第1話 喪声の首飾り
喉もとに指をやると、ひやりとした感触が返ってきます。
細く編まれた銀鎖と、肌に吸いつく黒い宝石。
どれだけ月日がたっても、これは少しも温まってくれません。
喪声の首飾り。
そう呼ばれるこの首飾りは、私の声を奪い、かわりに沈黙を与えてくれました。
誰かを傷つける真実を、二度と口からこぼさないように。
そうして私は、家の誰よりおとなしい「よい令嬢」になったのです。
……少なくとも、外側だけは。
最初にそれを嵌められた夜のことを、私は今もはっきり覚えています。
あの日、私はまだ六つでした。
大広間では、燭台の火がゆらゆらと揺れ、長いテーブルの上に銀食器が並んでいました。
父の友人だという貴族や、家に仕える重臣たちが座り、笑い声が響いています。
私のような子どもには、すこしも楽しくない、大人たちの晩餐会でした。
「この子はおとなしくて、手のかからない娘でね」
テーブルの上座で、父が笑いました。
笑っているのに、その目は少しも笑っていません。
「社交の場でも騒がない。家の名誉を汚すような真似も決してしない。
私の自慢の娘です」
「まあ、ご立派ですわ、公爵様」
母もそれに合わせるように、扇を揺らして笑います。
真珠の飾りが、耳元でからん、と小さく鳴りました。
「ねえ、リシェル」
母が、私の名前を呼びます。
私は小さく姿勢を正しました。
「お客様にご挨拶を。あなたがどれだけよい子か、皆さまに知っていただかないとね」
「はい、お母様」
あのころの私は、まだ自分のことを、少しは「普通の子ども」だと思っていました。
言われた通りに立ち上がり、ドレスの裾をつまんで礼をします。
「リシェル・フローレンスです。お父様とお母様の役に立てるよう、がんばります」
礼儀作法の先生に教わった通りの言葉を口にすると、
大人たちは「おお」「まあ」と優しげな声を上げました。
「物静かで、賢そうなお嬢さんだ」
「やはり血筋ですな。公爵様と奥方様のご教育の賜物でしょう」
父の頬が、わずかにゆるみます。
母も満足そうに、扇で口元を隠しました。
きっとここで、私は黙って座っていればよかったのです。
でも、まだ六つの私は、その「正解」を知りませんでした。
「でも」
思ったことが、そのまま口からこぼれました。
「でもさっき、お父様は『もう誰も信じられない』って、心の中で言っていました」
その瞬間、大広間の空気が変わりました。
笑い声がぴたりと止まり、銀食器が触れ合う小さな音だけが耳に刺さります。
父の顔から、笑みが消えました。
「……何を言っている、リシェル」
低く押し殺した声。
私は、何がおかしいのか分からなくて、首をかしげました。
「だって、本当にそう思っていたでしょう、お父様。
『もう誰も信じられない』って。胸が痛くて、こわいって」
口にした瞬間、父の指が震えるのが見えました。
向かいに座っていた男の人が、ぎくりと肩を揺らします。
母の扇子が、ぱたりと閉じられました。
「……公爵様?」
「どういう意味ですかな」
重臣の一人が、おそるおそる父の顔色をうかがいます。
父は何も答えませんでした。
その代わり、ぎゅっと私の腕をつかみました。
「リシェル。部屋に戻りなさい」
「でも、まだみんなのお話を聞いていなくて」
「いいから。今すぐだ」
その声を聞いて、ようやく私は、自分がとんでもないことをしたのだと気づきました。
けれど、何がいけなかったのかは、やっぱり分かりませんでした。
だって私は、ただ、お父様の「心の声」をそのまま伝えただけなのに。
その晩を境に、私は何度も「変な子」と言われるようになりました。
使用人が、きれいな花瓶を割って隠そうとしたとき。
私は何気なく、「本当はお嬢様のせいじゃないって思っているのに」と言いました。
叱られた侍女長が、私をきつくにらみます。
庭師が、こっそりと給金の愚痴をこぼしたとき。
私は、「でも、本当はここの庭が好きだから辞めたくないんですよね」と笑いました。
庭師は青ざめて、慌てて否定しました。
誰かが何かを考えたとき、その「本音」が、
耳ではなく胸の奥で、はっきりと聞こえてしまうのです。
それが「おかしいこと」なのだと知ったころには、もう遅くて。
家中に、不穏な視線が広がっていました。
「あのお嬢様、気味が悪いわ」
「心を読まれているみたいで、背筋が寒くなる」
「奥さまもおかわいそうに。あんな子どもを抱えて」
ひそひそとした声が、廊下の向こうから聞こえてきます。
そのたびに、母は扇子の影で眉をひそめました。
「あなた、どうにかならないのですか。
このままでは、家の評判に関わりますわ」
「分かっている」
ある日の夜。
書斎の扉の隙間から、父と母の声が聞こえていました。
「私はただ、真実を語るだけですのよ。
それなのに、あの子は……」
「真実だからこそ、厄介なのだ。
誰もが、本音を晒して生きていけるわけではない」
父の声には、怒りと、それ以上に深い疲れが滲んでいました。
「教会に相談する。
あの子の声は、もはや祝福ではない。禍だ」
禍。
きれいに磨かれた書斎の扉に、にじむその言葉が突き刺さるようで。
私は思わず、胸の前で手を握りしめました。
数日後。
厚いローブをまとった神官が、公爵家を訪れました。
銀糸で刺繍された紋章が、蝋燭の光を受けて鈍く光ります。
「お呼びとあらば、我ら教会は力を惜しみません」
細い目をした神官は、柔らかく笑ってそう言いました。
けれど、その笑みはどこか、石のように冷たく見えました。
「この子の声を封じたい、と」
神官が、私を一瞥します。
まるで、奇妙な標本でも見るような目でした。
「はい。どうにかならないでしょうか」
父は、迷いを押し殺したような声で答えました。
母は黙ったまま、真っ白な指で扇の柄をきゅっと握っています。
神官は、ゆっくりとうなずきました。
「真実を暴く声は、ときに祝福。
ですが、制御できぬのであれば、災いにもなりましょう」
彼は袖の中から、小さな箱を取り出しました。
黒檀のような箱を開けると、中には銀の鎖と黒い宝石が収まっています。
「これは、喪声の首飾りと呼ばれるもの。
真実を語る声を封じ、沈黙の加護を与える呪具です」
黒い宝石は、光の中でゆらりと揺れました。
まるで、誰かの目のように、じっと私を見つめている気がしました。
「喉に嵌めれば、二度と余計な言葉は出ません。
代わりに、その身を守る沈黙が与えられるでしょう」
「……二度と?」
父の肩が、小さく揺れました。
「変更はできないのですか。
必要なときだけ、声を抑えるような」
「残念ながら。
この首飾りは、完全な沈黙を前提としております」
神官は事務的な口調で告げました。
「ただし、公爵様。
ご安心ください。沈黙は、ときに最良の美徳です。
お嬢様は、どなたよりも慎み深いご令嬢となるでしょう」
慎み深いご令嬢。
それは、父と母がずっと望んでいた言葉でした。
私の胸の奥で、小さな警鐘が鳴ります。
「お父様、いやです」
思わず言葉がもれました。
私は父の袖をつかみ、見上げます。
「ちゃんと気をつけます。
もう、余計なことは言いません。
だから、その首飾りは──」
「リシェル」
父は、私の手を振り払いました。
その目には、迷いと恐怖と、どうしようもない焦りが混じっていました。
「お前は、自分が何をしているか分かっていない。
このままでは、いずれ命取りになる」
「命取り……?」
「お前の声は禍だ」
父の言葉は、あまりにも冷たくて。
胸の中で、何かがぽきんと折れた気がしました。
神官が、私に歩み寄ります。
「リシェル様。
恐れることはありません。これは祝福なのです」
そう言って差し出された首飾りは、冷たい蛇のようでした。
私は首を振ります。
「いやです……」
声が震えて、自分でも情けないと思いました。
それでも、怖かったのです。
だって。
声を奪われたら、私は私でいられなくなるような気がしたから。
「奥様」
神官が、母を見ました。
母は小さく目を閉じてから、私の肩にそっと手を置きました。
「リシェル。大丈夫よ。
少しだけ、眠るようなものですわ」
「眠る……?」
「あなたの声は、少しお休みするの」
優しい声でした。
けれどその指は、逃げ出さないように、きつく肩を押さえていました。
神官の指が、私の喉もとに触れます。
冷たい鎖が、肌の上を滑りました。
「や……」
言いかけた瞬間。
黒い宝石が、ひやりと喉の中央に触れました。
ぞくりと、何かが背筋を走ります。
「っ……!」
次の瞬間、見えない手で首を締められたような痛みが襲いました。
息を吸おうとしても、喉がうまく動きません。
声を出そうと口を開いても、かすれた空気が漏れるだけでした。
「リシェル!」
母の叫び声が聞こえました。
父の顔が、真っ青になります。
「成功です、公爵様」
神官は、静かにうなずきました。
「これで、このお嬢様の声が、誰かを傷つけることはありません」
視界がにじみます。
私は必死に声を求めました。
ごめんなさい、と謝りたかった。
怖い、と訴えたかった。
いやだ、と泣き叫びたかった。
でも、どれも、もう口から出てきませんでした。
代わりに、胸の奥で、言葉にならない悲鳴だけがこだまします。
それから、どれくらい時間がたったのか。
私は、静かな飾り物の令嬢になりました。
今、鏡の中には、十代半ばの娘が映っています。
淡い色のドレスをまとい、きちんと結い上げられた髪。
微笑を貼り付けた顔。
そして、喉には、あの日と同じ黒い宝石。
「本日も、よい席でしたわね」
大広間から客人が引き上げたあと、母が言いました。
私はソファに座り、ただ静かにうなずきます。
「リシェルは、本当に手のかからない子」
母はそう言って、私の髪をそっと撫でました。
廊下の向こうで、使用人たちの声が聞こえます。
「喋れないお嬢様って、楽でいいわよね」
「そうそう。何を言われても、黙って座っているだけだもの」
「でも、目が少し怖くない? なんだか、全部見透かされているみたいで」
「やめてよ。背筋が寒くなるわ」
私は、微笑んだまま、目を閉じました。
聞こえないふりをすることには、もう慣れています。
それでも、胸の奥では、相変わらず人の「本音」がさざめいていました。
誰も信じられない、と嘆く父の声。
自分の娘を、どこかで恐れている母の声。
そして今も、仕事の不満や、将来への不安を抱えた使用人たちの声。
私は、もう何も言えません。
けれど、何も感じないわけではありません。
喉を締め付ける冷たい鎖に触れながら、私はそっと目を開けました。
声を奪われた代わりに、私はたくさんの沈黙を抱え込んでしまったのだと。
そんなことを、ぼんやりと考えながら。
今日もまた、静かな飾り物の令嬢として、微笑みを貼り付けるのです。




