2二ャ:猫たちと私の日常
朝の支度をしていると、視界の端に、まるっとした影がぬるりとすべり込んできた。
「……ん?」
振り返る前に、ふにゃりとした何かが足に当たる。やわらかくて、あったかくて――しかも重い。
見なくてもわかる。みーたんだ。
「おはよう、みーたん。今日も元気ね〜」
「みゃっ!」
まるで「まかせてにゃ!」とでも言うような声。元気いっぱいに鳴いて、トテトテとキッチンまで私のあとを追いかけてくる。
私の足の間を……器用にすり抜けている、つもりなのかもしれないけど、
現実にはぽよぽよのお腹で、ぼこぼこ当たってる。
そのお腹、また……ちょっと大きくなったような……?
いや、うん。気のせい……かもしれない。
――言えないけど。
「だめよ。まだ朝ごはんには早いの」
そう言うと、みーたんはその場でくるりと回って、ごろんと床に寝転がった。
ふわふわの腹毛をこれでもかと見せつけてくる。
ころん。ぽよん。……おもち、か?
「……あ〜〜〜もう、かわいい〜〜〜〜っ!」
負けた。完敗である。
つい誘惑に負けて、お腹をワシワシ撫でてしまう。
ゴロゴロゴロ……と喉を鳴らしていたかと思えば、突然ガジガジと甘噛みしてくる。
……嫌なの? それとも、うれしいの? どっち?
でもそのツンデレ加減も、やっぱり、ずるい。
***
夕方、玄関の鍵を回すと、ドアの向こうからかすかに「トットット」っと足音が聞こえる。
ドアを開けた瞬間――ぬんっ! とみーたん登場。
ころころの体で、お出迎え。
私がまだ靴を脱ぎかけてる最中だというのに、もふっと足の間に身体をねじ込んでくる。
暖かくて、重くて、くすぐったい。
「ただいま、みーたん」
「みゃあ!」
ちゃんとお返事。えらい。
けれどそのあと、当然のように私の前を歩き出して、振り返る。
……そのまま、キッチンへ。
どうやら、晩ごはんの時間が近いことは、完璧に覚えているらしい。
「はいはい、まずはツンたちにもただいま、ね」
みーたんは「しかたないにゃ」とでも言いたげに、ふるふるとしっぽを揺らしてソファへ。
そこには、いつものように香箱座りで目を細めていたツンがいた。
するりと近づいて、ちょこんとすり寄った、その瞬間――
バシッ。
「シャーッ!!」
「みゃっ!?」
……また怒られてる。
それでも、次の日も、またその次の日も、みーたんは懲りずにツンに突撃していく。
「ほんと、懲りないよねえ……でも、えらいよ」
でも、ときどき、ソファの陰でしょんぼりしてる姿を見ると……ずるい。
なでなでして、なぐさめてしまう私の負け。
***
夜。布団に入った私の上に、ドン、と乗ってくるおもち(みーたん)。
「……重いよ、みーたん」
体温と重さに包まれて、息をのむほど温かい。
それでも、ふみふみ。
まるで、生地をこねるようなリズムで、私のお腹をふみふみ。
「甘えんぼちゃんだねぇ……」
「みゃあ……」
満足そうな、まんまるな目。
みーたんがいるだけで、今日の疲れがじんわりとほどけていく。
ほんとに、今日も全力でかわいかったよ。
みーたん、ありがとう。
***
朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
その細い光の帯の中に、すっと座っているしなやかな影がある。
窓辺にいるのは、ツン。
「……また、そこにいるのね」
名前の通り、彼女はいつもツンとしていて、勝手気まま。
呼んだからといって振り向くこともなければ、甘えた声で近づいてくることもない。
でも。
逆光に透ける輪郭をなぞるように、フワッとした長毛が光をまとって揺れている。
キッとつり上がった目尻に、氷を溶かしたような淡い青の瞳。
すっと伸びた首筋、何かを見つめるときの緊張感――。
その横顔は、ときどきドキッとするくらい、綺麗だ。
ふわふわのしっぽを静かに揺らしながら、真剣な目で外を見つめている。
朝の静けさと相まって、まるで美術館の一角に飾られた彫刻みたい。
「鳥さんでもいたの?」
問いかけには、もちろん返事なんてない。
けれど、しっぽの先がぴくんとひとつ跳ねた。
ふふ、聞こえてる。
***
ツンは、ごはんを「もらう」ことはしない。「いただく」のだ。
こちらが準備を整え、器も清潔にし、所定の位置にぴたりと置いて――ようやく彼女は、静かに歩いてくる。
まるで「よろしい、ではいただきましょう」とでも言うように。
気分じゃないときは、わざわざ皿の前まで来て、無言で見つめるだけ。
それから、くるりときびすを返して、音もなく立ち去る。
食事中に話しかけたり、物音を立てようものなら、彼女のテンションは一気に冷却されてしまう。
「……気に入らなかった?」
「……にゃ。」
短く、小さく、気まぐれな声。
ああもう、わかりやすいようでわかりにくい子!
---
仕事から帰ってきても、ツンは玄関には来ない。
私がリビングのドアを開けると、ようやく奥の棚の上からちらりと視線を向け、それからまた目を閉じる。
「おかえり」なんて言葉は、もちろんない。
それでも、視線が合った瞬間の、あの一瞬の間が――私には、ちょっとだけ嬉しい。
でも、たまに――ほんのたまに。
私が少し落ち込んでいたり、元気がなかったりすると。
ふわりとベッドに乗ってきて、私の枕元で丸くなる。
その瞬間、私は胸の奥をきゅっと掴まれる。
「……気づいてたんだね」
声に出しても、もちろん返事はない。
けれど、ふわふわのしっぽが、そっと私の手に触れる。
まるで「そばにいるわよ」と告げるように。
それが、ツンなりの優しさ。
ツンは、女王様。気まぐれで、プライド高くて、それでいて、誰よりも繊細。
まっすぐに愛をぶつけるわけじゃない。
でも、確かにそこにいて、私を見てくれている。
そんなツンの距離感に、私はいつも翻弄されてばかり。
でもそれが――たまらなく、好きなのだ。
***
サバ太は、名前に「太」がついているけれど、れっきとした女の子。
けれど、その名に恥じない――いや、名前すら追い越してしまいそうな――立派すぎる体格の持ち主だ。
かつてはくっきりしていたサバトラ模様も、今では横にのびのびと広がって、まるで抽象画みたいにふんわりぼやけてきた。
むちむち、どてん。寝そべると、まるで湯たんぽのような暖かさと丸みで、冬場はまさに最強の癒しアイテム。……ただし、決してお腹は触らせてくれない。うっかり手を伸ばそうものなら、ばしっ!と猫パンチが飛んでくる。
その体に似合わず、顔だけはびっくりするくらい小さくて、まるで「猫の着ぐるみ」の中に、小顔の精霊でも入っているかのよう。
しかも、口元からはいつもちょろんと舌が出ている。ほんの少し、下の歯の間からピンク色の舌が顔を出す。それがもう――反則級にかわいい。
「ただいま」と声をかけると、サバ太はのそり、のそりとやってくる。
ドタ、ドタ……と床を揺らすような足音は、もはや猫のものではない。踏みしめながら歩いてくるその様子は、どこかマイペースな小さな相撲取り。
カーペットに爪が引っかかって、よろめいた拍子にごろんと転がることもあるけれど、すぐに何事もなかったかのように立ち上がって「ナァッ!」と鳴く。照れ隠しみたいに足元にすり寄ってきて、顔をうずめてくる。
――もちろん、そのときも舌はしっかり出っぱなし。
***
サバ太は神経質だけど、ちょっとドジっ子。
音には敏感で、少しの気配にもピクリと反応するくせに、私が真後ろに近づくと気づかずにビクッ!と飛び跳ねる。
抱っこしようとすると、どっしりとした重さが腕にずっしりのしかかってくる。前足をちょこんと揃えて、お腹はぷよんと前に突き出たそのフォルムは、まるで招きだるま。
「ぅう〜〜」と低く不満げな声を漏らしながらも、実はまんざらでもない顔をしているのが、またずるい。
***
夜になると、サバ太は私のベッドをじっと見つめる。うずうず、そわそわ、しっぽが左右に揺れて、よし!とばかりにベッドに飛び乗る。
着地点は――大体、お腹の上。
ずんっ。
まるで地響きのような衝撃が走って、思わず「うっ」と声が漏れる。
そしてベッドの上をのしのし歩いて、お腹に足をめり込ませながら「ここかな?いや、やっぱりここ?」とポジションを探す。
お願いだから、早く落ち着いて……。
ようやく丸まって寝ると、顔を埋めてぐぅぐぅ。舌はいつものようにぺろりと出たまま。
「ナッ……ナッ……」と寝言をもらしながら、どんな夢を見てるんだろう。
ごわごわとした毛並みは撫で応えがあって、耳の後ろを揉んでやると、目を細めて「もっと」と催促するように体を預けてくる。
「サバちゃん、ずるいなぁ。そんなに可愛くて」
返事はないけれど、喉の奥から「ゴロゴロ……」と幸せな音が返ってくる。
***
ちょっぴりドジで、どっしり重たい、甘え上手な恥ずかしがり屋。
それが、サバ太という猫。
私は、そんなサバ太の全部が――どうしようもなく、愛おしいのだ。
***
私は、三匹の猫と暮らしている。
というより、猫たちのおかげで、今日もちゃんと暮らせている――そう言った方が、たぶん正しい。
朝は、ツンが「起きて」と頭を叩く。みーたんは枕のど真ん中で丸くなり、私はいつも端の方でひっそり眠る。サバ太はといえば、私のお腹にどすんと寝そべっていて、目覚めたときにはすでに圧がすごい。
そんな日常の中で、私は毎日、せっせとごはんを用意し、トイレを掃除し、お水を新しくして回る。猫たちが快適に過ごせるように、そっと毛布を整えたり、陽の当たる場所を開けておいたりする。
ふふ、なんだかまるで、小さな女王さまたちに仕える侍女みたいだ。
お仕事から帰ってくると、三匹が順番に「おかえり」をしてくれる。ツンはちょっとすました顔で、みーたんはお腹を見せてごろん、サバ太はどたばたと走ってきて、盛大に転ぶ。
その一連の騒がしさに、私は毎日、きゅうっと胸を掴まれてしまう。
きっと私は、この子たちに甘やかされて生きているのだと思う。
疲れて帰った日も、泣きたくなる夜も、猫の寝息に耳をすませているうちに、いつの間にか心がほどけていく。
猫と暮らすということは、静かで穏やかな、だけど毎日ちょっぴりにぎやかな幸せの中で生きること。
そんなふうに、今日も私は、猫たちに育てられながら、大人になっていく。