きを復習しておけ」
彼がそう告げると、
騎士たちは一斉に「はい!」と答え、
それぞれの持ち場へ散っていきます。
訓練場の中央に、
エイドだけが立ち尽くしている。
わたしの胸は、
さっきから落ち着きませんでした。
侍女が心配そうに、
「奥様、大丈夫ですか」と耳打ちしてくれます。
わたしは小さく頷き、
しかし視線はエイドから離せません。
やがて彼は、
まるで最初からそこに気づいていたような足取りで、
わたしたちの方へ歩いてきました。
近づいてくるほど、
その存在感に圧倒されます。
剣を振るったあとの腕は、
さすがに筋肉の線がはっきりと浮かび上がっていて、
日差しを受けて光っていました。
目の前まで来ると、
エイドは軽く息を整えてから、
わたしに視線を向けます。
「……退屈ではなかったか」
思ってもみなかった問いかけでした。
わたしは慌ててメモ帳を開きます。
手が少し震えて、
ペン先が紙の上を滑りそうになりました。
『とても、格好よかったです。お疲れさまでした』
書いてから、
あまりに率直すぎたかもしれないと、
急に恥ずかしくなりました。
でも、他にどんな言葉を選べばいいのか分かりません。
わたしはメモ帳を差し出しました。
エイドは、
汗に濡れた前髪を指で払いながら、
その文字をじっと読みます。
ほんの一瞬、
彼の耳が赤くなったように見えました。
「……そうか」
短い返事。
そのあと、咳払いを一つして、
視線をわずかにそらします。
自分の袖で額の汗をぬぐおうとして、
侍女長にすぐさま止められました。
「団長様、そのままでは風邪を召しますよ。
ここに奥様のハンカチがございます」
そう言って、
いつの間にか侍女長は、
わたしの手から刺繍入りのハンカチを取り上げていました。
え、と目を見開く間もなく、
ハンカチがエイドの方へ差し出されます。
「奥様が、いつも大事に持ち歩いておられるものです。
よろしければお使いください」
そんな説明をされてしまっては、
断ることもできません。
エイドは明らかに困った顔をしながら、
それでもハンカチを受け取りました。
「……別に、自分の袖でいい」
「何をおっしゃいます。
奥様に見られているのですよ」
その一言が、
わたしの顔を一気に熱くします。
エイドも一瞬、
こちらをちらりと見ました。
逃げ出したくなるくらい恥ずかしいのに、
足は地面に縫いつけられたみたいに動きません。
どうしましょう。
わたしは反射的に、
メモ帳を引っつかみました。
『もしよろしければ、少しだけ……』
そこまで書いて、
自分で自分の文字に驚きます。
何をしようと言っているのか。
わたしは、ハンカチとメモ帳を見つめて固まりました。
そんなわたしの様子を見て、
侍女長が、柔らかく背中を押してきます。
「奥様から、拭いて差し上げたらよろしいのです」
耳元でささやかれ、
全身の血が一気に逆流したような気がしました。
けれど、エイドの額の汗が、
陽の光の下で光っているのを見ると、
何もしないまま立っているのも、
なぜか申し訳なく思えてきます。
わたしは深く息を吸い、
ハンカチを両手で持ちました。
エイドが、わずかに目を細めます。
「……無理はしなくていい」
いつもの低い声。
それは、わたしを気遣う言葉のはずなのに、
その一言で、かえって決心が固まりました。
だって、ここで引き下がってしまったら、
この先もずっと何もできない気がしたから。
わたしは小さく首を横に振ります。
それから、
ゆっくりと一歩、彼に近づきました。
近くで見ると、
彼の背は想像以上に高く感じられました。
胸の位置までしか届かない視線を上げ、
そっと腕を伸ばします。
「……」
エイドが身じろぎしかけて、
しかし、動きを止めました。
逃げないでいてくれることに、
ほっとしながら。
わたしは、
そっと彼の額にハンカチを当てました。
布越しに伝わる体温。
汗で湿った前髪が、指先にふれる。
近くで感じる、
鉄と皮革の匂い。
胸が苦しくなるくらいに、
鼓動が早くなりました。
何も言えない代わりに、
ハンカチを持つ手に、慎重に力を込めます。
額からこめかみへ、
頬へと、ゆっくりなぞるように拭いていく。
彼は目を閉じ、
黙ったままそれを受け入れてくれていました。
ほんの数秒。
でも、わたしには、
永遠みたいに長く感じられました。
最後に、
頬のあたりをそっと押さえて、手を離します。
その瞬間。
「おおー……」
訓練場の端から、
妙に感心したような声が上がりました。
「団長、顔拭いてもらってるぞ」
「やっぱり奥様には優しいんだなあ」
「さっきより剣、振りにくそうな顔してませんでした?」
若い騎士たちのひそひそ声と笑い声。
わたしは反射的に、
ハンカチで自分の頬まで覆い隠しました。
顔が、耳まで熱くなっているのが分かります。
エイドも同じように、
わずかに眉間に皺を寄せて、
騎士たちの方をにらみました。
「……次の訓練、走り込みを倍にする」
低い一言で、
騎士たちの笑いがぴたりと止まります。
「す、すみません団長!」
「今のは、その、微笑ましいなと思っただけで!」
慌てて弁解する声が、
あちこちから上がりました。
その様子がおかしくて、
わたしは思わず、
ハンカチの陰でくすりと笑ってしまいます。
エイドが、その気配に気づいたらしく、
わずかに視線をこちらへ向けました。
彼の表情は、
相変わらず不器用で、どこか疲れたようで。
でも、その目の奥は、
さっき剣を振るっていたときより、
少しだけ柔らかく見えました。
「……訓練より、こういうのの方が疲れるな」
ぽつりとこぼれた本音に、
侍女長が肩を震わせます。
わたしは、
胸の中でそっと「お疲れさまです」ともう一度つぶやきました。
自分から触れたこと。
それを、エイドが受け止めてくれたこと。
その二つが、
日に照らされた訓練場の土よりも、
ずっと温かいものとして、心に残りました。




