怖いもの
「ねえ、貴方にとって怖いものって何?」
唐突な彼女の質問。僕は黙って首を傾ける。
「道徳を持ち合わせない逆立ち愚者ってとこかな。いくら隠れてやり過ごしても、それは所詮一過性のもの。一度見つかれば、害を与えてくる劇物でしかないからね」
「それじゃあそれ以外に怖いものはないの?」
「うーん……」
清流の源泉を彷彿とさせるほど純粋の彼女の視線は、喉元を切り裂こうとする百獣の王のごとく鋭利で、一つでも踏み外せば奥深くまで引きずり込まれそうな凄みを帯びていた。何故だか息をするのも苦しそうだった。
「じゃあ目の前に鎖に繋がれていない猛犬が現れたならどうするの? 甘やかされて育った温室育ちの、ね」
僕は瞬時に逆立ち愚者と猛犬をイコールで繋ぎ合せた。
「そりゃあもちろん逃げるさ。リスクを考えてもね」
「逃げても逃げても、追って来られれば?」
「仕方なく戦うね」
「でも、それを倒したなら、躾けられない無能な飼い主が理不尽な理由を叩きつけて、次に貴方を襲うかもしれないわよ」
執拗なまでに彼女は僕を攻め立てる。
僕の思考は崩壊し、脆くも崩れ去った。
「……それならどうしろって言うんだい?」
「簡単な話よ。飼い主を黙らせればいいの」
このときの僕には意味がわからなかった。
*
あれからそれなりの時間が経った。
偶然、彼女の小中の幼馴染と知り合った際に彼女のことを訊いてみた。
始めはおっかなそうな顔をしていたものの、冷やかしではないことを確認したうえで、渋々ながら話してくれた。彼女は小さい時から大人しくて、休み時間も読書に没頭するような子だったそうだ。大人しいやつがキレたら怖い――そんな冗談の対象になるほどに。
そのせいか一時期虐めにあっていたそうだ。虐めっ子は欲しいものはなんでも買い与えられるような裕福な家の。
「彼女は無垢で、純粋で、そして無害だった」
その言葉で、その幼馴染は話すのをやめた。
今でも、あの翌日の新聞の切り抜きを見る度に忘れられない衝撃と悪寒が、背筋を這いまわる。
『飼い主を黙らせればいいの』
もしも僕が気の利いた返答をしていたなら、止めさせられたかもしれない。その後悔は、今も僕の内にある。